60:自由と懺悔
片頬をパンパンに腫らして学校から帰ってきた私を見て、母は無言で救急箱を出してきてくれた。
家に帰って鏡を見てびっくりしたけれど、これのお陰でカレンド先輩が早く帰れって言ってくれたんだろうなというのがわかる。
これは言うわ、酷い顔だもの。
それからスゴスゴと部屋に戻って、バウディに手当てされているのだけどね、無言がいたたまれない時ってあるじゃない。
色々やらかしちゃったからなぁ……。
我慢してたんだよ、これでも、かなり、うん。
でも、あそこまでお膳立てされてたら、やらなきゃ女が廃るってもんじゃない。
ってことで、昔取った杵柄で派手にメンチ切ったり啖呵切ったりしちゃったわけなんだけれども。
引くわよね、普通に。
魔法学校を退場して気分はすっきりなんだけれども、思いっきりやらかしちゃって、ちょっと、かなり、すごく、気が重い。
ああああぁ……就職してから封印していたのにぃぃぃ。
あの時代が黒い歴史だとは思ってないけど、ほら、TPOとか、年齢を考えて、とかあるわけじゃない。
だけどいまは、敢えて言おう。
「これで、魔法学校を退学っ! 尚且つ、念願のシーランド・サーシェルとの婚約も解消! 公爵令嬢やヒロインちゃんとの縁も終了! 万歳っ!」
「お嬢、まだ手当終わってねぇから、あんまり動くな」
万歳しようとしていた手を下ろされ、瓶からひとすくい取り出した青色のスライム状の物体を手の中で練っている。
そして薄く引き延ばしたそれを、私の腫れている頬に貼り付けた。
「冷たっ」
「そういうもんだ」
冷湿布みたいなものかな? 剥がれ落ちないし、慣れたら気持ちいいわね。
薬効もあるのか、痛みも弱まっている気がする。
救急箱を片付けている彼の横顔を盗み見ていると、蓋を閉めた彼の顔が不意にあがり視線がかち合ってしまった。
ベッドの端に座っている私と、机の椅子に座っている彼。膝が当たりそうな近距離だ。
どうにも不機嫌そうな彼が、机に肘をついてその手の甲に顎を乗せた、これは……お説教タイムでもはじまるのかしら?
「お嬢があんなにやっちまったら、俺の立場がねぇだろうが――くそっ」
低く吐き捨てられた彼の悪態に、逃げ腰になった私の手を彼が握る。
ひぇっ!
「逃げるな。いや、逃げないでくれ。怒っているのは、あなたにじゃない」
ベッドにお尻を戻したのに、彼の手は私の手を掴んだまま離してくれない。そればかりか、もう片方の手まで、私の手を握ってきた。
皮膚の硬い大きな手に包まれて持ち上げられた私の手に、彼は懺悔するように項垂れた額を押し当てる。
「呼ばれるまで待つなんて、悠長なことをした自分に腹が立ってるんだ。それだけじゃない。あなたに、あんなことまでさせてしまった。権力が無いことを、これ程悔いたことはない――」
本当に、懺悔かぁ。
あのとき、従者である彼が動くわけにはいかなかった。貴族が占めるあの場で、手を汚すのは私が適任だったし、なにより当事者である私がやらずにどうするよ?
「バウディがさせたんじゃなくて、私がやりたくてやったことだわ。まぁ、少々本性を晒し過ぎてしまったとは思っているけど……驚いたでしょう?」
バツの悪さに顔を伏せ、彼の反応を窺うように視線だけ彼に向けた。
その頬を……冷却剤の貼られていないほうの頬を、彼の手が撫でる。
「正直に言えば――」
私を否定するであろう彼の言葉を、覚悟を決めて待つ。
「――あなたの啖呵に、惚れ直したよ」
うつむいた私の耳元に、彼の柔らかな声が……ええと、聞き間違いかしら。惚れ直す、え、惚れ……っ!?
驚いてあげた顔のすぐそばに彼の顔があって、思わず飛び退こうとしたのに、膝をつき合わせている距離がそれをさせない。
「な……っ、ななっ」
顔がこれ以上ないほど熱くなり、言葉がうまく出てこない。
私の顔を見た彼の表情が、ゆるくとける。
あああああイケメンンンッ……。
椅子から腰をあげた彼が、彼に見惚れてフリーズしている私の頬に唇を寄せた。
ほ、ほっ、ほっぺにチュー!?
「え? えっ?」
そして、そのままベッドに押し倒された。
押し倒された!?
呆然と見上げるすぐそこに、ベッドに膝を乗りあげた彼が私を見下ろしている。
繋がれた片手は、ベッドに縫い止めるように顔の横で押さえつけられ、もう片方の手が私の頬を優しく撫でた。
「とうとう、今日の日を迎えることができましたね。これで、あなたは自由だ」
「そっ、そうねっ」
確認するように言われた言葉にちいさく頷くと、彼の目が獰猛に揺れ、獲物を狙う凶暴な獣のような笑みを浮かべた。
「これで、あなたが傷つけられるのを、指をくわえて見ている必要もなくなる。そして、あなたを私のものにできる――」
狂おしそうに吐き出された言葉が熱い吐息と共に唇に掛かり、呆然と開いていた私の唇に厳かに触れた。
これであなたをわたしのものに?
ああぁ、脳みそが処理を諦めてる……いやいや、諦めたらそこで試合終了よ!
もう一度近づいてきた唇を、空いている手の指先で止めた。獰猛な視線が愉快そうに揺れる。
「その前に、大事なことを忘れていないかしら?」
「大事なこと?」
指先が触れたまま喋るからくすぐったいけれど、これを退かすとまたキスされてしまう。
だからその前に、絶対に確認しなければならないことがある。
「私とレイミ、どっちがほしいの?」
きっぱりと聞けば、彼は指先に小さなキスを繰り返してから、唇の端を引き上げた。
「いまの、あなたが欲しい」
「それなら……前にも言ったと思うけれど。私、いつまで、レイミの中にいるのかわからないのよ? ――明日、消えてしまうかもしれないわ」
自分で言っていて、胸が痛む。
なのにあなたは、その獰猛な顔のまま笑うのね。
「かまわない、あなたがあなたである限り、私は自分勝手にあなたを愛するだけだ」
唇を押さえていた手をそっと除けられ、彼の唇が私の唇を覆った。
自分勝手を自称するだけあって、強引に奪っていった唇。
触れるだけのキスなのに、頭がクラクラしてしまう。
「ほ……んとにっ、勝手だわ……っ」
「そうか? これでも、心の機微を悟るのに長けているつもりなんだがな。本当はもっと深い口づけがしたいが、今日のところは傷に免じて――」
魅力的な笑みに抗えず、近づいてくる彼の微笑みに目を閉じてしまった。





