その8
痩せぎすの男は、いかにも人畜無害でございとばかりの、柔和な微笑を浮かべている。
短い銀髪が目立つだけの、どこにでもいる、村人のような姿をしている。武器は身に帯びていないようだ。まあ、その身がいったん変貌すれば、そのようなものなど必要ないのだろうが。
この男が、人狼なのだ。
俺はもっと、人間体のときでも、獣臭さがにじみ出ているものだとばかり思っていた。だが、そいつは偏見にすぎなかったようだ。どこからどう見ても、ただの弱そうな男だ。この格好のまま街に出ても、誰も正体を見破ることはできないだろう。
「お前がゾンバイスか、しかし、だいぶワン公のときと口調が違うようだが」
「変体モードのときは別人格になるよう、主から指示されていますので」
「主――なるほどな。こっちがお前本来の人格というわけか」
「そうです。あまり闘争向きの性格とはいえませんね」
そういって人間体のゾンバイス・バイバーは苦笑する。
「勿体ないな……」
俺は、そうつぶやいていた。
「でも、お陰であなたは勝利を得たのですよ?」
「それとこれとは別だ」
俺ならば、どうしただろうか。
絶対に、あの状況では諦めないだろう。
俺がゾンバイスだったならば、下から爪を振り回したり、太腿に噛みついたりと、徹底的に抗戦しただろう。だが、こいつは自ら闘いを下りちまった。
空手の世界でも、そういう奴はいたものだ。ポテンシャルは凄いものを持っているのだが、試合ではそれを発揮できないやつが。
そういう人間は、根っこの部分が優しすぎるのだ。
闘争本能が薄いと言い換えてもいい。
淡白な性格の持ち主は、勝負ごとに向いていない。それは日常に、勝負よりも大切なものがあると思っているからだ。
一方で、俺たちのような人種もいる。
負けず嫌いと、一言で片づけられる人種だ。
人生とは、敗北の連続だ。勝利ばかり得られるほど甘くはない。幾たびもの挫折を経ると、人は、負けてもいいのではないかと考えるようになる。負けても死ぬわけではない。人生は続いていく。そう、大人ぶって、自分を納得させて生きていくのだ。
「しかし、そうしないと、人は正気を保つことができないでしょう」
ゾンバイスが口を挟む。
「だろうな。だからこそ、挑む価値があると思う」
「なるほど、これは手ごわい」
人間体のゾンバイスは、穏やかに微笑する。
さぞかし、好かれる男だろうなと思う。
俺のような人種は、損しかしない。
勝利にこだわりつづけると、他人から疎まれるのだ。
――だが、負けてどうなるのだ。
敗北に幸福など、ありはしない。
そこには泥にまみれた挫折感しか転がっていない。
人間とは、忘却する生き物だ。
敗北の痛手も、やがて良い思い出として消化することができる。だけど、俺は不器用だからな。一生、その痛手を背負い続けるのだ。
トラックに揺られて10年間。忘却するどころか、その痛みは絶えず、俺の内部でくすぶり続けていたっていうわけだ。
「血を大量に失って、さぞかし空腹でしょう。――いますぐラーラに、食事を部屋へ運び込むように伝えましょう」
俺の表情に眼を注いでいたゾンバイスは、明るくそういった。さぞかし俺は、部屋よりも暗澹とした表情を浮かべていたのだろうぜ。
俺はこの際、先ほどの疑問を解消しようと考えた。
「その前にひとつ、質問があるのだが」
「なんでしょう?」
「メルンとラーラが姉妹というのは、どういうことなんだ?」
「ははあ、大量の失血で意識がないと思ってましたが、聞こえていましたか――?」
「そこまで寝ぼけちゃいないさ」
ゾンバイスは、ふと傍らのメルンに眼をやった。しかし彼女は、急にもの言わぬ石像のように表情を消し、黙りこくった。
「まあ、当人から話すのが一番いいのですが、その意思がなさそうなので、私が代わりにお答えしましょう。正直に申しまして、ふたりに血のつながりはありません」
「まあ、そうだろうな」
ラーラは獣族であり、メルンは人間族だ。
メルンの頭部からは、変な耳は生えていない。
「要するに、おふたりはヴェルダ大師匠さまの許で、ほぼ同時に弟子になったのです。ラーラが一足先に弟子になり、また年長なので、姉弟子という立場となりました」
「なるほど、メルンは妹弟子か。それで、どうしてふたりは離れて暮らすことになったのだ?」
「それは、ラーラが裏切ったから」
メルンが今まで見たこともない堅い表情で言った。
「――誰も、裏切ってなどいない」
黒い部屋の黒い扉が、開かれた。
わずかに光差す外部から、一台のカートを押して、黒髪を揺らしつつラーラが姿を現した。こちらの方はより徹底して表情がない。
血が繋がらないにしては、随分似たふたりだぜ。
ラーラは無言でてきぱきと、カートに載った食事を切り分けている。カートに載ったそれは、豚か、さもなくば猪のように見えた。そいつを丸焼きにしたものと見える。できてそう間がないようで、ほのかな湯気が立ちのぼっている。
俺の腹が猛烈な勢いで自己主張を始めた。
ラーラの手から渡されたそれを、貪るように喰らう。きちんと血抜きがされているようだ。あと、酒にでも漬けていたのだろうか。猪肉特有の獣臭はなく、ほのかな香ばしささえ漂っている。
あの傲然としたペンキ野郎が、いそいそと手料理にいそしむとは思えないから、こいつはラーラの手料理と思って間違いがないだろう。
「さて、詳しい話は、食事しながらでも聞いてください。先ほど話したとおり、ラーラ、メルン、そして私の3人は、大師匠のもとにお仕えしておりました」
「そうなのか」
俺は夢中で食事をほおばりつつ、気のない返事をする。
「それから――ジュラギも」
重苦しい空気が、このくらい部屋に充満した。
俺も食事の手を止めて、メルンを見やったぐらいだ。
「そいつは、いろいろと話が違ってくるな」
「ええ。つまり一番弟子はジュラギ様。ついでラーラ、メルンがヴェルダ大師匠のお弟子ということになります」
「ゾンバイス、お前はどういう――?」
「ああ、私は弟子というわけではありません。ヴェルダ様の身の回りのお世話をする、従僕といった役割でした」
「奇妙な取り合わせだな。それで、どうしてお前たちはヴェルダと共に暮らしていたのだ?」
「私の正体を識っているあなたなら、おわかりでしょう」
「……そういうことか」
人狼とは、人狼同士の結合では産まれないという。
あくまで、人間の女に産ませる必要があるらしい。
ゾンバイスを産んだ女性は、薬草を採りにいくと言って、ひとりで森へ出かけた。そして深夜になっても戻ることはなかった。
心配した彼女の両親が、村の若者を連れ立って探索に赴くと、彼女は森の真ん中で、下草を握りしめるような形で気絶していたという。
彼女が身ごもったのは、そのときなのだろう。
「ごらんの通り、私は呪われた怪物ですからね。村中から石もて追われ、とてもそのまま村には居られなかった。そこを救ってくださったのが――」
「ヴェルダというわけか」
「そうです。ヴェルダ様には、返しきれぬほどの恩義があります。私はみずからの一生を、彼女に尽くすことでお返ししようと誓ったのです」
「待てよ。それでどうして、お前はあんな黒ペンキ男に仕えているのだ」
「ジュラギ様のことを悪く言わないで」
給仕していた手を止めて、ラーラは反論してきた。
なんの感情もない女だと思っていたが、ジュラギに対する忠誠心は本物のようだ。それに毅然と反応したのが、メルンだ。
「姉さんは裏切り者。ジュラギと共に、ヴェルダ師匠に逆らった。逆らって、出て行って、こんな場所に城を建てた」
「大師匠さまに逆らってなどいない。私は、ジュラギ様をお慕いしている。だから後を追っただけ――」
「――それを世間では、裏切りっていうの」
ふたりの間の空気が、より険悪なものに変わっていく。
まったく、メシぐらいはひとりで静かに、自由に、豊かに食わせてもらいたいものだぜ。
『強さを求めて』その8をお届けします。
次話は翌火曜を予定しております。




