その6
凄惨なまでの血の臭気が、黒い謁見の間を満たしている。
人間は、どれくらいの血液を失えば、活きていられなくなるんだったか。
どこかで習った気がするな。
おれの朦朧とする意識は、それを考える。
体内の血液量の、およそ20%以上が失われると、出血性ショックとかいう状態になり、さらに30%以上の出血で、危険な状態になるといわれているんだっけか。待てよ、いま流れ出ているのはどれくらいの量だ。
むろん、見てわかるわけがねえ。
俺の思考回路は、その考えを中断した。
そんなことはどうでもいい。
俺がやることはたったひとつ。
このワン公を仕留めることだ。
俺がやることは、確実に、この化け物を仕留めてやることしかないんだ。それ以外の選択肢は、俺にとっては、すべてが同等に無価値だ。それにしても、このワン公、やたらと暴れやがる。
あんまり暴れると、咥えさせている俺の腕が取れちまうじゃねえか。
『待て――! それ以上、なにをするつもりだ』
と、背後から静止の声がとんだ。
俺は振り返らない。
ひたすら自分の作業に没頭している。
「決まりきったことを訊くな」
『決まり切ったこと――?』
「もう片方の目ん玉も、えぐるんだよ」
俺はその作業を続けながら、応えた。
『なにゆえ、そんな残酷なことをする?』
「白々しく、なにをいっていやがる。――そもそも、こいつを見たがったのは、手前だろうが」
『このジュラギは、そんなことを望んではいない。ただ――』
「――ただ、俺がワン公に切り刻まれる姿が見たかっただけか。笑わせるな。俺はてめえらのご希望通りには動かない。ただで敗けてやるほど、俺はお人よしじゃねえんだよ」
『その、敗けないことと、ゾンバイスの眼玉をもぐことと、どういう関連性があるというのだ――?』
俺は精いっぱいの失望をこめて、吐息をついた。
魔法使いなどという賢しげな職業に就いてやがるくせに、俺のやること一つすら、くどくど教えないと理解できないときてやがる。
「俺の片腕は、もう使い物にならねえ。――それくらいはわかるな」
『見ればわかる』
いささかむっとしつつ、ジュラギは応じる。
「片腕と、片目ひとつじゃ、つり合いが取れねえから、両目を持っていこうっていうんじゃねえか」
『どういう理屈だ――』
俺はもう一度、失望の吐息を漏らした。この漆黒のお坊ちゃんには、俺の授業は難しいようだ。だが、俺は親切だからな。いちいち教えてやることにした。
「俺の寝技のスキルじゃ、このワン公を仕留めることはできねえ。第一、片腕だ。関節のホールドができねえし、あらゆる攻撃力が半減しちまう」
そうすると、再び立って闘う必要がある。
こいつの間合いで闘わなきゃならない。
――残った左腕と、両足だけでな。
それに対し、このワン公はどうだ。
片目を失っただけで、五体満足だ。
『だから、なんだというのだ』
「まだわからねえのか。それじゃあんまりにも、戦力に開きが生じる。だからな、ここできっちり両眼を潰しておいて、俺の有利な状態へと持っていこうというんじゃねえか」
そう、諭すように教えてやると、ジュラギの野郎はおもむろに玉座から立ち上がった。そちらに目線を送ることはできねえが、気配でわかる。
不意に思い切り背中を蹴飛ばされ、俺は黒曜石の床を転がった。しまったな。目線を切ったのが、そもそものミスだ。
だが、ワン公の眼をえぐりつつ、ジュラギを相手にするのは、さすがに困難だっただろう。これだから、MMAというやつはこまる。
1体1という局面だとめっぽう強いが、多人数を相手にすると、これだ。無防備な背中をさらす格好になっちまう。そういう競技だから仕方がないんだろうが、実戦で活用するにゃ、もうちっと工夫が必要だな。
『興が削がれた。この勝負はナシだ――』
「――はあ、何を言ってやがる?」
『この勝負はお預けだと、このジュラギが言っているのだ』
「聞こえねえな――」
俺は顔に笑みを張り付けながら、ゆっくり立ち上がった。
勿論、作り笑いだ。アドレナリンが痛覚を鈍くしてくれるとはいえ、限度がある。俺は笑みの奥で痛みを噛み殺しながら、できるだけ悠然とした足取りで、ゾンバイスの方へと向かう。
「ゾンバイス、どうした、続きだよ――」
奴はまだ、先ほどと同じ位置にうずくまったままの状態で、びくりと俺の方を見あげた。まるで尾を垂れた犬ころのようだ。おいおい。たかだか目ん玉一個、見えなくなっちまったぐらいで、そのしょぼくれた面構えはなんだ。
まだ決着はついてない。
若干、不利な条件となっちまったがな。
戦力は削がれたが、戦意は衰えちゃいない。
対峙する、俺たちの視界に割って入ったのが、ジュラギの野郎だ。まるでゾンバイスをかばうように、俺の前に立ちふさがっている。
『やめよと言っているのが、聞こえぬのか!!』
「邪魔をするなよ、この黒ペンキ野郎」
『――なっ、何たる暴言を吐くか。このジュラギに向かって』
「邪魔するんなら、てめえから先に始末するぞ」
『なにい――?』
俺とジュラギとの間に、殺伐とした空気が流れた。
ジュラギはすっと腰から、一本の杖を取り出した。
そいつで呪文を詠唱するのだろう。食らえばタダでは済むまい。だが、その瞬間に、俺の正拳を口の中に叩きこんでやる。
俺はそう誓っていた。
『その状態、立ってるのがやっとであろう。正気で言っておるとは思えぬ』
俺は無言で、両腕をアップライトに構えた。
闘うという、無言の意思表示だ。
だが、ここで妙なことが起こった。
構えた右腕が、俺の意思に反して、視界を塞ぐように、ぐにゃりと拳をこっちに向けているじゃないか。
俺の拳。
痛い思いをして、ひたすら板や石を殴って、鍛えぬいてきた拳。そのせいで、ごろりと一個の石の塊のようになった、丸っこい俺の拳が無言でこっちを見つめている。
済まねえな、もうお前でモノを殴ることはできないかもしれねえ。
だが、俺にはまだ、左の拳がある。両脚だってある。
何なら頭突きだってできるし、噛みつきもアリだ。
俺は制御不可能なほど、闘志の塊となっていた。
こいつらの茶番には、腹が煮えっぱなしだ。
いくらだって闘ってやる。
ろくに高校すら満足に通っていなかった俺には、学がない。
あのざまで、よく中退にならなかったものだ。まあ最低限の補修は受けたわけだが、それにしても我ながら不思議なほどに、俺は勉学というものに背をむけていた。
そいつが俺にとって、大切なものだとは思えなかったからだ。社会で必要なことは、いろいろなアーティストの歌から学んできた。
それと、とある一冊の本から、俺は学んだ。
「老人と海」という本だ。ヘミングウェイという、舌がもつれそうな名前の作家が書いた旧い本だ。
活字なんて読んでるだけで眩暈がしてくるような俺だったが、その本はやたらと空手の師匠が勧めてくるので、しぶしぶと読んだ記憶がある。辞書を片手にな。
それからその本は、俺のバイブルとなった。
シナリオも、あってないようなものだ。
ただ、不漁続きのツイてない老人の漁師が、漁に出るだけの本だ。それだけの本を、俺は飽きるほど読み返した。
仕事から帰ると、俺は食器棚からでかいジョッキを取り出し、ウィスキーと氷の塊をぶちこむ。そしてベッドに腰かけながら、ジョッキを傾けつつ、その本を読むのが決まりだった。
そんな本を、なぜ俺は気に入ったのだろう。
理屈じゃないのかもしれない。
よくわからないが、ただ俺が好きな場面がひとつある。
瀬戸際まで追い詰められた老人が、叫ぶ場面だ。
「人間は負けるためにつくられてはいないんだ」
と、老人は叫んだ。
「人間は殺されるかもしれない。けれど、負けることはないんだ」
そう、老人は叫ぶ。
この言葉を読むために、俺はこの本を読むのかも知れなかった。いま、俺の置かれている状況がまさにそうじゃないか。ここで俺は死ぬのかもしれない。だが、たとえ、肉体は滅んだとしても、闘う魂だけは示してやろうじゃなねえか。
――なあ、そうじゃないか。メルン。
まずいことに、視界が霞んできやがった。
出血量の限界ってやつがきたのか。それならば、動けなくなる前に一撃を見舞うしかない。闘いながら死んでいってやるんだ。
俺が、竹馬の歩みのように頼りなく、一歩を踏み出したときである。ひとりの少女が俺の前に立った。こちらへ背中を向ける格好で。
「メルン、邪魔だ――」
俺の短いセリフを黙殺し、メルンは俺の前に立ち続けた。
彼女の顔は、ジュラギのほうを見てはいなかった。当然、ゾンバイスの方を見ているわけでもない。メルンがまっすぐ視線を送り続けている相手は、ラーラだった。
「姉さん、ボガードを助けて――」
メルンは、そう言った。
『強さを求めて』その6をお届けします。
次話は翌火曜日を予定しております。




