その1
清掃人たちの動きは迅速であり、激闘の痕跡はすべて消え去っていた。この身に刻まれた痛みと疲労感だけが、あれは夢ではなかったのだと語りかけてくる。
どこからともなく、美しい女性たちが現れ、くすくす笑いながら俺の頭上を飾り付けている。オリーブの枝葉でつくられた冠を被せられているのだ。
こいつが優勝者の証というやつだろう。
いつの間にか現れた、グラハム・ヘンダーランドが俺の隣に佇立し、神妙な顔つきをしている。王の有難い祝福の言葉が頭上から降り注いでいるからだ。
いろいろと長ったらしくしゃべっていたのだが、正直、まるで俺の頭には入ってこなかった。激闘の代償は大きかった。肉体は限界に近い。立っているのがつらかった。
アキレスの巨体は、もうアリーナのどこにもない。すでに清掃人たちから片づけられてしまったようだ。俺は少しだけやつを羨んだ。
俺もとっととこんなまどろっこしいセレモニーみたいなものを吹っ飛ばして、宿へと戻りたい。そんなことを漠然と考えていたせいだろう。俺は王の問いかけを聞きそびれた。
「――なにを望むか」
王の長いスピーチは、その言葉で締めくくられた。俺は返事に窮して、横目でグラハムを見た。彼は笑いを堪えている表情で、足元を睨んでいる。どうやら自分で応える必要があるらしい。
「とりあえず今は、泥のようにベッドで眠りたい」
素直にそう答えた。
もしかしたら頓珍漢な返事だったかもしれないが、まぎれもない本心だった。たとえ両手で抱えきれぬほどの金貨を頂戴するより、ただただ今は休息が欲しかった。全身に刻まれた傷と痛みは1ダースじゃきかない。このボロ雑巾のような身体を安らげたかった。
「ははははは、なんたる無欲な男よ」
王の快活な哄笑がアリーナまで響いた。
どうやら不快には感じなかったようだ。
「――そなたの祝勝会は後日行うこととしよう。いまはゆっくりと休むがよい」
「はい、ありがたきお言葉、感謝します」
皮肉でもなく、そう答えた。疲労の極に達すると、アイロニーとかいう奴はどこかへ飛んでいくものらしい。次いで、3位であるグラハムにも労いの言葉がかけられた。心の裡で、俺は速く終わってくれとひたすら念じていた。
やがて退場の瞬間が訪れた。俺はグラハムに倣って、胸に手を当てて片膝をついた。その状態から立ち上がるのにかなりの時間を要し、最終的に俺はグラハムの肩を借りて退場することとなった。まったく、無様の極致だ。
「ボガードの旦那、こいつはひとつ貸しさあ」
「すまないな。あとはよろしく頼む」
「よろしく頼むって、えっ、おい――」
残念だが、俺はもうグラハムの苦情を受け付けることはできなかった。ゼンマイのネジが切れたのだ。意識が遠くなり、景色が暗転していく――
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ああ、またお前か。
俺は漆黒の闇の中で、そうつぶやいていた。
こうした状況に陥ることに、俺はもう慣れていた。例のごとく、俺の眼の前には見慣れた怪物――人喰虎の奴が、にたにた笑いを浮かべて座っている。
「久しぶりと挨拶したほうがいいか」
『いいさ、お互い堅苦しいのはナシにしようかね』
気安げに人喰虎はそういった。
「しばらく、出てこなかったな」
『あんたが目的に向かって突っ走っていたからさ。ひたむきにね』
「俺が道に迷ったとき、お前が現れるというわけか」
『そういうことになるのかね』
人喰虎の言葉は、相変わらず飄々として本心がつかめない。単なる夢のはずなのだが、俺はこのおしゃべりな人喰虎に全幅の信頼を寄せているらしい。
「俺は大会に優勝した」
『そうだね、いまのあんたは誰もが認めるフランデル王国最強の男さ』
「確かにここまでの道のりは平坦なものじゃなかった。アキレス、グラハム、いずれも強い相手だった。だが――」
『あんたの目標としている相手は、そんな次元にいる男じゃない。そういいたいんだね』
そうだ、俺は遂に念願の拳闘大会の優勝を果たした。10年間のブランク――紆余曲折を経て、この手に栄冠をつかみとった。あちらの世界じゃ成しえなかったことだ。
誇らしい気持ちもあるが、何かが足りないという気もしている。
『ソウゲツに勝ってないからだろう』
「……そのとおりだ」
俺が空手を諦めたのは、神田蒼月という巨大な存在がいたからだ。彼が空手世界一の座に就いているかぎり、俺は決して世界一になれない。俺とやつの間には、大河のように横たわる広大な実力差があるのだ。
臆病風に吹かれてそんなことを言っているのではない。実際に幾度となく拳を交えた実体験によるものだ。
あの崩壊寸前の古城で、ふたたび俺は蒼月と拳を交えた。やはり勝つことはできなった。いや、それどころか、両者の実力差は残酷なほど離れていた。当然だろう。
俺が空手から離れて10年。やつはもともと天才的だった空手の才能を、驕ることなくますます磨き上げていた。
努力は嘘をつかない。これは俺の座右の銘のようなものだが、それを実際にやってのけたのが蒼月だ。俺はトラックのアクセルを踏んで、どこか知らぬ遠くへ逃げようとしていたのだろうか。
『あんたは色々と悲観しすぎさ』
「そうかな。現実のことだが」
『今回、あんたは優勝した。それは、この世界に堕ちる前のあんたには可能だったことだろうかね』
「……いや、到底無理だった。俺はこの世界で、数え切れぬほどの修羅場をくぐってきた。その経験があった。そして、ヴェルダからもらった視力回復薬があった。このふたつがなければ、とても優勝など不可能だったろう」
『そうだろう、つまり、あんた成長しているんだ』
「このトシで、成長しているっていうのか」
『でなければ、説明がつかないだろう。あんたは強くなっている。異世界に堕ちる前より、はるかにね』
「そうか、俺にはまだ、先がある――」
『そうさ。今回優勝したことで、あんたはちやほやと持て囃されることだろう。だが、本来の目標を見失っちゃ駄目さ』
「また奴と闘うことができるだろうか」
『――さて、あんたはどう思うんだい』
蒼月は俺のことに、異常に執着している。それだけは間違いない。砂漠のように乾いた闘争本能を満たすことができるのは、俺だけだと奴が思い込んでいるからだ。
それに、やつが人にものを教えることが致命的に下手だということもある。天才肌の蒼月は、自分ができることは、誰でもできて当たり前だと思いこんでいる。だから初心者は風をくらって逃げてしまう。
自分をサポートしてくれる人材としても、俺が必要だと考えている。
「……間違いなく、また奴は現れるだろうな」
『わかっているじゃないか。それなら、あんたがやらなければならないこともわかっているね』
「ああ、わかっている」
いずれやつは、再び俺の前に姿を現すだろう。
その瞬間に備えて、俺は慢心することなく己を磨き上げることに専念しなければならない。俺と仕合ったあのとき、やつは泣いた。
俺の弱さに泣いたのだ。
もう、あんな屈辱を受けるつもりはない。今度はやつと同じレベルまで達してみせる。あいつの澄ました顔面に、俺の拳を埋め込んでやるんだ。
『その意気だよ』
人喰虎はにやにや笑いを浮かべたまま、徐々にその身が闇に溶けていく。俺の身体もそうだ。夢から醒めようとしているのだ。
「――師匠、眼を醒ましてください!」
間近に聞こえたその言葉で、俺は重い瞳を開いた。
そこは――
今回から新章突入です。
次話は翌月曜日を予定しております。




