11-1:守りたい人
宮殿の奥へ進むにつれて、アーユイの表情は険しくなった。
「その角を曲がったところが、姫の寝室かな?」
「よくわかったな」
「わかるよ。さっきから呪い臭くて仕方ない。どんどん強くなってる」
「呪い? ……そうか、道理で医者が手を尽くしても、良くならないはずだ……」
そして角を曲がると、兵士が険しい顔で両脇に立ち、警戒する扉があった。
「フーヤオ様?」
異国の地にいるはずの上司が突然現れ、兵士は驚きを隠さなかった。
「聖女様が来てくださった。入るぞ」
「え!? で、ですが……」
「初めまして。ご挨拶が後になる無礼をお許しください。それと、各所への報告は少しだけ待っていただけませんか」
男装の旅装束でも優雅な所作と微笑みは、武人を説得するには十分だった。
先にフーヤオが入り、年老いた医師に簡単に事情を説明する。
医師はすぐに理解し、アーユイに椅子を譲った。
「……失礼します」
アールの姫は、まさに命の灯が消えかけている状態だった。
本来なら一番瑞々しい時期であるべき肌からは水分が失われ、青白く血管と骨が浮いていた。
頬は痩け目は落ちくぼみ、血の気のない唇はカラカラに乾いている。
元は黒かったはずの髪には白髪が交ざっており、とてもではないが、アーユイたちと同年代には見えない。
薄く上下している胸元で辛うじてまだ死に抵抗していることが窺えるだけで、目を開けることはおろか、身じろぎ一つしない。
あまりの痛々しさに、ロウエンは思わず顔を背けたくなる。
「これだけ強い呪いとなると、何が起きるかわからないな。それに、姫に近づけた立場の人間に返る可能性が高い。覚悟してくれ」
エンネアの王太子妃に掛かっていた呪いの比ではない。混乱が起きることは間違いなかった。
「……わかった」
「念のため、邪魔が入らないよう結界を張ります。部屋から出入りできなくなりますから、気をつけて」
二人と医者が頷くのを確認すると、腕を振った。
キン、と早朝の湖に張った氷を思わせる澄んだ音色が聞こえ、廊下から覗き込んでいた兵士との間に透明な境界が現れる。
そしてアーユイは姫の手を握り、祈った。彼女の体調が回復するように。苦しみから解放されるように。
と、姫の身体が淡く優しい光に包まれた。
「っ! なんだ!?」
同時に、地の底から響くような、唸り声とも悲鳴ともつかない音が部屋中に響き渡った。
「呪いの根源だ!」
少女の身体からおびただしい量の煤のようなものが吹き出し、渦を巻いた。
「結界を解いた瞬間に、術者に返るぞ!」
複数の蛇が絡み合うような動きを見て、アーユイは指示を飛ばす。
唸り声のせいで他の音が聞こえづらく、珍しく声を張り上げていた。
「煤に襲われた奴が、姫に呪いをかけた奴だ! 複数いる! 方向がわかるだけでもいい、外の兵士に追わせろ!」
言っている間にも、バン! と蝶番が壊れる勢いで独りでに扉や窓が開き、複数に分かれて飛び去ろうとする。
「アーユイは?」
「私は一番大きな煤を追う。この規模だ、きっと魔物になる」
炎神から言われたことを反芻する。術者を喰らい実体を得る呪いのこと。
「お医者様、巻き込んで申し訳ございません。怖いでしょうが、姫の容態を診ていてください」
天井でどんどん巨大になっていく煤の下、頭を抱えて怯えている医者を奮い立たせ、自分が座っていた椅子に腰掛けさせる。
「僕は何をしたらいい?」
「ロウエンは、フーヤオと一緒に姫の警護を頼みます。お医者様、大丈夫です。彼らが貴方のことも護りますから」
「俺も煤を追う!」
フーヤオが慌てた。姫に一番大きな呪いを掛けた人間を、その手で捕まえたい気持ちはわかる。
が、アーユイは首を振った。
「ダメだ。こんなに気の長い計画を企むような奴なら、この煤の先にはいないよ。他の人間を操って姫を呪わせて、自分は安全な位置にいるはずだ」
「じゃあ、どうやってそいつに辿り着けばいいんだ」
「今、十六年越しの暗殺計画は失敗した。もしも呪い返しから生き残った人間が一人でもいたら、自分が首謀者であることがバレる。お前ならどうする?」
「まさかアーユイ、わざと――」
フーヤオは察する。睨んだだけで人を殺せそうな切れ長の目は、慈愛に満ちた聖女ではなく、暗殺姫・アーユイ・アインビルドのものだった。
「大切な姫なんだろう。お前の手で護るんだ。絶対に」
アーユイは最後に微笑むと、フーヤオの厚い胸板を拳で小突いた。
「それじゃ、また後で」
いよいよ肥大化した煤は、結界が解かれた瞬間、爆発するように部屋を飛び出した。同時に、アーユイも軽やかに窓の縁を蹴った。
風通しの良くなった部屋の中、呆気に取られるフーヤオの表情を見て、ロウエンはようやく気付く。
フーヤオの想い人はアーユイではない。彼の主である姫だったのだと。




