10-1:嫉妬心
アーユイが人知れずアインビルドの仕事をしている頃、ロウエンは『恋愛対象として見られていない』という母の言葉を噛みしめていた。
そして、追い打ちをかけるように事件は起きた。
隣国アールから、聖女の元に使者が来たのだ。
式典の前にエンネア入りする他国の使者は、他にもいる。
アーユイはそれが今やるべき仕事ならばと割り切って、嫌な顔ひとつ見せずに交流している。
各地が用意した花婿候補の方々に余計な気を持たせないよう、さっぱりとした対応だ。
が、アールの使者は、居室の外までアーユイが迎えに出てきて親しげに話していたと、偶然目撃した隊員が慌ててロウエンに伝えに来た。
「聖女様、本当に私の申し出を受けてくださるのですか」
ロウエンが駆けつけると、まだ二人は話し込んでいた。
アーユイやリーレイと同じ黒髪を短く刈った、逞しい体つきの若い男だった。
実直さがにじみ出る精悍な顔立ちに穏やかな笑みを浮かべ、アーユイもまた朗らかに笑い返した。
「そう畏まるな。知らない仲じゃないんだから」
「はは、アーユイが相変わらずで良かった」
素に近い口調のアーユイの言葉からの、呼び捨て。
「うん? 王子、どうしたんです?」
気配に聡いアーユイは、すぐにロウエンの来訪に気付いた。
「王子、ですか?」
「ああ。エンネア国王の次男――第二王子の、ロウエン様だよ」
するとアーユイと親しげな男は、片膝を突いて頭の前で手を組み、アール式の敬礼をした。
「初めまして、ロウエン王子殿下。フーヤオと申します。この度の聖女様への急な来訪、どうかお許しください」
「聖堂の敷地はピュクシス教会の持ち物です。私は偶然通りかかっただけですから、失礼なのはむしろ私のほうです。顔を上げてください」
フーヤオの慇懃な態度に思わずロウエンも恐縮する。偶然ではないだろう、とアーユイの後ろに控えたリーレイが視線を送っていた。
「王子、ちょうど良かった。これから話をしに行こうと思っていたんです」
「話……?」
一人暢気なアーユイの前置きに、ロウエンは嫌な予感がした。
「急なお願いで申し訳ないのですが、明日から一週間ほど、外出許可をいただけないでしょうか。彼に付いて、アールに向かわねばならないのです」
「え」
雷に打たれるとはこういうことだろうか。固まったロウエンを見て、リーレイは呆れていた。
「付いて、行く?」
「できる限り早く戻ります。彼の頼みを聞いてあげたいと思いまして」
今まで、軟禁されても長旅を強いられても大したわがままを言わなかったアーユイが、他の男のために無理を通そうとしている。ロウエンは混乱する一方だった。
と、突然目の前でパチンと手を叩く者がいた。
「王子。体調が優れないのですか。隊員の方を呼びますか」
まさかのリーレイだった。アーユイが意外そうな顔をしている。
その言葉で正気に戻ったロウエンは、咳払いをして姿勢を正した。
「ありがとう、大丈夫です。……詳しい話を伺ってもよろしいですか?」
聖女の居室は、応接室とダイニング、寝室が分けられた広い部屋だ。
上等なソファに三人が腰掛け、アーユイの後ろにリーレイが控える。
「なるほど……。アール王室のご息女の体調が優れず、日に日に衰弱しているのを、聖女様に診てほしいと」
「はい。本来なら聖女誕生式典の後、落ち着いてからお願いすべきことだとは承知しているのですが……。姫の容態が、一刻を争うほどに悪化しているのです」
フーヤオは、膝の上でぐっと手を握りしめた。
「ここに来るまでにもいつ悪い知らせが来るかと、気が気ではありませんでした。そこでアーユイ――聖女様と面識がある私が使者となり、お願いに来た次第なのです」
また呼び捨てにした。ロウエンのこめかみが少しだけ動いた。
「面識があるというのは?」
「私の母とリーレイが、アールの出身だというのはご存じでしょう? 彼は母の実家の近所に住んでいて、里帰りした際によく遊んでいたんです」
幼馴染という奴ではないか。ロウエンは内心でとても焦った。
「驚いたよ。フーヤオがアール王室付きの使用人になっていたなんて」
「俺も、まさかアーユイが聖女に選ばれるとは思っていなかったよ」
フーヤオはおそらく、アインビルドの家業については何も知らない。
「……だから、またとないチャンスだと思ったんだ」
他国に先んじて聖女を国の中枢に招くことに成功し、姫の命を救ったとなれば、フーヤオのこれ以上ない功績になる。昇進どころか、勲章や爵位を授かってもおかしくない。
「遠路はるばる頼ってきてくれたんだ。私なんかが協力できるなら喜んで、というわけです」
「ただでさえ忙しい時期に、不躾なお願いだとは承知しています。ですがそこをなんとか」
ロウエン自身、アール王室の姫が病弱だという話は、聞いたことがある。フーヤオは見た目の通りに誠実な人柄なのだろう。
純粋に自国の姫を心配しているだけで、アーユイをアールに取り込もうとか、そんな野心は見受けられなかった。
「……行くなって言っても行くんでしょう、お転婆の聖女様は。僕の役目は父や大臣たちの説得だね」
フーヤオに張り合うように口調を崩し、ロウエンは肩をすくめた。
「さすが王子。頼りにしています」
ぱっと悪戯をする子供のような笑顔を向けられたら、もはやロウエンは彼女の仰せのままにするしかなかった。
そういう自由で頑固なところも含めて惚れているのだ。なるべく彼女のやりたいようにしてやりたかった。
「しかしアーユイ、さっき一週間って言ってたけど、そんな短時間じゃ戻って来られないぞ。騒ぎになるんじゃ……」
エンネアとアールは隣り合っているが、普通に移動すればどんなに急いでも国境まで行くだけで五日は掛かる。だが、
「大丈夫だよ。聖女の権能を活用してみたいと思っていたところなんだ」
「権能……?」
行ったことがある場所になら転移できるということは、即ち母ユイファの実家までなら、アーユイは転移できる。そこから王都に行くのに恐らく三、四日程度。帰りはエンネストにまっすぐ転移できるので気にしないとして、何かあった場合の予備日を含めて一週間、というわけだ。
「聖女様にはそんな力まで……」
話を聞いたフーヤオも、驚きを超えて呆れている。
だが、しかし。
「聖女様、一つだけ、僕からも条件を出していい?」
「何ですか?」
「……僕も連れて行って」
エンネアの影であることを自負する彼女が約束を破ることは万が一にもないとは思うが、もしもフーヤオや他の知り合いが彼女を引き留めたら。――フーヤオが、アーユイに言い寄ったら。
それだけは絶対に阻止せねばならない。生まれて初めて嫉妬の感情に燃える王子を、アーユイは不思議そうに見ていた。




