5-5:温泉
アーユイが温泉という言葉に予想以上に食いついたのには驚いたが、こんな小さな町のことをロウエンが知っていたのは、彼も温泉が好きだったからだ。
そして、よく働いた後の温泉は格別だ。タオルと、借りた風呂桶を持って、意気揚々と日が暮れた教会へ向かった。
「温泉、いただきます」
節約のために最小限の灯りだけの教会の中、ロウエンは騎士隊員と話す町教会の司祭に声を掛けた。
「どうぞ! ごゆっくりなさってください!」
聖女一行が立ち寄った湯となれば、町の名所になることだろう、と司祭はほくほく顔で見送る。
それから、
「あれ? 聖女様と侍女様って、もう上がられましたっけ……」
修道女の何気ない呟きで、聖女の警護のためにそこにいたはずの隊員共々、蒼白になった。
***
熱めで乳白色の湯は、少しとろみがあって、さらさらと肌に馴染んだ。
「やっぱり広い風呂は良いな」
肩まで浸かり、アーユイは珍しくふにゃふにゃとした顔をしている。
「ええ、特にこちらのお湯は好みです」
リーレイはいつも通りの無表情だが、すいすいと端まで泳いでいくところを見ると、彼女もお気に召したらしい。
「これで酒でもあったら最高なんだけど」
「亜空間でしたっけ。どこかで調達して、持ち込んでおくべきだったのでは?」
一瞬、辺りがしんとなった。
アーユイは、覗き防止の高い壁と雨除け以上の役割は果たさない簡素な屋根の間から、湯気が抜けていく様子を眺める。
「その手があったな……」
今頃思いついても遅い。
「待てよ、逆にこの湯を亜空間に持ち込むというのは?」
「他に入れているものが水浸しになる可能性は?」
「大丈夫そうな気はするけど……」
真剣に馬鹿な算段を立てていると、不意に出入り口のほうに人の気配があった。
「うん?」
アーユイたちは知った気配に首を傾げ、
「温泉、温泉、うわぁっ!?」
満面の笑顔から怪物に出会った時の顔になったロウエンが、足を滑らせて転びそうになった。
「聖女様と侍女さん!? 今入っていらしたんですか!?」
どうにか堪えて、近くの岩に手を付く。
「外に警護の騎士様がいなかった?」
「あいつかあ……」
こんな時間に教会で何をしているのかと思ったが、温泉に浮かれて気にも留めなかった。
「大変申し訳ございません、覗くつもりはなかったんです。出直してきます」
ロウエンはなるべく二人のほうを見ないようにしながら引き返そうとする。だが、
「別に構わないよ。湯船は広いし。また服を着て外で待つのも面倒だろう」
アーユイは何でもないことのように言い、こいこいと手招きした。
「えっ」
長い髪を後頭部にまとめ、腰にタオルを巻いただけのロウエンはしばし逡巡する。そして、
「……お言葉に甘えてもよろしいですか」
まだ冷える夜の空気に屈した。
***
顔が熱いのは湯の温度のせいだということに、してもらえるだろうか。
ロウエンは肩まで浸かり、ぐるぐると考えた。
「王子も、温泉を随分楽しみにしてたんだな。隊員がいるのを見逃すなんて」
くくくと笑う度に揺れる肩の白さと細さに、ロウエンは思わず目を逸らす。
いくら鍛えていても、やはり骨格は女性だ。
「本当に、気が緩んでたよ……」
「まあ、それは今頃表で慌てている隊員もお互い様じゃないか」
いくら王子とはいえ、聖女の入浴中に男の侵入を許すなど、打ち首ものではないだろうか。
「侍女さんたちは、男が一緒に風呂に入っていても、気にしないのですか」
面白がるばかりであまりにも気にしていなさそうなので、ロウエンのほうから訊ねた。
「男のふりをしてどこかに潜入することもよくあるし、任務の最中なら、着替えも雑魚寝も男女同室なんてこともざらにあるからな……」
アーユイはそう言いながら、リーレイのほうを一度見た。
「まあ、下心があるなら即座に昏倒させているところだけど、ロウエン様だからね」
ジト目で見ている侍女に気付き、おそらく自分の感覚がおかしいのだと思い直して、わざとらしく咳払いした。
「悪気がないのはわかっているし、警護の一環ということで許そう」
「丸腰ですよ。警護も何もあったものでは」
「なら、私が王子の護衛だ」
いたずらっぽく笑って目を細めるアーユイに、ああこれが、いくつもの顔を使い分ける彼女の素なのか、とロウエンは察した。
初めは、両親から伝え聞いたおとぎ話だった。王家に忠誠を誓い、王家の敵を秘密裏に屠る一族のこと。
次に聞いたのは、その一族にロウエンとそう変わらない歳の優秀な娘がおり、【暗殺姫】と呼ばれていること。
そして初めてその姿を見たのは、娘が聖女に選ばれ、謁見の間に通された時のことだ。
彼女の所作は彼が見てきたどの姫よりも洗練されていて、本当に人を殺めたことがあるのかと疑ってしまうほどだった。
それ以来、聖女姿の時にはヴェールで顔が見えず、偽侍女姿の時にはリーレイと似せた化粧をしているため、ロウエンがアーユイの素顔を見るのは初めてだった。
――かわいい人だ。
女性としては高い身長、貴族の娘にあるまじき短い髪、時には視線だけで射殺せそうなほどに鋭くなる錆色の目。
彼女が男だったならさぞや、と騎士隊の中でも度々話題になっていたが、アーユイという人間の美しさには、性別などさしたる問題ではない。
だが垣間見えた少女の表情が、ロウエンの胸の奥を微かに刺した。
常々抱えていた憧れの感情とは違う、いや、彼女のことを知る度に憧れの下で少しずつ育っていた感情にとうとう気付いてしまったロウエンは、途端にアーユイの顔を直視できなくなった。
「さて、そろそろ出ようかな。あんまり長湯すると、後に迷惑だろう」
「はい」
「えっ!」
まさか裸、と思ったが、
「王子も、のぼせないうちに上がった方がいい。顔が真っ赤だ」
もちろんアーユイたちは、白い湯で見えなかった胸から下に、湯浴み着をしっかり着ていた。
ただし、濡れてぴったりと肌に張り付いた湯浴み着の形から、アーユイとリーレイ、背格好の似た二人の決定的な違いを、ロウエンは知ってしまった。
「普段は潰してたのか……。それもそうか……。きっと彼女なら、邪魔だって言うだろうからな……」
誰もいなくなった湯船に鼻下まで浸かり、ぶくぶくと呟く。
アーユイの胸元は、控えめなリーレイとは裏腹に、大変たわわに実っていた。




