昔の話 迷子
道に迷った。
迷ったのは外の、見知らぬ土地でというわけではなく、城の中で迷った。
アリアスは、現実から目を逸らしようもなく、途方に暮れかけていた。
「…………」
最初は、ここはちょっと見たことがない場所だ、くらいから始まった。
では来たほうに戻れば、きっと覚えがある場所に戻ると信じて――気がつけばこうなっていた。
今や、見覚えがありそうで見覚えがない通路にぽつん、と一人だ。
夕暮れ時、日が反対方向にあるのか、光が射し込まない廊下は暗めだ。おまけに人もおらず、静か。
片側に扉が続いているが、動く気配はなく、中に人がいるような部屋ではないのかもしれない。
今になって道を聞こうにも、誰もいないという有り様で、アリアスは立ち尽くす。
これ以上動いては、もっと知らない場所に迷いこむ気がした。だからと言って、誰かとはぐれたわけではないから、探しにきてくれる保証はない。
心細くもなってきて、どうしようかと思っていた。
そんなとき、だった。
「おい」
周りが暗い以上に、目の前が暗くなっていたアリアスははっとした。
下を見つめていた顔を上げると――物音がしなかった部屋の一つから出てきたらしき人がいた。
知らない人だ。
だけど、少し安心した。一人じゃなかった。もしかすると、自分一人の世界にでも迷い混んでしまったのではないかとばかりに人気がなかったのだ。
扉を閉めた男性は、アリアスを見つけて、不思議そうに歩み寄ってくる。
「……一瞬、とうとう幽霊でも出たかと思ったが、子どもだな。チビッ子、こんなところで何してる」
小さなアリアスに目線を合わせるようにしゃがみこんだ男性に、尋ねられる。
お城には、悪い人はいない。
アリアスは、会ったばかりではあるが、親切そうな男性に困った状況を打ち明ける。
「あの、道に、迷いました」
「迷った? ……あー、無理もないよな。城は広いからな」
そう、城は広い。広すぎる。
当然アリアスが見たことも、体験したこともない大きさと広さをした建物は、すでに今まで何度も迷子になっているくらいには広い。
だから兄弟子にも、あまり慣れた場所からは離れすぎないようにと言われていた。
初対面の男性の同意が得られ、アリアスは頷いてしまう。
一方、男性はアリアスを見て、何事か呟く。
「こんな子どもがここにいるとなると、誰かの弟子。……なんて、今知ってる限りではルーウェンくらい――あ、そういえばジオ様が子どもを連れて帰って来て弟子にしたとか聞いたな……」
知っている名前が聞こえた気がした。
「おまえ、ジオ様のところの子どもか?」
「はい」
間違いなく師の名前が出てきて、アリアスはさっきと比べると気分が軽くなる。
「師匠を、知っているんですか?」
「知ってるも何もな。迷ったんだったな。ジオ様の部屋に戻ればいいのか?」
アリアスは大きく頷く。
「じゃあオレが連れていってやる」
「あ、ありがとうございます」
「はは、しっかりした子どもだな。じゃあ行くか」
親切な人は、すんなりと案内してくれると言って、アリアスを促して歩きはじめた。
「……ジオ様の部屋って、たぶん最高位の魔法師の部屋がある辺りだよな。まあ、何とかなるか。分からなければ、ジジイに聞けばいい」
男性の足取りは迷いがなく、アリアスは離れないようにと、ついていく。
しばらくして、視線を感じて見上げると、男性のはしばみ色の目が、アリアスを見ていた。
「しっかし、こんな小さいときから弟子か」
「?」
「そういえば、ジオ様の弟子と言えばルーウェンだよな」
「ルーさまも、知ってるんですか? 」
「まあな。あいつがジオ様の弟子になった頃には、オレはここにいたからな。そういえば、ルーウェンは弟子入り志願したとか何とか言ってたが、あいつの歳で自分からってのは中々ないよな」
たぶんルーウェンに関して喋っていた男性が、ふとまたアリアスを見る。
「この歳でって……」
何かに気がついたように、その人は一旦口を閉じた。足が、止まる。
だからアリアスも何だろうと思いながら、足を止めて、男性を見上げた。
彼は、じっとアリアスを見ていた。気のせいか、さっきより静かな目で。
「……おまえ、家族はいるのか」
唐突な問い。
アリアスは、胸を、何かで深く刺されたようになった。
ぐっと息が詰まり、無意識にぎゅっとスカートを握り、思わず俯いた。
――家族は、いるのか。
いない。いなくなって、アリアスは家を出て、ここに来た。家族は。
「あー無神経に聞きすぎたな。悪かった悪かった」
急に、体が浮いた。
身に覚えのある感覚で、案の定、時折兄弟子にされるように、抱き上げられていた。
ただし、現在そうしているのは兄弟子ではなく、さっき出会ったばかりの人だ。男性は、アリアスのことを覗き込む。
「泣くな」
「……泣きません」
泣かない。
出会ったばかりの人の前では、そう、なおさら泣かない。
そう思うのに、じわりと目が熱くなってくる。
「あ、ほらお菓子やる。お菓子」
アリアスを片腕で抱き上げている人は、ズボンのポケットをごそごそしたかと思えば、アリアスの手のひらに何かを握らせた。
手のひらを開いて、アリアスはぽかんとする。お菓子。
男性を見ると、彼はどうだ?というように首を傾げた。
「……お城の人は、みんなお菓子をもっているんですか?」
兄弟子をはじめとし、他の魔法師の人や、庭師の人、知り合った人はみんな時折お菓子をくれる。なぜだろう。
じわり、じわりと甦りかけた感情が収まり、不思議と目の熱が引いて行く。
「え? いや、偶々だが。……ああ、なるほどな」
男性は察したように頷き、アリアスが泣きそうな気配がなくなったことで、「ごめんな」と謝って、そのまま歩きはじめた。
「詳しい事情は分からないが、実はオレも経緯的には似たような感じでここに来てる」
「けいい?」
「オレはな、ジジイ――今の師匠に拾われたんだ。一緒に来いって」
この人にも、師匠がいるらしい。
その言葉を聞いて、一緒だ、と思った。師はアリアスに一緒に来るように言った。兄弟子も、一緒に来ないかと言った。
「そういえば、おまえ、名前は何だ? あぁ、オレも名乗ってなかったな。オレはサイラスだ」
「サイラスさま」
「様はいらない」
いらないと言われても、城にいるのは大人たちばかりで、偉い人がたくさんいる。
兄弟子にもそうなのだが、基本的に「さま」をつけることにしていた。
「わたしの名前は、アリアスです」
男性は、アリアスな、と確かめるように声にした。
「アリアスはここに来て、良かったか?」
「良かった?」
「楽しいこととか、嬉しいこととか、そんなことでいっぱいかってことだ」
アリアスは考えた。
城に来てから。見たこともない場所、体験したことのないこと。たくさんのことに出会い、人に出会った。
そのすべての人が優しくて、温かかった。
「はい」
「そうか。じゃあ、師匠は好きか?」
「師匠ですか? ……ちょっとだらしないところもありますけど、すきです」
「へぇ、だらしないのか。うちのジジイはきっちりしすぎなんだよなぁ」
「サイラスさまは、お師匠さまが、嫌いなんですか?」
「いいや? 厳しいし口うるさいところもあるが、感謝してるから、まあ好きな方なんだろうな」
サイラスの師匠は、どのような人なのだろう。
「アリアス」
「はい」
「赤の他人でもな、家族みたいにはなれるものだぞ」
わしゃわしゃと、髪をかき混ぜるように撫でられた。
「ここが、おまえにとって安らげる場所になって、何か見つけられる場所になるといいな」
頭がぐしゃぐしゃになったアリアスが、その穏やかな声音に見た彼は、「伸び伸び暮らせってことだ」と笑った。
「おっ、あれルーウェンじゃないか?」
「――あ」
本当だ。
サイラスの目が向いた前方を追いかけると、そこに、ルーウェンがいた。兄弟子はまだ気がついていない。
「ルーウェン」
サイラスが呼びかけて、兄弟子は振り向いた。
「サイラスさん」
「探しているのは、この迷子だろ」
「アリアス。――道に迷っているんじゃないかと思っていたんです、ありがとうございます」
「いい兄弟子だな」
下ろされるのではなく、アリアスはそのまま兄弟子に渡された。
その途中、サイラスが言う。
「悪いな、ルーウェン。ちょっと無神経に聞きすぎて泣かせかけた」
「え」
「泣いてません」
兄弟子に見下ろされ、アリアスはふるふると首を横に振る。泣いてはいない。
アリアスを見ていたルーウェンだったが、アリアスを腕に、サイラスに向き直る。
「サイラスさん、ありがとうございました」
「いいや、これくらいついでだ。――じゃあなアリアス」
「サイラスさま」
「何だ?」
「また会えますか?」
「会えるんじゃないか? オレは部屋に籠っていたり外にいたりまちまちにしろ、城にいるからな。次は迷子じゃないときに会えるといいな」
ひらひらと手を振って、サイラスは去っていった。
不思議と、また会いたいと思う人だった。
「アリアス、大丈夫か?」
ルーウェンは、腕に抱いたアリアスの顔を覗き込むようにした。心配そうだ。泣いていないというのに。
兄弟子は、ときどきこんな顔をする。
アリアスは「大丈夫です」と答えて、手のひらにあるものを思い出して、報告した。
「お菓子をもらいました」
これが、サイラス=アイゼンとの出会い。
やがて彼は城を出るようになり、会わなくなる。その前の話。
サイラスも基本的にはいいお兄ちゃんです。




