35 安心する言葉
大丈夫であるはずがなかった。ゼロに強がる強がらない以前の問題で、もう、色々なことが起こりすぎて、極めつきがあれで何もかもが絡まり合って。
一体どうすればいいのか教えてほしかった。
約十二年。アリアスがルーウェンと出会い、過ごしてきた時の長さ。
出会ったときからあの緩やかな笑顔と優しさを向けてきてくれた人。アリアスとは比べ物にならないくらい魔法の才能があり、教養深いために、彼は兄弟子といっても色々なことを教えてくれたから師のようでもあった。
何よりも、どんなときでも不思議と包み込むような安心感を与えてくれる、兄のような存在の兄弟子。
その人がいなくなってしまうと聞いて「大丈夫」でいられる方が無茶だ。
信じ難いことを聞いた日、ルーウェンがどこかに行ってしまう前に掴まえておけば良かったと何度思ったか。
違うと。ルーウェンが微笑んで「大丈夫」だと言ったとき、アリアスが不安に思っていたのは、地下の境目のことではなくて兄弟子のことだと言えば――言って、どうかなったろうか。
「ゼロ様……私は、どうすればいいんでしょう……」
ゼロに手を引かれ、勝手知ったる様子で竜のいる建物内の一室に連れて来られたアリアスは、途方に暮れた声を出した。
すでにアリアスの心には、無視しようのない喪失に似たものがあった。
アリアスは何か出来ないか、と思いながらも完全に怖じ気づいてしまっていた。
「ルー様が、いなくなったら、」
「言うな」
ゼロが素早くもやんわりとアリアスの口を手で塞いだ。
「現実になって辛くなることなら、言うな」
灰色の瞳と真っ直ぐに目が合って、二人だけしかいない状況、目が熱くなって涙が溢れ頬を伝い落ちた。一粒二粒に留まらず、生まれて流れ続ける涙は止まる気配はない。
ゼロの指が頬を撫で、涙をすくうけれど、間に合わない。
「ゼロ様、」
「ん」
「私、」
この先を言ったとしてもゼロを困らせる。ぐっと喉の奥に言葉が詰まると、ゼロに「言えよ。――言ってもいい」と促された。
この人は、アリアスが自分でも自分の中に抱えていられなくて、けれど言っても良いのか分からないことを聞いてくれようとする。
誰にも、師にも吐き出せなかったこと。
「私、ルー様に」
兄弟子に。
「ルー様に……いなくなって欲しく、ないです」
言葉を絞り出すと、よく言えたというように頭を撫でられる。
いなくなって欲しくない。これが今のアリアスのただ一つにして、強い強い望みだった。
どうしてルーウェンなのか。他に方法がないのか。どうにも出来ないのか。と、色々な思いが渦巻いていたその根底にあるのは一つの思いだったのだ。
いなくならないで欲しい。
「ルー様がいなくなるなら、」
――兄弟子を犠牲にして生きられる世界なんてアリアスはいらない。そんな世界で変わらない光景が広がり続けたとしても、変わらないのは表面上だけ。境目を封じられなくてどんな世界が広がるかは未知だけれど、ルーウェンが欠けてしまった世界が広がるなんて考えられない。今でさえ押し潰されてしまいそうなのに、そんな現実に耐えられる気がしない。
いくら心が鈍っていようと、『その時』が来てしまった後、アリアスは耐えられないだろう。
ルーウェンにいてほしいという望みは、現在の状況下では我が儘になるのだろうか。アリアス一人がそう思っても、望むことさえ許されないような。
「いなくなってしまうなんて、」
そんな未来が来ることをどうやって享受できる。
とうとう声が紡げなくなると、髪を撫でていた手が後ろに回り、身体が引き寄せられる。抱き締められて、また宥めるように頭を撫でられる。
ゆっくり。
溜めていた思いを外に出し、せき止めていたような涙が止まらないアリアスを落ち着けるように、優しげな手つきで。
「あいつはいなくならない」
頭上から落ちてきた言葉に、熱い涙で、思考が曖昧になりかけているアリアスは僅かに反応して顔を上げた。
「ルーはいなくならない」
顔を上げたアリアスの頬に手を沿わせながら、ゼロはもう一度言った。
「別にこの場しのぎで言ってるんじゃねえよ」
「……で、も……」
まだよく分かっていないアリアスに、ゼロは微かに笑みを刷く。
「心配すんな。方法なら心当たりがある」
「方法……?」
「ルーが封じしなくてもいい方法」
そんな方法があるのかと、望みを失い喪失さえ覚えていたアリアスは信じられない思いでゼロを見返すばかりだ。
「他をあてにするってのは趣味じゃねえが、最終手段で竜に頼む手がある」
思わぬ『方法』にアリアスは目を瞠った。そのときまでもぼろりと涙が落ちる。
「そんなこと、出来るんですか……?」
「これから先、境目がなくなることはねえ。人間が封じられなくなる日だって来る可能性がある。それならその先どうするかっていう問題はいつかは来るとすれば、こういう選択肢は視野に入るだろ」
「で、も……その場合、竜が」
「竜は死なねえと思うぜ」
竜が死んでしまうのではないか、という問いの途中に事も無げにゼロが言う。
「人間とは魔法力の大きさが違う。ああ、ほら前にジオ様が『荒れ果てた地』の境目を一時的にとはいえ塞いだだろ。境目の大きさとしてはあっちの方が大きいっていうんだから、推測だって言ってもこの地にある境目を塞ぐのに竜の力ならそこまでの代償の覚悟は必要ない」
唐突に飛び込んできた方法と、可能性。アリアスはどこかそれに飛びつく心持ちにはなれなくて、瞳を揺らす。
その所以を本人よりも見てとってか、ゼロが再度口を開く。
「確かに推測だ。だが、頼んでみてもいい可能性は十分にある」
と正直に付け加えてから、彼は呟く。
「それに、ジオ様が何か考えてんじゃねえかと俺は思うんだよな」
「……師匠が、……?」
「ああ。あの人部屋に籠って何してんのかは知らねえけど、そんなに薄情なのか?」
首を傾けての尋ねに、アリアスは前回師の部屋に行ったときのことを思い返す。あまり思い出したくはないけれど、確かレルルカを振り切って部屋に籠っていたジオの姿。
そういえば、とゼロに聞かれてはじめてそのときでも他のことに持っていかれて気にしていなかったことにまともに目が行き、思い当たる。
「師匠、まだ、文献、読んでました……」
「文献? あー結界魔法での封じについての記述探してた資料か。……俺はジオ様のことはあんまり知らねえけど、この期に及んでまだ部屋に籠って文献読んでるってことには意味はあるだろ。何か考えてるんじゃねえかなと思うんだよな、何でか。俺に考えつく方法とは別に、人間じゃ思いつかねえこと」
部屋の中にあり続けていた、古さに差はあれどほぼ同じ装丁をされた文献。アリアスが訪ねてきたときにもソファーに寝そべっていた師は手袋をして、あの本を捲っていた。すでにルーウェンが結界魔法を使うことは定められたと聞いたのに。
まさか、師は今もあの文献から何か読み解こうとしていると言うのだろうか。
「でも、師匠、何も……」
師は何も言わなかった。
アリアスに事実だけを告げた。
「ジオ様が何考えてるかは置いておいても無駄な期待させるだけなら、こんなことは言わねえ。責任は持つ。――アリアスの悲しむ顔は見たくねえからな」
ゼロが指でアリアスの赤くなっている目尻をなぞり、雫をすくいとる。
「あいつ、俺に言うわりにこうなるとこれだもんな。あいつの方が泣かせてるじゃねえか。全部終わったら絶対殴る」
全部終わったら、と当たり前のように口にするものだから、アリアスの視界は目の奥から新たに生まれてきた熱でぼやける。
「ほんと……です、か」
「ああ。だから、今はこれだけしか言えねえけど、大丈夫だ」
これだけなんて、とんでもないことだった。
それはきっと、一番、誰かに言ってほしくて仕方なかった言葉。
いつもはルーウェンに言われて落ち着く言葉は、今回ばかりは彼の口から出ても不安材料にしかならなかった。
だから自分でもなく、ルーウェンでもない、他の誰かに言ってほしくてたまらなかったのかもしれない。
ゼロは、アリアスの涙が止まるまでずっとそのままでいてくれた。




