第39話 悪役貴族、の秘められた過去
そして今。
鈴の音は、辺境の村の小さな天幕に響いている。
ブリジットの思い出を聞き終えたエリシアは、神妙な面持ちで彼女の佩剣を見た。
(あのお調子者に、そんな過去が?)
にわかには信じがたい。エリシアの知るマルスと、まったく人柄が違う。
ブリジットは愛でるように鈴を撫でると、ふっと笑みをこぼしてエリシアを見た。
「すまない。長々と喋ってしまった」
「いえ……大変興味深いお話でした」
「そうか? どのあたりに興味を惹かれた?」
すこし身を乗り出すブリジット。それと同じだけエリシアは身を引いた。
「え、ええ。あの人が、まさかそのような言動をするものかと。私の知るあの人からは、想像もできません」
「……ふむ。そう、だな」
椅子に座り直し、ブリジットは口元を押さえる。
「あの頃のマルスは模範的な貴公子だった。才に溢れ、人の心をよく解す少年だったよ」
「世間の評判とは真逆ですね」
「マルスが堕落してしまったのは……ご母堂がお亡くなりになってからだ」
痛ましい呟き。
俯いていたエリシアが顔をあげる。
「バレンタイン夫人はお身体が弱く、マルスを産んでからは一日のほとんどをベッドで過ごしていたと聞く。社交の場にもほとんど顔を出さなかった」
エリシアには初耳の話だった。
思い返せば、マルスの口からも母の話題を聞いたことがない。
「残念なことに……マルスが十の頃、夫人は女神の御許に召された。あやつが異端魔術に傾倒し始めたのはその時からだ」
マルスは剣を捨て、学を放棄し、部屋に引きこもるようになった。他人を慮る心を失い、権力を振りかざす。その矛先は家の使用人から始まり、領地住民や他貴族、果てはレガリア教会にまで向けられ、バレンタイン伯爵家の悩みの種となった。
「なぜ、そんなことを」
「母を失うというのは、子にとってそれだけ辛いことなのだろう。その哀しみを、わたしは想像することしかできないが」
エリシアも同じだ。彼女は母の愛を疑っているが、それでもここまで何不自由なく産み育ててくれた恩は感じている。もし幼い日に母が亡くなっていたら、エリシアと姉達は、深い悲しみに暮れただろう。
本人のいないところで、マルスの過去を聞くことには一抹の罪悪感を覚える。だがエリシアは、知りたいという欲求に抗うことができなかった。
「母親を失って自暴自棄になったと? しかし、それが異端魔術となにか関係が?」
「これはわたしの憶測にすぎないが……おそらくマルスは、夫人をよみがらせようとしたのではないか」
「異端魔術で、死者をよみがえらせることができるのですか」
「わからん。だがもし可能だとすれば、それは異端魔術によるものだろう」
レガリア教には輪廻の概念がない。死者の魂はすべて女神レガリアの許に召されると信じられている。
「国と教会が異端と断ずるほどだ。死者の魂を現世に呼び戻すことくらいできてもおかしくない。あるいはそう思い込まなければ、幼い心を守れなかったのかもしれないな」
ブリジットのかすれた声に、エリシアの胸も一層締め付けられた。
(あの人が、そんな哀しみを抱えていたなんて)
あの軽薄な振る舞いは、心の傷を隠すためなのかもしれない。
今までの彼に対する態度を思い返し、エリシアは一抹の罪悪感を抱く。
「騎士団長様は、なぜ私にこの話を? こう申しては何ですが、私はあの人の付き人にすぎません」
「……うむ」
ブリジットはしばし黙した。香炉の煙が細く揺れる。
「誤解してほしくない、というのがわたしの本心だ」
「誤解、とは……?」
「マルスは最初から愚か者だったわけではない。聡明だった頃のあやつと、変わらざるを得なかった理由を知ってほしかった。いま隣にいるそなたに――いや」
ブリジットは首を横に振った。
「他人を理由にするべきではないな。わたしが……信じたいのだ。いつか、誇り高い貴族だった頃のマルスが戻ってくると」
マルスが悪辣な貴族であることは紛れもない事実だ。それでも、かつてあった品格と強さを、ブリジットは今も彼に求めている。
エリシアは彼女の言葉に違和感を覚えたが上手く言語化することができず、釈然としない。何か言おうと考えているうちに、天幕の外に人の気配が現れた。




