第38話 悪役貴族と、騎士団長の誓い
全身をしならせ、思いきり木剣を振り下ろす。
――カンッ!
甲高い音が響いた次の瞬間、木剣はあっさりと弾かれ、視界が回転する。
背中が芝に叩きつけられ、肺の空気が一瞬で抜けた。
直後、兄達の嘲笑が響く。
『ほら見たことか。遊びで剣を振ってるからだ』
『話にならないな』
母は青ざめて声を上げる。
『やっぱりやめさせてください! あの子の体に傷でも残ったら――』
父は深い息を落とし、制止に入ろうとする。
『まだです』
それを止めたのはマルスだった。
彼は微動だにせず、ただ淡々と構えを取っている。
『彼女はまだ、折れていません』
その声に、ブリジットの胸の奥が熱くなった。
(そうだ……まだ、終わってない!)
彼女は木剣を拾い上げ、再び構える。
足が震えていたが、気持ちは折れていなかった。
二度目の突撃。
だがまたも一撃で受け流され、体勢を崩したところを軽く打ち据えられる。
三度目。
虚を突こうとフェイントを試みるも、マルスはすべてを見透かしたかのように木剣を叩き落とした。
四度目、五度目。攻めては倒され、守っては弾かれる。ブリジットの剣は、マルスの体にかすりもしない。
何度も芝生に転がされ、なおも立ち上がるブリジットの姿に、兄達の顔から笑みが消えていった。
『おい。さすがに止めた方がいいんじゃないか?』
『意地になってるんだ。気の済むまでやらせたらいい』
母は両手を胸に押し当て、涙声で叫ぶ。
『もうやめて! こんなことに何の意味があるの!』
だがブリジットの耳には届かない。
倒れるたび、心臓の奥で高鳴る音があった。
(まだ立てる! まだ戦える!)
やがて、観戦していた騎士や使用人達までもが顔を見合わせる。
幼い令嬢の執念に、周囲の大人が圧倒されていた。
『もう一度! お願いします!』
息を切らせ、頬に土をつけながら、ブリジットは木剣を握り直した。両手は豆が潰れて血が滲んでいたが、握る力は決して緩めない。
その姿を見つめる周囲の空気が、少しずつ変わっていった。誰もが固唾を呑み、父ですら無言で娘の戦いを見守る。
だが、すでにブリジットは限界を迎えていた。地に膝をつき、肩で息をしながら、木剣を杖にして必死に立ち上がろうとした。それでも膝は笑い、一歩も前へ踏み出せない。
その姿を見て、父は沈痛な面持ちで言った。
『もうやめろ。見苦しいだけだ』
母は顔を覆って目を逸らし、兄達は冷ややかに呟く。
『騎士の真似事なんて、所詮このていどだ』
『女のくせに土だらけでみっともない』
『父上と母上を悲しませるだけだ』
否定の言葉が、幾度も幾度も胸を貫いた。
だが、その時。
『ちがう』
芯のある声が、庭の空気を切り裂いた。
『フィエリテ侯爵、兄上方。私はあなた方の意を汲み、レディ・ブリジットの心を折るつもりで立ち合いました。ところが、いかがでしょう? 血を流し土にまみれても、一切の泣き言を漏らさず、今なお闘志をみなぎらせている』
兄達の顔色が変わり、父は言葉を飲み込む。
灰色の瞳が真っ直ぐにブリジットを射抜いた。
『レディ・ブリジット。女性は、戦いにおいて常に不利を背負います。体格、膂力、月の物しかり。そうでなくとも、あなたは弱い。それを思い知ってなお、騎士を志すなどと世迷言を仰るのですか』
七歳の少年とは思えぬ、冷徹で透き通った物言い。その静かな迫力に、周囲の大人達も絶句する。
ブリジットは彼の言葉に冷たさを感じなかった。それどころか、熱い激励に聞こえた。剣を握る手を震わせながら、力強く微笑む。
『もちろんです。弱くても、父母に否定されても……わたしは騎士となり、フィエリテの誇りになりたいのです。兄さま達と肩を並べたいのです』
誰もが幼い幻想と切って捨てた夢。
それを耳にして、マルスは小さく頷いた。
『よく、わかりました』
マルスはゆっくりと歩み寄ると、芝生に沈むブリジットの前で膝を折り、視線を同じ高さに合わせる。
そして、懐から小さな箱を取り出すと、丁寧な手つきで蓋を開いた。銀の鈴が、陽光を浴びてきらめく。
エンゲージ・ベル。
マルスはそれを、ブリジットが杖にする木剣の柄に、飾り紐ごと固く結びつけた。
『あなたは誰かの妻という器に収まる女性ではありません。強き志で運命に抗い、未来を切り拓くお人だ』
ブリジットの瞳が大きく揺れる。
これまで父にも兄にも、母にすら否定され続けてきた。女だから、娘だからと押し込められてきた。
マルスはそれを真っ向から否定し、彼女の剣を認めたのだ。
結われた鈴を見つめると、胸の奥で何かがほどけ、熱がこみ上げる。
『この鈴を約束の証にいたしましょう。私達が交わすのは婚約ではなく、いつかあなたが聖国一の騎士になるという誓いです』
結われた鈴が風に揺れ、澄んだ音色が軽やかに歌う。
ブリジットの瞳に涙が滲んだ。真っ暗だった心の奥に、力強い光が差し込んだ瞬間だった。
『……なります。必ずなります! 聖国一の騎士にっ! この鈴の音と共に、ブリジット・ラ・フィエリテの名を、聖国の隅々にまで響かせます!』
決意の言葉は、嘲りや否定を吹き飛ばし、大人達の心を震わせた。
父は黙したまま目を閉じ、母は涙を拭い、兄達でさえ侮蔑の眼差しを続けることができなくなった。
『しかと聞き届けました』
冷たかったマルスの顔に、はじめて小さな笑みが浮かぶ。
『レディ・ブリジット。あなたに、レガリアの聖鈴が鳴り響かんことを』
その瞬間。風は沈黙し、ただ鈴の音だけが庭を満たす。
それは二人だけの、誰にも奪えぬ約束の響きであった。




