第37話 悪役貴族と、騎士団長の過去
ブリジットは、武名を馳せるフィエリテ侯爵家の末子として生を享けた。
戦場で武勲を立て爵位を授かった先祖から、代々受け継がれる騎士の精神。それがフィエリテの誇りである。
三人の兄はいずれも騎士として戦場を駆けることを期待され、文武に励んでいた。
だが、ブリジットに求められたものは、兄達とはまるで違った。
『お前に剣は必要ない』
それが父の口癖だった。
兄達が汗とまみれて訓練に励む一方、ブリジットはいつも遠くから眺めるだけ。
堪えきれず、剣を学ぼうと何度も訓練場に踏み入った。そのたび、激昂した父に放り出された。
『剣は遊びではない!』
兄妹の中で自分だけが仲間外れなのだと、枕を濡らした夜は数知れない。
母は優しく抱きしめてくれたが、言葉は救いにはならなかった。
『あなたは剣など握らなくてもよいの。女はいずれは誰かの妻となり、家と家を繋ぐ橋となるのよ。それが女に与えられた役目であり、誇りなのだから』
やがて反発を募らせた彼女は、誰にも頼らず一人で剣技を磨き始めた。
木の枝を剣に見立てて振れば、兄達は『真似事だ』と笑い、父は渋い顔をし、母は困ったように首を振った。
「わたしが何を望もうと、家門にとって女児は駒にすぎなかった」
「駒?」
「政略結婚の、な」
幼い心に意地が芽生えた。否定されるほど、剣に執着した。
毎夜、家が寝静まった後の庭で黙々と木剣を振るう。掌に豆ができ、血が滲もうとやめなかった。
剣を握れば、望む自分になれる気がした。強くなれば、認めてもらえると信じていた。
それでも現実は変わらない。
朝には母に飾り帯を結ばれ、貴族の娘としての礼儀作法を仕込まれる。
稽古場に入り込んだことが知られれば、父に叱責された。
『無駄なことをするな。自分の役割を果たせ』
そんな言葉を浴びるたび、反発の炎は一段と燃え盛った。
「わたしは、幼心にこう思っていた。剣で自分の価値を証明してみせる。誰に否定されても剣を諦めたりはしない、と」
「騎士団長様は、子どもの頃からお強かったのですね」
「いや、強さなどではない。今にして思えば、子どもの我儘にすぎなかった。だが……その拙い意地を本物の覚悟に変えてくれたのが、マルスだった」
ブリジットが七つの頃、父は『将来のため』と言ってある貴族を屋敷に招いた。
バレンタイン伯爵。魔術の分野では他の追随を許さぬ聖国でも指折りの名門。その嫡男こそブリジットの婚約者候補だった。
侯爵家と伯爵家。血筋と権勢を結びつけるには申し分のない縁談。
父は縁組を強く望み、母もまた娘にとって最善の道であると信じていた。
「婚約者だったのですか」
「候補だ。結局、縁談は流れた」
「なぜ……?」
その日。陽光が差し込む部屋で、ブリジットは母に髪を結われ飾り帯を締められた。窮屈なドレスが体を締め付ける。
『今日、あなたは将来の伴侶に会うのよ。剣の事など忘れて、淑女らしく振る舞いなさい』
嗜めるように言った母は、ブリジットに小箱をひとつ手渡す。その中には、精緻な細工が施された鈴が収められていた。
いわゆるエンゲージ・ベルである。
聖国では、婚約の際に鈴を贈り合う文化が根付いている。鈴は女神レガリアの象徴であり、それを贈る行為は女神への誓いを示すものであった。
ブリジットにとってその鈴は、自らを貴族令嬢という檻に閉じ込める錠にも等しい。
憂鬱を抱えたまま屋敷の庭で来客を待つ。整えられた花壇と噴水のきらめく庭園は、夜な夜な剣の稽古する場所。
やがて執事の声が響く。
『バレンタイン伯爵とご子息がご到着されました』
庭のアーチをくぐり、バレンタイン伯爵に続いて現れた少年に、ブリジットの視線は釘付けになった。
淡い灰色の髪が陽光に透け、同色の瞳がこちらを見据えている。子どもには似つかわしくない静謐さが宿り、その眼差しに射抜かれた瞬間、胸が跳ねた。
灰の瞳は冷たく研ぎ澄まされ、まるで名剣のように鋭い。
「マルスの第一印象だ。あの時の姿は、今でも忘れられない」
「……今の彼からは想像もできません。お調子者ではなかったのですか?」
「まったく違う。幼き日のマルスは、夜の大海のような、静かで底知れぬ雰囲気を纏う男子だった」
父母と伯爵が社交の挨拶を交わす間、ブリジットはマルスから目が離せなかった。
彼は伯爵の傍でじっと佇んでいるだけで、少年の無邪気さとは無縁。同じ歳だというのに、この落ち着きようは一体なんなのか。
ブリジットは自身の未熟を突きつけられているように感じて、大人達の会話を遮るように口を開いた。
『申し訳ございませんが、婚約は致しません。わたしは、騎士になりたいのです!』
庭の空気が凍りつく。
小鳥のさえずりすら遠くに消え、誰もが言葉を失った。
父の眉間には深い皺が刻まれ、母は蒼ざめた顔で口元を押さえている。兄達は嘲るような視線を投げかけ、客人である伯爵すら口を噤んでいた。
その中においてマルスだけは驚きもせず、ブリジットの前に歩み出た。
『騎士に?』
『はい! 兄さま達と同じように剣を振るいたいのです!』
『剣を握ったことは?』
『あります。兄達の稽古を手本に、毎日……』
言葉が途切れる。兄の嘲笑が背中に突き刺さった。
だがマルスは笑わなかった。むしろ、その瞳にわずかな好奇を宿す。
『フィエリテ侯爵。私もすこしばかり剣を嗜みます。レディ・ブリジットとの手合わせをお許しいただけませんか』
父は驚いた顔をしたが、これを機に娘が剣を諦めてくれることを期待し、手合わせを快諾した。
「そんな……! 七歳の子どもが手合わせだなんて」
「兄達は三つの時から家門の騎士と打ち合っていた。七つでは遅いくらいだ」
ブリジットが兄のお下がりの訓練着に着替えて戻ってくると、場にいた使用人の注目が一斉に集まった。
整えられた庭の一画。花壇の脇に広がる芝生が、即席の決闘場となる。
母は蒼白な顔で必死に止めようとしたが、父の『良い機会だ』の一言で押し切られた。兄達は面白がるように腕を組む。
マルスとブリジットは、侯爵家の騎士から訓練用の木剣を借りていた。
柄を握った瞬間、手のひらがひりつく。積み重ねてきた独り稽古の夜が、勇気を与えてくれる。
『今こそ証明します! わたしは、兄さま達と同じ場所に立てると!』
対するマルスは灰色の髪を風に揺らし、静かに構えていた。
『はじめっ!』
騎士の号令がかかった瞬間、ブリジットは跳ねるように踏み込んだ。




