第31話 悪役貴族、とメイドの一夜
すでに夜は更けていた。
月明かりだけを頼りに帰路を辿り、ようやく到着したぼろ屋。
エリシアはマルスを支えながら、力任せに扉を押し開ける。
「座ってください。すぐ処置をします」
半ば強引に古びた椅子へ座らせ、彼女は急いでランプに火を入れた。淡い光が灯ると同時に、マルスの血に濡れた背中がより鮮明に浮かび上がる。
エリシアは慎重に、素早く包帯をほどいていく。
深く突き刺さった鋭利な金属片。焼け焦げたような裂傷。そして今も滲み続ける鮮血。
帰り道、彼がどれほど無理をして歩いていたか、今さら痛感させられる。
「……ひどい傷」
改めて目の当たりにすると、胸がぎゅっと締め付けられた。
「そんなに? ポーション効いてない?」
マルスの声は笑っていたが、どこか取り繕うようでもある。
「効いてます。けど……すぐに治ったりしません」
エリシアは短く答え、道具を取り出す。
「動かないで。残りの破片を抜きます」
「あとどれくらい残ってる?」
「……四つほど」
「わお、まじか。抜くとき結構痛いのよ」
「ポーションの鎮痛作用で多少はマシなはずです」
エリシアは手に布を巻き付け、ランプの明かりを頼りに傷口を探る。
鉄片は思った以上に肉へ食い込み、簡単には抜けそうにない。
「いきますよ」
「うぃ。一思いにやってくれい」
肩に手を添え、震える指先を押さえ込むように深呼吸した。そして、掴んだ破片を一気に引き抜く。
呻き声を噛み殺すマルス。椅子の背もたれを握る手に力がこもり、古びた木がきしんだ。
開いた傷口から血が零れ出す。ポーションを沁み込ませた布を傷口に当てると、じわりと赤に染まっていく。
ポーションの作用は大したもので、出血の勢いは少しずつ弱まっていった。
同じ措置を、二つ、三つと続ける。金属片を一つ引き抜くたび、マルスの喉から押し殺した呻きが漏れる。
エリシアは眉を寄せながらも、手を止めない。震えそうになる指先を必死に抑え込み、ただ黙々と作業を続けた。
「あとひとつ」
最も大きく、深く刺さった破片。エリシアは慎重に破片の刺さり方を確認すると、残りのポーションを滴らせながら引き抜いていく。
「……ッ!」
最後の破片が肉を裂き、嫌な音を立てて抜け出た。マルスの背筋がびくんと震え、抑え込んでいた呻きがこぼれ落ちる。
エリシアは仕上げとばかりにポーションを使い切ると、痛ましい背中に幾重にも包帯を巻き付けた。
「……終わりです」
その声音には疲労と安堵が滲んでいた。
額の汗を拭う余裕もなく、彼女はマルスの背を見守る。
「ふぅ……すごいテクニックだったな。四回も絶頂しちゃったぜ」
マルスは力の抜けた呼吸で、背もたれを抱きしめた。まだ青ざめた顔色のままなのに、口元は微笑んでいる。
「あなたは、棺桶の中でも冗談を言うんでしょうね」
「いいね、それ。死んだらそうしよう」
マルスが振り返り、にこりと笑う。
エリシアはぷいと視線を逸らした。だが胸の奥では、彼がこうして笑えることに心底ほっとしている。
「ありがとエリシア。助かった」
「お礼なんて……」
不意に差し向けられたその言葉を、素直に受け入れられない。
「私を庇ったりしなければ、こんな無駄な怪我……負わずに済んだのに」
苦笑するマルス。彼は椅子に座り直し、エリシアを正面から見つめた。
「だったら俺は、ずっと傷だらけでいい」
「なに言って――」
「俺はエリシアを守りたくて守った。守れて嬉しかった。それなのに無駄な怪我なんて言われたら、俺の気持ちはどうなんの?」
冗談めかした調子なのに、その瞳は真剣だった。
エリシアの胸が熱を帯びる。湧き出る感情に、名前をつけられない。
「あなたは、どうして……」
その言葉の続きは、どうしても出てこなかった。
「とにかく、今日はもう休んでください。まだ動ける状態じゃありません」
肩を支えてマルスを立たせると、彼の部屋の寝台へと連れていく。
「うつ伏せです。間違っても寝返りをうたないように」
「へいへい。お姫様の命令には逆らえませんな」
力を抜いて横たわるマルス。
エリシアはその様子を見つめ、しばし沈黙した。無茶ばかりする彼を責めたい気持ちと、守られた安心感と感謝と、そしてどうしようもない自己嫌悪が、胸の奥で複雑に絡み合う。
この想いを言葉にできないことがたまらなくもどかしい。自分を、今よりもっと嫌いになってしまいそうだ。
苦い表情のまま立ち尽くすエリシアを、マルスはキメ顔で見上げた。
「どしたの? あ、もしかして添い寝してくれるとか?」
彼は本気じゃない。それはわかっている。
けれど、エリシアはいつものように突っぱねない。ただ、俯くだけ。
「なんてな。ハハ、いやちょっと言ってみただけ」
「……してほしいですか?」
予想外の返しに、マルスの思考がフリーズした。普段なら口をついて出る軽口が、鳴りをひそめる。
「え、え?」
間抜けな顔でエリシアを見上げると、彼女は相変わらずむっとした表情だった。だが、その瞳はどこか艶を帯びていた。
「添い寝。ホントにしてほしいですか?」
「あ、いや、それは……」
暗い部屋の中で、消え入りそうな二人の声。
「俺、夢見てんのか? そうか、ポーションの副作用で幻覚見てんだわ。絶対そうだ」
「そんな副作用ありません」
短く切り捨てるように言いながらも、エリシアの声はか細く震えていた。
彼女が冗談を真に受けたことに混乱し、マルスはただ困惑するしかない。
「いや、ほんとに……エリシア、どったの? なんか、らしくないじゃん。なぐりますよ、つって肩パンされると思ってたのに」
「どれだけ冷酷なんですか、私は」
淡々と切り返しながら、その頬には赤みが差していた。
「そこまで非情じゃありません。今日のことだって――」
言いかけて、エリシアは唇を噛む。
胸の奥からこみ上げてくる想いを、飲み込んでしまうのは簡単だった。
けれど、いま言葉にしなければきっと後悔する。また、自分を嫌いになる。
寝台の上に投げ出されたマルスの手に、エリシアはそっと指先を重ねた。
「……ありがとう、ございます」
ランプの火が揺れる。
小さく告げられた一言に、マルスは目を丸くした。
「え?」
「今日、私を庇ってくれたこと。守ってくれたこと。本当に、感謝しています」
くぐもった声には、確かな真実の響きがあった。
マルスはしばし呆けた後、破顔してみせる。
「そっか。聞けてよかった。もうそれだけで、痛みが全部吹っ飛んだ気がする」
「またそんな、調子のいいことを言って」
言葉はいつも通り。けれどエリシアの目と声は、どこか優しげだった。
「今日はもう、眠ってください」
エリシアは古びた椅子を寝台の枕元へ引き寄せ、静かに腰掛けた。
「あなたが眠るまでここにいます。だから、安心して」
幼子を寝かしつけるような穏やかな声。
マルスは素直に頷き、目を閉じる。
「うん。おやすみ、エリシア」
「……おやすみなさい」
夜の静寂が、二人を包む。
マルスが寝息を立てるまで、エリシアはずっと、彼と手を重ねていた。




