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62.5

 ロディナが帰ってくるのが遅い気がして、様子を見に行こうと、マッサージルームに向かう途中のことだった。

 廊下の曲がり角で、誰かの声が聞こえたのだ。思わず、僕は足を止めてしまった。


 何度だって遭遇したことがあるシーン。僕のいないところで、僕の悪口を誰かが言う。聞かれなければいいと思っているのか、聞こえるように言っているのか、僕には分からない。

 それでも、何度こういう場面に出くわそうとも、慣れないもので、平然と出ていけるだけの度胸が、僕にはなかった。平気な振りは出来る。でも、本当に平気ではいられないのだ。傷ついていない振りをするには、準備がいる。


 話し声をよく聞けば、それはアマトリー夫人と――ロディナの声だった。


 ふと、昔のことを思い出してしまう。

 二番目の妻のことだ。

 あの女は、とりわけ演技が上手かった。

 自分をよく見せるため、相手に弱みを握らせないため、いい意味でも悪い意味でも他者を騙すことに長けた貴族たちの中でもあれほどの女はそういないだろう。


 僕のこの顔を気にしない素振りを見せて、にこにこと接してくれた彼女。もしかして彼女なら、と心を開きかけた時、同じようなシチュエーションで、僕を陰で嗤う彼女を見てしまったのだ。


『本当は嫌よ。あんな醜男の妻なんて』


「本当は嫌なんでしょう? あんな男の妻でいるのは」


 アマトリー夫人がロディナに尋ねたのは、あの時の彼女が吐き捨てるように言った言葉と同じだった。

 その言葉を聞いた瞬間、ざっと血の気が引いた。心臓はバクバクしていて、ただ立っているだけなのに、足元がおぼつかない。

 ロディナからの返事を聞きたくない。それなのに、体は凍り付いたかのように動かなくて、耳をふさぐことが出来ない。代わりに、ぎゅうと、きつく目をつむった。


 あの時の彼女の様に肯定されたら――。


「そ、そんなこと……」


 しかし、耳に飛び込んできたのは、ただただ、困惑するようなロディナの声だった。思わず、目を見開いてしまう。

 アマトリー夫人は、なおも僕を悪く言う。伯爵家という立場上、はっきりとした物言いではないが、貴族らしく濁した言い方ではない。流石のロディナでも、勘違いしようのない、悪意の塊。


 それでも、ロディナの肯定の声は聞こえてこない。


 僕はごくりとつばを飲み込み、振るえる手を握りしめた。

 意を決して、曲がり角から出て、二人へと近付く。


「――ロディナ? こんなところにいたのか」


 声は震えていない。しっかりと声を出せた。情けない声音にならなくてよかった。


 ふと、ロディナを見れば、困ったように曇っていた表情が、ぱっと変わった。

 ほっと、心の底から安堵したような、僕を見つけて安心しきった笑顔を、ロディナは僕に向ける。


 どうして、僕なんかにそんな顔をしてくれるんだ。彼女は僕を、否定しないのか。本当に。


 その瞬間、僕の時が止まったようだった。そして、僕は気が付いてしまう。


 ああ、駄目だ。


 僕はどうしようもなく――この女が、好きなんだ。

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