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35.5

 ぱたぱたと動き、楽しそうにお茶を淹れる彼女の背中を眺めながら、僕は動揺を隠せないでいた。

 正直に言えば、帰ってきてほしかったけれど、帰ってくるとは思わなかったのだ。


 彼女は金目当てで結婚して、目的の金は既に渡したのだ。契約を破棄したら混金貨一枚、とは言ったが、実際のところ、そんな内容は契約書に書かれていない。

 彼女は文字を読めないようだったから、僕が読み上げた。その際には、混金貨の話は、しなかった。

 だから、文字の読めるミルリに契約書を読んでもらい、今、金を持ち逃げしたところでなんの問題もないことは知れたはず。


 逃げないということは、そもそも、ミルリに契約書を再度読み直して貰っていないのだろうか? 僕が読み上げた内容が全てだと、そう思っているのだろうか。それは余りにも――無防備じゃないか?

 逆に少し心配になってきた。下手な詐欺にでも引っかかったりしないだろうか。家にいてくれれば、僕がある程度守れるんだが。

 じぃ、とその背中を見つめていると、ふとロディナが振り返った。


「見ていて楽しいですか?」


 彼女は後ろ手で砂時計をひっくり返す。


「……そこそこだな」


 嘘である。考え事ばかりしていて、彼女の後姿を楽しむ余裕なんてない。

 しかし、そんな嘘に気が付かないで、ロディナは「そうですか」と軽く笑った。


「わたしの好きな茶葉は癖が強いので、嫌だったら素直に言ってくださいね。別のものを用意するので」


 ロディナはやけにそう念押しをする。食べ物の好き嫌いがないので、僕としては大丈夫だと思うのだが。

 ……砂時計の砂が落ちるまで、まだ少し時間がありそうだ。彼女は手持無沙汰に、手遊びをしている。


「……なにか、困ったことはないか?」


 初めて二人で食事をしたときには躊躇われた質問。もうここにきて半月は経ったのだ。今、この質問をしてもおかしくはないだろう。

 ロディナはきょとん、とした後、頬に手をやって、少し考え込んでいた。


「これと言っては。ちょっと前までは暇で困ってたんですけど、しばらくは文字を勉強するので、暇を持て余すことはなさそうですし。……あっ」


 突然、思い出したようにロディナが声を上げる。そして、クローゼットを開け、中から何かを取り出した


「ディルミックが暇な時でいいんですけど……これ、やりませんか」


 ロディナが手に持っていたのは、チェランジの盤だった。


「ミルリに勧められて買ったんですけど、相手がいなくって……。初心者ですし、余裕があるときにちょろっとでいいんで」


 ルール確認しながらだと進みが悪いと思うんですよね、とロディナは、さも自分だけがチェランジを出来ないのだと言う風に言った。

 ……実のところ、僕もチェランジはやったことがない。やってみたくてルールを必死に覚えたはいいものの、相手がいなかった。一度だけ、姉に相手になってくれないかとねだったことがあったけれど、断られてしまったのだ。そのころはまだ、僕が他者からどうみられて、どう思われているのか、あまり深く理解していなかったのだ。

 結局、それから少しして、僕も僕の立ち位置というものをなんとなく分かり始めて、誰も誘わなくなった。


「……僕もルールは忘れた」


 そもそも実践で使ったことがない、とは言わなかった。わざわざ言うことでもない。僕のような人間を、ゲームに誘ってくれる奴なんて、彼女以外いない。……いや、もしかしたら、ロディナのことだから、それは分かっていないのかもしれないが。


「だから、そういう、ルールがどうとか、気にしなくていい」


 そういうと、ロディナはパッと顔を明るくさせた。


「じゃあ、今度やりましょう! わたしはいつでも大丈夫なので、声かけてください。――あっ、紅茶!」


 彼女の声に、思わず砂時計を見れば、もう少しで砂が落ち切ってしまいそうだった。

 それにしても、今度か。

 今度、がいつになるかは分からないが、彼女は簡単に、僕と未来の約束をしてくれる。

 これは、勇気を出して、ちゃんと誘わないと。

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