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 ばたん、とどこかで扉が閉まったような音が聞こえた気がして、わたしはハッとなった。

 今何時だ!?

 夕食と風呂を済ませた後も、なんとなく教本が気になってしまって、ぺらぺらとめくっていたら夢中になって読んでしまったらしい。


 辺りを見回して、この部屋に時計がないことに気が付く。正確な時間が分からない。

 しかし、扉が閉まる音はすぐ近くで聞こえた。位置的に、十中八九、ディルミックの私室と寝室をつなぐ扉が開閉された音だろう。


 やば、ディルミック、寝室にもういる?

 二日目にして職務放棄とか思われたらどうしよう。しかも、新しい寝巻は一着しか買えなくて、今日着ているのは村で過ごしていたころに使っていたものだ。複数ある中でも一番きれいで比較的新しいものを選んで持ってきたつもりだが、色気があるかといえば――皆無である。

 そんな寝巻を着て、後からやってくるとか、いかにも夜のお勤めを回避しようとしているように見えないか? まあ、こっちはつい昨晩まで処女だったので、手加減してくれると嬉しくはあるのだが……純銀貨五枚で売った体だ、ディルミックが好きにする権利を有しているのだから、わたしが文句を言える立場ではない。まあ、特別文句を言うつもりはないんだけど。納得して売ったわけだから。


 わたしはあわてて教本を片付け、寝室へと向かおうとする。

 ドアノブに手をかけたところで、ふと、気配を感じた。

 ――いる。

 確実に、扉の向こうにディルミックが立っている。そんな気がした。

 怒らせたのだろうか。ていうかこの扉、外開きだから近くに立たれると開けるに開けられない。


 扉の向こうにいるのは分かっているが、扉をどのくらいまで開けても大丈夫かは流石に分からない。透視能力があるわけじゃないので。

 わたしはゆっくりとドアノブを回し、ほんの少しだけ開いた。ほんの隙間、手を突っ込めるか否かくらいの。


「……ディルミック、そこにいますよね? 離れて貰っても? ぶつかるでしょう」


「…………」


 少し、息を飲む声が聞こえた。しばらく待つ。大丈夫だよな、謎発作で硬直してないよな? 

 ゆっくり扉を開けて覗き込むと、扉から十分に離れたディルミックが確認できた。――仮面は、すでに外されている。

 開けても大丈夫そうなので、わたしは、ようやく普通に扉を開けた。


「すみません、ディルミック。教本が思ったより面白くて、読むのに、夢中、に……」


 彼の顔を見て謝ろうと、視線を上げれば、泣きそうな表情をしたディルミックが立っていた。眉を下げたイケメンに少し見惚れ、その表情をさせているのはわたしなのだと思い出し、我に返る。


 夜伽を放棄したと、不安にさせただろうか。


 まあ、三人もの女から逃げられているのだから、たった一晩で彼の信頼を勝ち取れるわけもない。こればかりはわたしの落ち度である。

 わたしみたいな平民に純銀貨五枚も渡してしまうようなお貴族様だ。平民と同じ価値観を持って、その金額を見ているわけではあるまい。わたしがどれだけそのお金に執着しようと、彼にとってはささやかな金額で、「その程度で」と思ってしまうのだろう。


「ディルミック、ほら、行きましょう」


 わたしは彼の手を取る。

 わたしのお金への執着と強欲さを認めさせられる日がくるだろうか、と考えながら。

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