閑話 鯰が教える斬りにくさ
沼地にでんと我が物顔で住まう鯰を斬ってこいと言われ、俺と盲目の女は共に沼地へと向かうことになった。
もうどれ程昔だったかも忘れたが、竜を殺しに赴いたリンカル樹海は湿度と歩き難さこそ相当なものだった覚えがある。ただ生えている樹生えている樹の全てがものの見事な巨大さで、当然ながらその隙間もまた、街の大通りもかくやという広さだった。巨人の世界に迷い込んだ錯覚を覚えるリンカル樹海はそのためか、歩くのに体力こそ使うものの、さほど鬱屈とした印象を与えない。
一方で、この『シートンの湿地』は歩き辛い上に湿度も高く、汚れるわ寒いわ臭いわと足を踏み入れたくもない場所だ。その上有毒ガスが噴き出している箇所もあり、下手に歩くことすら難しいと来ている。
そんな中で今回依頼された魔物は鯰。
「俺たちは漁師じゃないんだがな」
「漁師の方はわざわざこんなところまで来ませんよ」
俺の口をついて出た愚痴に、隣を歩く女が至極真っ当な意見を返してきた。
沼地ということもあって眼帯は相変わらずな彼女だが、今日ばかりは耐水性の高いブーツを履いている。
踏み込むにも体重を乗せづらく、歩くにも足を取られ、さしもの彼女も辟易とした表情を口元に浮かべていた。
「私、『泥食い』は斬ったことがないのですが、どんな魔物なんでしょう」
気を紛らわすように、珍しく女から話しかけてきた。
『泥食い』とは今回討伐依頼の出された魔物の名だ。その名の通り、この魔物は沼地においてあらゆる獲物を泥ごと飲み込んでしまう。当然人間も例外ではなく、この湿地帯にしか生えぬ植物を求めてやってきた人間が何人も餌食になったそうだ。
そにしても鯰と言えば町の飯処に入れば結構な確率で出てくるものだが、魔物となるとどんな怪物になっているのやら。
「俺も実物を見たことはないから詳しくは分からん。絵で見た限りじゃデカい鯰って見た目だったが、実際どれくらいの大きさなのかは‥‥」
と、そこまで答えた所で俺は足元から感じる違和感に口を噤んだ。
この湿地帯はほとんどの地面がぬかるみ、場所によっては深い沼と化している。そのため普段よりも足の感覚が鈍い。それはブーツを履いている彼女は余計にだろう。
しかし、そんな状況であっても尚下から湧き起る嫌な予感。
それを感じ取ったのはどうやら俺だけではないらしい。
「‥‥なにか来ますね」
「お前もそう思うか?」
「具体的に何がって聞かれると、私も正直分からないのですが‥‥変な振動を感じます」
「振動ね‥‥」
その言葉に、俺はまず視線を足元に落とし、次に周囲を伺う。見渡す限りでは捩じれた細い樹々とどこまでも広がる陰鬱な泥濘。見ただけでは到底何かが起こりそうな予兆はない。
だが、俺だけでなく彼女もまた違和感を感じた以上、楽観視は出来なかった。
そして、それは一歩を踏み出そうとした瞬間に現れた。
俺と女を覆うように突如と落ちた影。その正体は、俺たちの両側から挟み込む形で現れた巨大な壁だった。
いや、違う。
影の中にあっても分かる生々しい質感に、壁の端に生えている幾多もの岩。
これは、口だ。
「ヤバッ‥‥!」
ほぼ無音で現れた巨大な顎に俺が〝強化〟の秘言を発動させると同時、流石の感知能力で女も反応する。
俺たちは反射的にお互いの腕を掴み合い、足を捕える泥を蹴り飛ばして二人で後ろに跳び退った。
直後、バギンッ! という轟音と共に目前で口がその場にあった全てを飲み込んで閉じられた。顔を叩く衝撃と跳ねる泥に視界が一瞬奪われるが、その瞬間俺は確かに見た。
泥から這いずり出して来た怪物。その身体の半分以上を口が占め、全身を覆う泥に塗れた皮は何重にも垂れ下がる。そして本来目があるはずの部分は退化したのか潰れ、代わりと言わんばかりに口元から生えた巨大な鬚が二本のたくっていた。
まさしく、鯰。
短いながらも四本の手足こそ生えているが、確かにその姿は鯰と言うべきものだった。
これが、『泥食い』か。まさか沼でない地面すらも喰らって下から強襲してくるとは思っていなかった。泥食いの名に嘘はないわけだ。
聞いていた通り、沼地での生活のために目は完全に退化し、俺たちの存在は足の振動だけで判断したのだろう。〝地鳴り〟の秘言から生まれた魔物は不気味な佇まいでこちらの様子を伺っていた。
さて、どうにも打撃が有効そうには見えない相手だが、どうする、
「せいっ」
俺が次の一手を考えていると、隣から聞こえた気の抜ける掛け声と共に神速の抜き打ちが鯰を正中線から両断した。より正確に言うと、隣にいた女が〝刀剣〟の秘言を発動し、概念武装を顕現させながら、刀身よりも遠い位置に居た鯰に斬撃を飛ばしたのだ。
暗色に満ちた沼地に鮮やかな赤色が散らされ、 二つに分かれた泥食いの巨体がズレて崩れ落ちる。
「む、これは」
「‥‥どうしたよ」
いつも通りと言ってしまえばその通りだが、情緒もへったくれもない幕引きだ。まあ戦いが長引くよりはこちらの方が何倍もいいのは間違いないが、仮にも師匠を名乗るならもう少し教え子を戦わせるとかいう発想はないんだろうか。ないんだろうな。
しかし、容易く泥食いを斬った彼女はといえば、少し怪訝な表情を浮かべていた。
「いえ、想像以上に斬り辛かったんです、この魔物」
「そうなのか? 確かに打撃は通りにくそうだけどな」
というか、普段と変わらず鮮やかな太刀筋で一刀両断しておきながら言う台詞ではない。
既に塵となりつつある泥食いに近づき、俺は遺骸として残った皮の部分を手に取る。塵にならなかった部分の量からして、若い個体だったのだろう。皮は思った以上に張りと弾力があり、垂れ下がっていた見た目からは想像もつかない程に硬い。
成程、斬り易いとは到底思えない硬さだが、それで言えばこの女が過去斬り捨ててきたものはどうなるのというのか。
「お前が斬り辛いって言うのは珍しいな。硬いってのなら昔戦った『無我の巨兵』の方がよっぽどだと思うが」
俺は過去苦戦した鋼の兵士を思い出しながら言う。女は俺の知る限りでは最強の剣士だ。彼女に斬れないものは今のところ見たことがないし、斬り辛いという言葉さえそうそう聞くものではない。
記憶が正しければ、全身が鋼で出来た伽藍洞の鎧武者、『無我の巨兵』すらも無言で斬り伏せていたはずだ。
しかし、女ははて? と首を傾げてから、思い出したかの如く手を打つ。
「ああ、無我の巨兵ですか。確かに昔斬りましたね」
「忘れてたのかよ‥‥」
「あれは簡単な相手でしたし、斬りごたえもないものでしたから」
「冗談だろ、破城槌打ち込んでもピンピンしてるような輩だぞ?」
この場で言う破城槌とは勿論ただのデカい丸太ではなく、秘言を用いて放たれる文字通り城すら倒壊させる一撃のことだ。
決して弱いわけではなかった。巨兵一体の討伐のために何十人もの『言霊士』と騎士が動員されたのだから。
俺が何度目になるかも分からない驚愕に震えていると、女は少し考えてから言った。
「そうですね。では――くんの考える斬り辛いものというのはなんですか?」
「そりゃ硬い相手だろ? もしくは粘度が高いとか、そもそも物理攻撃の影響が薄いやつとか」
「まあ後者に関しては私も秘言なしでは斬れませんが、硬いだけの相手は比較的斬り易いですよ」
そう言うと、女は地面に落ちていた石を拾い上げた。そして、それを宙へ放り投げる。次の瞬間、彼女は刃に見立てた人差し指でその石を斬った。
二つに分かれた小石は鋭利な断面を見せて湿地へと落ちる。
「私が思うに、単純に一番斬り辛いのは生きているものです。複雑な構造、力による収縮、呼吸。全てが斬る時に邪魔な要素です」
「そういうもんなのか」
どう考えても硬い物の方が斬るのに労力を使うだろうに、どういう感覚で普段剣を振るっているのか。
「それに比べれば綺麗に固まってくれている鉱物なんかは斬り易いですね。結局斬る動作の根本は如何に割り込んで抵抗なく進んでいくかという点に他なりませんから。ただ人の手によって鍛えられた武具、ましてそれを熟練な使い手が持てばその限りではありませんが、耐久力があるだけの人形なんてお話にもならないです」
さりげなく無我の巨兵を人形呼ばわりする辺りは流石だ。
「ちなみにその極致に至れば、後に残るのは斬ったはずなのに斬れていないもので、中々斬るものを選べるというのも便利なものですよ」
「話が異次元過ぎて到底実感は湧かんのだが、お前がそれが出来るってことだけは分かったよ」
とりあえず彼女の言わんとすることもなんとなく理解は出来るので、俺も地面に落ちていた石を拾い、女を真似て指で斬ろうとする。これでも体術に関してはそれなりと言われてきたが、
「まあ、こうなるわな」
結果として粉々に砕けた石が周囲に散らばった。どう考えても出来る方がおかしい。
「その辺は鍛錬あるのみですね。ただ――くんは呼吸を合わせるのはとても上手ですので、そこは今後も意識するといいと思います」
「呼吸ね‥‥」
斬り易いとまで言われた石すら斬れない俺にはまだ遠い世界だな、とそんなことを思っていると、不意に背筋を走る悪寒に顔を上げた。
「これは」
「少々マズイかもしれません」
話に夢中になっていたというのもあるが、まさか俺たちの感知能力を掻い潜ってここまで近づかれるとは、やはり今回の依頼は割にあわない。
視線の先で、小島の如く浮かび上がる黒い影。
先程のよりも巨大な泥食いだ。それも、一体ではない。
湿地を埋める勢いで次々と現れる泥食いの群れ。まさか一体で終わりとは思っていなかったが、
「流石に多すぎじゃねえかな‥‥」
「この数を相手に、しかも下からの奇襲も気に掛けなければならないとなると」
「結論は一つだけだな」
俺と女は頷き合うと、比較的囲いの薄い個所を見据えて脚に力を溜める。
そして、なんの合図も無く駆け出した。足をとる泥を蹴りつけ、前へ前へ。
巨大な口を開けて迎えう泥食いを踏みつけ、切り裂き、お互いの信頼だけを背中に構え、一直線に前へと進む。
そうして、俺たちと鯰の長い逃走劇が始まった。
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