嫌な予感が教える綾辻日々乃の恐怖
足が地を踏む音、荒い呼吸、暴れ狂う心臓の鼓動。全てが頭の中で交錯して混じり合い、混沌を極める。
走る、という単純な動作は、単純であるが故に姿勢やリズム、スピードが少し変わるだけで如実に身体に変化が現れるものだ。
毎日夜のランニングを欠かさず行う俺は、当然一定のリズムやフォームが身体に叩き込まれている。故に、それを今作り直すというのは想像以上に苦労が伴うものだった。
「スピードが落ちてる! しっかり腰を落として地面を蹴る反発力で走りなさい!」
外から飛ぶ叱責に、俺は重くなった脚を上げて大地を蹴りつけ、体幹がブレないように、けれど余剰となっている重さを進む方向に置いて速度を出す。
「走れなくなったら死ぬと思いなさい! 無駄な力を遊ばせず、常に全身の動きを自分で管理し続ける!」
好き勝手言ってくれる。大体これはもうランニングじゃないだろ、無限短距離走だ。ランニングのようにペース配分なんて考えさせちゃくれない、走れなくなってからが本番なのだ。
疲労に身体が動かなくなって来ると、無駄な力がより浮き彫りになる。重力に引かれ倒れ伏す寸前で次の脚を前に出す。自分の重さも自然も何もかもを利用して必要最低限の動きで走り続ける。
夜の校庭に、汗の滴が飛んで滲んだ。
「ハっ‥‥ハァッ‥‥」
気付いた時、視線の先には空に浮かぶ月があった。全身が骨の抜けた皮袋となって、指一本動かせそうもない。
ぶっ倒れたのか‥‥。
正直、どこでどんな風に倒れたのか全く覚えていない。転倒したのか崩れ落ちたのかさえ定かではなかった。
「お疲れ様、まあようやくスタートにに立ってきたという感じかしら」
声が降ってくる。しっとりと落ち着いていて、芯のしっかりとした声だ。
「ハッ‥‥ぁあ‥‥」
「無理に喋らなくていいわ、しばらく休憩してなさい」
‥‥そりゃどうも。
身体が動かせないため、視線を動かすとハラハラと金の粒子が散る。先ほどまでとは打って変わって柔らかな口調と共に俺の視界に入ってきたのは、月に輝くアッシュブロンドの髪をした少女だった。
人のことを散々痛めつけた鬼教官とは思えない程、その美しい姿は見る者全てを魅了する。宝石の如き翡翠の瞳に、神が間違えて与えたのではと疑わざるを得ないメリハリの効いたプロポーション。顔立ちは完全なる調和とばかりに愛らしさを残しながら綺麗に整っている。
作り物めいた、等という表現はよく聞くものだが、彼女の場合はこうして見ていると立って動いていることが不思議に感じる美貌だ。
綾辻日々乃。
陵星高校における新入生推しメンコンテストで断トツの一位を取った美少女であり、文武両道の才女。
学校では終始女子生徒に囲まれ、男子からは視線を集める学年のアイドル的存在であり、告白された回数は数知れず、最近では他校の男子からも告白されることがあるとかないとか。
漫画の世界から抜け出してきたような存在、それが学校での綾辻日々乃だ。
そして彼女の持つ顔はそれだけではない。
夜を迎えトレードマークであるアッシュブロンドの髪を纏め、動きやすいジャケットとパンツスタイルに着替えた彼女は、昼の社交的な優等生から一転、抜き身の刀が如き鋭利な印象の雰囲気を纏っている。
それも当然の話だ。
何故なら彼女の本職は学生ではなく、現代に現れる異形の怪物『アウター』を狩ることを専門とした『守り人』と呼ばれる職業なのだから。
まあ結局漫画の世界の登場人物っぽいのは変わらないんだけども。
「はぁ‥‥、これでスタートラインって、こっからどんどんキツくなるのか?」
何とか呼吸を整えた俺は、上体を起こして綾辻に聞く。奴は手に持っていたスポーツドリンクをこちらに投げ渡しながら答えた。
「当然。ようやく訓練に耐えられる基礎が出来上がりつつあるってところよ。もう少し時間がかかるかと思っていたけど、それなりに運動してたみたいだし、フォルダーだったお陰で大分早かったわね」
「死んでしまう‥‥」
ヤバい、本当に殺される。この鬼教官顔がマジだよ。
確かに俺たちは超常の力、神の残した遺物たる『コード』をその身に宿した『フォルダー』と呼ばれる人種だ。コードは俺たちが今存在する世界よりも高次元のエネルギーを基に発動しており、それを扱う人間もまたその負担に適応し、頑強な身体を手に入れることが出来る。
そういったこともあってこれまでは何とかこいつの扱きにも耐えて来れたが、これ以上厳しい訓練となると‥‥、
「逃げよう、なんて思っていないでしょうね?」
「おいやめろ。人の思考に先回りすんなよエスパーかお前は」
綾辻は冷笑を浮かべ、
「あなたの考え位ならすぐ分かるわ。自分から稽古を付けて欲しいと言った以上、途中で投げ出すなんて真似は私が絶対に許さないから」
「ヒビノーズブートキャンプ‥‥」
参加したが最後、死ぬか終わるまでやり抜くかの二択、それがヒビノーズブートキャンプだ。
ああ、なんで俺はこいつに訓練なんて頼んだんだろうなあ。確かに多少なりとも鍛えようとは思ったけども、もう少し方法があっただろ。
そう、綾辻の言う通り今俺がこうして夜の学校で死にそうになりながら訓練しているのは、俺から綾辻に訓練を頼み込んだからだった。
平凡なる日々を愛する俺が何故そんなことを、と今更ながらに思い返しても、勢いだったという他あるまい。
つい先日大物アウターの『王樹』との戦闘を経た俺は、その後三日間程筋肉痛と疲労から来る風邪で寝込む羽目になった。完全にコードを限界を超えて使用した反動である。
なんとも情けないことに傷だらけで死にかけだった俺と綾辻は、呪いから解放されたばかりで体力は一切戻っていない三神が治療してくれたのだ。しかもその三神は三日目から学校に登校し、綾辻は何ごともなかったかのように次の日から登校していたらしい。
お前ら、骨みたいだったり身体裂けてたりしたじゃねーか、超人か? と笑ってばかりはいられない。流石の俺でも女子たちがそれだけ頑丈な中寝込んでいたという事実はそれなりにショックだった。
そりゃあいつらは子供の頃から守り人となるために訓練を続けてきたのだ。運動部にも入らずグータラとした生活を続けてきた俺とは基礎的な体力が違うのは当然。
しかし、それで納得できるかというのもまた別の話で。
王樹との戦いによって否が応でもアウターの危険性を再認識した俺は、そういった事情もあって綾辻に訓練をお願いしたのである。
それが地獄の門をたたく行為であったことも知らずに‥‥。
あの時のあいつの楽しそうな顔は今でも容易く思い出せるくらい、嫌な予感がしたことを覚えている。




