エクストラコードが教える両腕の信頼
耳障りな騒音が頭を揺らし、土に食い込んだ指が見える。
俺の意識はまるで初めから何事もなかったかの如く浮上していた。或いは、意識を失ったと思ったことさえも死の間際に見た錯覚であったのか。
だが、今そんなことを思案している暇はない。
ハウリングに混じって大気が押しつぶされ上げる悲鳴が、俺たちの頭上に今まさに大剣が落とされんとしていることを教えてくれる。
不思議と恐怖に波打っていた心は凪いでいた。あれだけ言うことを聞かなかった身体は指先に至るまで思考と繋がり、一切のラグを感じることなく動いてくれる。不思議な感覚だった。身体と頭とが複雑に嵌り合い、完全なる個と化す。
ゴッ!! と王樹の大剣がついに振り下ろされた。動きの止めた哀れな獲物に止めを刺す、そのはずの一撃。
だが、既にそこに俺たちはいない。
「なな‥‥せ、‥‥あなた‥‥」
変わらず響き続ける木偶の叫びに紛れて、すぐ隣から綾辻の声が聞こえてきた。より正確には、脇に抱えた彼女が苦し気に口を開いたのだ。
あの瞬間、瞬きする暇もない時間の中で、俺は隣で蹲っていた綾辻を掴んで後ろに跳び、邪魔な木偶は蹴り潰した。
視界が広く、暗闇の中でも明瞭に物が見える。傷の痛みすらも気にならない。
「ああ、ちくしょう」
綾辻の声に応えることもなく俺は彼女を降ろし、そしてこらえきれず呟いた。逃げられたことに気付いた王樹が虚ろなる眼窩でこちらを見据え、呻き声を上げる。
熱さを包容したまま冷たく研ぎ澄まされる戦意の中で、コードの光が溢れ出した。きっと、はじめからこの力はそこにあったのだ。ただ俺がそのことに気付かなかっただけで、魂に刻まれた言葉は決して摩耗することなどありはしないのだから。
『七瀬くんなら大丈夫です』
そう言ってくれたのはどちらだっただろうか、俺なんか全然大丈夫じゃないんだ。頬を伝う感触は先ほどまでの冷や汗とは違い、焼けるように熱い。
『笑わないのですか?』
馬鹿言うな、笑えるわけがないだろ。脳裏に焼き付いたあの光景と、この力が示す結果はたった一つだけだ。大体、笑っているかどうかくらい見なくても分かるだろうに。
そう心中で言い返してやると、そいつは濡れ羽色の髪を揺らし、クスクスと笑って俺の手に自分の手を重ねた。
大丈夫だと、そう安心させるように。冷たい指の感触が、俺の指と絡む。
コードの光が帯となって両腕を包み、色を変えていった。赤が燃えゆき、青が沈め、緑がそよぎ、黄色が瞬き橙と灯り、藍が滲んで紫と混じる。
彼女が顕現させたそれは世界の全てを映し出す鏡の如き刀身であったが、俺の両腕を包んだ色は全てを飲み込んで混沌とする黒だった。
もう、立ち止まっている暇は無い。涙を流そうと、嘆こうと悲しもうと、今の俺に出来るのは目の前の現実に立ち向かうことだけなのだから。
『さあ、行きましょう』
ああ、行くか。
発動する俺のエクストラコードは、〝継承〟。言霊士にとって生涯をかけて鍛え続ける存在の象徴、概念武装を譲り受け、その身に宿す力。そして俺が今顕現させたのは、あらゆる刀剣の要素を言霊として宿した、全にして一、一にして全なる剣。
とある盲目の言霊士によって顕現し、斬れぬものなしと謳われたこの剣の銘を知っているのは、過去現在未来において二人だけだ。
継承武装――『七色』。
全てを斬って尚、決して彼女が知ることの出来なかった名を冠した剣は、今俺の両腕にあった。
「っ‥‥!」
隣にいた綾辻が、ハウリングに耐えながら驚愕に目を見開く。顕現させた俺自身両手から感じる力に身体が震えそうになった。
悪いが、この七色はあまり長い時間維持は出来そうにない。どれだけ辛かろうが、綾辻には先ほどまでと同じように王樹を殺すための一撃を打ち込んでもらう必要がある。
だから、俺は端的にそのことを綾辻に伝えた。
「綾辻、もう一回だ。今度こそ時間を稼ぎ切ってみせる」
「もう、一回って‥‥」
なんとか立ち上がる綾辻だったが、その表情は苦し気に歪み、とてもじゃないがコードを発動出来る状態には見えなかった。
ああ、とそこで木偶たちがハウリングを続けていることを思い出す。そうして意識してしまうと、何故気にせずにいられたのか不思議な程に不快だった。
「斬るか」
出た答えは、至極単純。これまで打開策を考えていたことが馬鹿らしくなるほど、この方法が今の俺にとって当然の帰結だった。
「なに、言って」
綾辻が頭を押さえながら聞いて来るが、そうしている間にも木偶たちは押し寄せる波の如くこちらに迫り、王樹は茨の鞭を振りかぶっている。
故に、俺の身体はその時既に構えに入っていた。前世の俺はそもそも剣に限らず武器を扱う才能というのが一切なく、それは俺の知る最強の剣士であり師匠のお墨付きだ。当然ながら今生十五年と少し、刃物なんて包丁くらいしか触った覚えがない今の剣術など察するべくもない。
しかしながら、体術に関しては俺にも少なからず芽があった。夢の中、あらゆる敵に対して拳を握り、最も近い距離で戦い続けていたのはそれが理由だ。
だからこそ俺はこの七色すらも両腕に宿す。彼女が与えてくれた型を自分の中で噛み砕き、最善の動きをイメージする。
今必要なのは、疾く鋭く、流れに任せて自由に吹き荒れる刃。重りのようであった両手を手刀の形にし肘から先を刀身に見立てると、中指を切っ先に、肘と肩を柔らかく肩甲骨から力を伝えることを意識する。
動き始めは決して速い動作ではなかった。下半身は大地を踏み固める程に重く、地面に跡を残しながら回転し、両手の七色を体幹を軸とした螺旋に引き込みながら捩じり上げた胴に力を溜めた。
そして、俺の上体は縄から解き放たれた独楽と化して回る。夜闇の中に流れる風の中に、七色を激動の中とは思えない程繊細に割り込ませると、その太刀筋を乗せた。夜を斬ってより濃い黒が弧を描く。
この型の名を、『木枯らし』。
風に乗り周囲の全てを不規則な軌道で刻む不可視にして素早い刃の群れ。その風切り音を聞いた時、既にその斬撃は二の太刀を浴びせるだろう。
結果は、即座に現れた。
〝恐慌〟の叫びは散り散りに裂け、その直後には木偶の腕が刎ね飛ばさる。一歩を踏み出そうとすれば脚だけがその場に取り残され、茨の鞭は半ばで千切れて木偶を吹き飛ばした。
「なっ‥‥!?」
突如として消えた音に綾辻が声を上げ、王樹は不思議そうに切り落とされた鞭を持ち上げた。
だが、今木枯らしを打ち込んで感じたが、やはりこの七色は消耗が激しすぎる。まるで頭から足の爪先までが心臓になって脈動し熱を放っているようだ。
「これなら行けるか、綾辻?」
声を出すことさえも喉を焼き、問うた言葉は掠れていた。
綾辻は聞きたいことはいくらでもあったのだろうが、それらを飲み込んで一度深呼吸して呼吸を整え、汗と血に濡れた髪をかき上げる。その下にある瞳は爛々と意思の光に燃え、少しの陰りもありはしなかった。
「当然、誰に言っているの」
「お前、ついさっきまでへばってたじゃねーか‥‥」
「‥‥黙りなさい」
いや、そんな射殺すような目で見るなよ。恥ずかしいのか少し頬こそ赤いが、その視線と声色は可愛げの欠片も無い。まあ、だからこそ頼りになるとも言えるのだが。
やりとりはそれで終わりだった。綾辻が無言で一歩後ろに下がり、その代わりに俺が一歩前にでる。つい先程の交戦では防戦一方でありながら自分の身体を守る余裕さえなかった。
これはリベンジだ。七色を持つ今、無様な姿を晒すことは許されない。いや、俺自身が許せそうにない。
王樹と木偶の群れを見据え、俺は無理にでも笑う。複雑な感情を押し殺してでもそうするのは、俺がこの七色を、その向うにある人影を、そして後ろに立つ綾辻を信頼しているからだ。




