咲良綴が教える力の正しい使い方
「‥‥」
見慣れた部屋の天井を見つめながら、俺は暫くの間呆然としていた。
どうやら気付かぬうちに寝落ちしていたらしい。服装は制服のままで、乾いてしまった肩から考えてもそれなりの時間寝ていたようだ。既に家の中は静まりかえっていて、カーテンの隙間から見える窓の外は夜闇に沈んでいた。
普段なら夕飯の時に姉貴辺りが起こしにくるんだが‥‥、それでも起きなかったのか。はたまた放置されたのか。
そんなことをぼんやり考えている間にも心臓が激しい鼓動を刻み、荒い息が漏れる。それは前回の時よりも更に激しい疲労感だった。
眠りに落ちた時前世の夢を見ることは珍しくもないが、今回はどことなく勝手が違う。寝てしまったから見たのではない。まるで夢の世界に引きずり込まれるように、抗えぬ力で俺は向うの世界に居たのだ。
どういうことだ?
もしかすればエクストラコードすら知らぬ俺のために、コードが俺に何かを伝えようとしていたのかもしれないが、結局のところその正体は分からないままだ。というか相変わらず概要は覚えているのに、細部が朧げな輪郭で曖昧模糊としている。
大事なことを忘れていると自覚しながら、それを思い出せないこと程不快なことはない。つい先ほどまで手の中にあった水が、覚醒するにつれて指の隙間から零れ落ちていく感覚があまりにもどかしかった。
「‥‥なにやってんだろうなぁ、俺」
呟いたところで、当然返答などあるはずもない。こうしている今も綾辻と三神の戦いの時は近づいているはずだ。
恐らく三神の体調はあれから好調に向かってはいない。最後に会ったあの日からどれ程の日数が経ったんだ? その間に、あいつの体調はどれだけ悪化している? 綾辻は一人で戦っているのか?
改めて考えてみると日にちの感覚が曖昧で、そんなことも覚えていない。
俺だって分かってるのだ。簡単な話、心配なら行けば良い。こんな〝強化〟のコードしか使えない出来損ないでも、居ないよりはマシだろう。
だが、彼女たちのことを不安に思っていながら、身体に力が入らない。胸の奥底にぽっかりと穴が開いて気力が吸い込まれていくようだ。
「っ‥‥」
自分が、あまりにも情けなかった。どうして動けないんだ、答えは頭の中でとっくに出ているのに、感情と身体が追い付いてくれない。
劣等感と自己否定。
言葉にしてしまえばただそれだけのことが自らを縛り付けている事実に、更に嫌悪感が募る。まさかここまで自分が小さい男だとは思わなかった。
夢の中の俺も間違いなく誰かに対して強い劣等感を感じていはずだが、何故俺はあんなにも充足した気持ちで戦えたのだろうか。
絶対に忘れてはならないはずの何かを、俺は忘れている。魂が求め、胸の穴から幾本もの手が伸びていき、その何かを探して俺の全てを穴の中に引きずり込んでいくのだ。
俺は一体何を――
直後、バイブレーションと共にポケットの中の携帯から着信音が流れた。
俺の携帯に着信があるのは非常に珍しい。そもそも友達と言える人間の数が少ないので、家族以外から電話がかかってくることはほぼない。
誰だかしらないが、何もこんな時にかけてこなくてもいいだろうに。
そう思いながら、鳴り止まぬ着信音に負けて俺はポケットの携帯を怠い手で取り上げる。
目前に持ってきた光る画面に表示されていた名前は、意外な人物だった。
「なんで」
呟きながら振るえる指先で応答の状態にし、携帯を耳元に当てる。
そこから聞こえてきたのは、聞き慣れた柔らかい声。
『あ、もしもし咲良綴と申しますが、こちら七瀬凛太郎さんの携帯で合っていますでしょうか?』
とても同級生の携帯に電話をかけてきたとは思えない程馬鹿丁寧な口調に、俺は一瞬全てを忘れて笑いそうになった。
「‥‥どうしたんだ、咲良?」
『あ、七瀬くん! 夜分遅くにすいません』
「いや、いいよ。俺も少し寝てて今起きたところだし」
それよりも、なんで電話をかけてきたんだ? 確かに電話番号自体は文芸部に入った時に交換していたが、メールでのやり取りで不便を感じなかったため電話をすることも咲良からしてくることもなかった。
だからこそ初めて気づいたのだが、え、女の子と電話ってヤバい。耳元から聞こえてくる咲良の声は当然ながらいつもよりもずっと近い。まるで口を寄せて囁かれているかのようだ。
物理的に距離が開いた方が近い位置で声が聞こえるとは‥‥俺は現代の新たな矛盾に気付いてしまったのかもしれない。
『そうですか、それならよかったです。電話しようかどうか迷っているうちにこんな時間になってしまって』
「お、おお」
あれ、それ俺も半月くらい前に覚えがあるぞ? 初めて咲良の連絡先を手に入れた時も携帯を前に三時間以上修羅のような顔で悩んでいた覚えがある。結局その日も咲良からメールが来たんだけど。
‥‥もしかしてこの本馬鹿にも、そんな思春期特有の葛藤があったのか?
『うーん、今日私との話の後、ゾンビみたいな足取りで帰って行ったので心配で。かといって電話するのも迷惑かなと』
「ああ、うん。そういうことな」
そうだよね。創作世界にあらゆる感性を放り投げている咲良に、そんな男の子に電話するのが恥ずかしいなんて甘酸っぱい感情があるはずがない。‥‥知ってたよ。
「それはなんと言うか、悪かったな。大丈夫だぞ」
『みたいですねー。なんでしょう、思ったより元気そうで安心しました』
「ああ、自分でも驚くほどにな」
本当に、驚いた。なんでこいつの声を聞いただけで、俺はこんなに安心してしまうのだろう。
それはもしかしたら、咲良が俺にとって日常の象徴だからかもしれない。乖離していく非現実から、帰ってくるための導。だからだろうか、こんな質問をしてしまったのは。
「なあ咲良」
『どうしました?』
「なんで物語の主人公ってのは自分で努力して手に入れたわけでもない力を平然と使えるんだろうな?」
今俺の中にある葛藤。咲良に読ませてもらってきた物語のジャンルの中には、突然力に目覚めた主人公がそれを使って活躍するものが多々存在したが、彼らは一体どんな思いでそれを振るっていたのだろうか。そんな得体の知れない力を。
使わざるを得ない状況にあったからかもしれない。そもそもそんなことに悩むこと自体がおかしいのかもしれない。
けれど、脳裏に過ぎる綾辻の木偶と戦う姿。そして倒れる寸前までその使命を全うしようとする三神。俺はあいつらの命を賭した覚悟を前に、何もかもが中途半端な自分が踏み込むことを躊躇った。
電話を通して、向うにいる咲良が考え込む気配がする。斜陽に照らされた濡れ羽色の髪の下で、憂う気な瞳が思案する姿が目に浮かんだ。小説のネタの話だとでも思っているのだろうか、いや、でも俺がさっき話した悩みとはまた大分違う。きっと戸惑いも大いにあるだろうに、彼女はそれについては触れもせず真摯に考えてくれる。咲良綴とは、そういう少女だった。
そして少しの沈黙の後、咲良は言った。
『そうですね。物語によって勿論色んな考えの主人公がいると思います。何も考えてない人も、手に入れたのだから使って当然だという考えの人も。そして、力に疑問を持って使うことを躊躇う人も』
その言葉に、俺はあの透き通った湖面のような瞳が俺の目を覗き込んでいるような錯覚を覚える。その瞳を前にした時、俺は鏡に映された自分自身と対話するように、虚栄も建前も許されない。
『きっとその考え方は個々人によって違いますから、これだと断言することは出来ないですね』
咲良はそこまで言って、『ただ』と続けた。
『私は主人公としてもっと大事な要素があると思ってます』
「もっと大事な要素‥‥?」
『はい』
そうして、咲良は言う。まるで自分の中にある大切なものを曝け出すように、愛しい子を慈しむように。
『その力を以て何を為そうとしているか。真に自分が正しいことをしようとしている人は、自分の力を信じて、使うことを躊躇わないでしょう。けれど少しの曇りがあればそこに疑念が生じます。大事なのは、今自分が自分に正直に、誠実にいられるかだと私は思います』
いつもの部室で咲良は俺の対面に座り、そしていつものように柔らかに微笑んで俺に語り掛ける。
春、どの部活に行っても嫌な顔をされ続けて立ち止まった俺に道を示してくれたように、彼女は手を差し伸べてくれる。
『私は七瀬くんならきっと正しい道を選べると信じています。七瀬くんは、どうしますか?』
「俺は‥‥」
携帯を握る手に力が篭る。
重い鎖に雁字搦めになっていた身体が徐々に軽くなる。俺の中に眠る何かが、鼓動を打って叫び始めていた。夢の中で竜に対峙した時のように、それは心地よい昂揚感をもって身体を震わせる。
「俺は、もう迷わない」
自分に言い聞かせるように、そう口に出した。そして、そんな独り言を彼女はしっかりと受け止めて返してくれる。あの日宙を彷徨って行く先を失った俺の手を握りしめてくれた咲良は、その柔らかくも力強い手で俺を引っ張ってくれたのだ。
『はい、七瀬くんなら大丈夫です』
その言葉に後押しされるように、俺は一気にベッドから立ち上がった。
全く何をうじうじ悩んでいたんだか。咲良のたった一言で振り切れるのなら、もっと早いとこ決断しろよと自分でも言いたくなる。
だが、彼女がそう言ってくれたおかげで確かに何かが変わったのだ。澱の如く淀んだ思いがなくなったわけではない。劣等感も引け目もまだ確かに俺の中にある。
それがどうした。そうだよ努力してきたわけじゃない、自分の力がどんなもんかだって分かりゃしない。
けど、力がなかったら何もしなかったのか? そうじゃねえだろ。俺が本当に何の力もない一般人でしかなくたって、あいつらの足手まといにしかならないって分かってたって、なにもせずに指を咥えたままなんていられるはずがない。
なにもしてこなかったっていうなら、今から始めればいい。
これはちっぽけな意地とプライドだ。そのために、俺は今から俺が正しいと信じる我儘を押し通す。そして、そう決めた瞬間から、もはや自身の力がどんなものかなど考える気も失せた。どんなものであれ、今俺は俺の持つカードだけで勝負するしかない。
「悪いな咲良、少しやらなきゃいけないことが出来た」
部屋を出て階段を一息に駆け下り、玄関で靴を履き替えながら俺は咲良に言う。きっと最初から最後まで何を言っているかも分からないはずの咲良は、俺のこの突発的な行動にも内心では困惑しているはずだ。
けれど彼女はいつものように、
『頑張ってください。あ、それと短編もしっかり進めてくださいね。文化祭まで意外と日がないんですよ』
「‥‥分かってるよ」
本当に、咲良は本馬鹿だ。きっと脳内の九割が妄想と文字だけで埋まっているに違いない。だが、おかげでやるべきことはより明確になった。さっさとあの二人の問題を解決して、部室で咲良と二人きり楽しく物語を書くのだ。
文才のない俺でもこれだけ非日常の体験をすれば短編の一本くらいはかけるだろうよ。
名残惜しさを感じながらも通話を切り、俺は玄関の扉を押し開ける。
夜から流れ込んでくる空気はどこか雨の匂いを含んでいて、重苦しく身体にまとわりつくるようだった。
「‥‥」
携帯に表示されている時刻は既に零時を示している。昼の喧騒は深い眠りに落ち、夜の帳が静寂の中で揺らめいていた。高揚する意識の中で、恐怖は確かに俺の中にある。
しかし、もはや俺に躊躇いはない。俺の選択を肯定してくれる人が居る。ただそれだけで一歩を踏み出す勇気を持てる。
「行くか」
きっと俺にも出来ることがある、そう信じて俺は暗闇の中を走り出した。自分が正しいと思うことを為すために、薄情者な二人の少女に一言文句を言ってやるために。そして背を押してくれた少女の期待に応えるために。




