過去が教える綾辻日々乃と三神晶葉の出会い
窓の向こう側、しとしとと夕方から売り始めた雨はいつの間にか止んでいた。既に日は街並みの中に沈み、保健室を照らすのは蛍光灯の明かりだけ。
制服から仕事服に着替えた綾辻日々乃はノートパソコンから顔を上げて薄暗い窓の外を眺めていた。気を紛らわせるように事務処理を行っていたが、進んでいるとは言い難い。窓に映った少女の顔は愁いを帯びた表情でこちらを見ていた。
その服装は既に仕事用の物で、髪も一つに纏められている。
未だ現界期までは時間があるが、それでも尚感じる不穏な気配。鳥肌が立つような悪寒に平常心を保とうとはするが、キーボードを打つ手はぎこちない動きをするばかりだ。
日々乃はノートパソコンを閉じると、立ち上がってベッドへと近寄った。
カーテンを静かに開けた先で横たわっているのは、頬がこけ眼の周りは落窪んでしまった一人の少女。愛らしかった亜麻色の髪は随分抜け落ち、部分的に色が抜けて白く変わってしまっている。
この数日で、晶葉は別人のようにやつれてしまった。
そう、三神晶葉は『呪い』を受けていた。
それまでは自らの治癒のコードによって進行を遅らせ、なんとか日常生活を送れるレベルを維持していたが、七瀬に守られたあの日から消耗が激しく学校に通うどころか、現界期にも結界を張った後はこのベッドで横になる毎日だ。
それはこの学校に入学するよりも前、春休みの最中に起きた守り人の大規模動員。ある異界において強力なアウターの存在が認められ、日々乃と晶葉もその討伐に召集された。
そこで現れたのは大樹が怪物と化したアウター。奴らは枝葉や根を武器と化し、従者の如く一回り小さなアウターを次々召喚して数の暴力によって守り人に牙を剥いた。
一体一体は大した耐久性もないが途切れることなく現れ続け、更には十分な殺傷力を保有している。守り人とはいえ人間である以上、戦い続ければ集中力は摩耗し疲労は蓄積する。
無尽蔵に生み出される木偶人形を前に、ジリ貧になると判断した日々乃たちは突破力の高い人員でチームを編成し、大元である大樹のアウターを殺すために突貫した。
結果として大樹を追い詰めるに至った日々乃たちは、しかしあと一歩のところで現界期が終了したことによって止めを刺すには至らず、残されたのは傷つき倒れ伏す死屍累々とした惨状だけだった。
そして木偶人形によって刻まれた爪痕は、それだけに留まらない。
〝呪殺〟のコード。
木偶に傷つけられた守り人の一部がしばらく経ってから原因不明の不調を訴えるようになり、検査が行われた結果呪いに侵されていることが判明したのだ。
幸いにもほとんどの人間は〝浄化〟のコードを持つ者によって解呪されたが、たった一人、従者ではなく大樹のアウターそのものから呪いを受けた人間だけは解くことが出来なかった。
日々乃と共に守り人の支援を行いながら突貫した三神晶葉は、今もなおその呪いに身を蝕まれている。
救いたいと切に願っても、その苦しみを和らげてあげたいと思っても、日々乃は殺すことは出来ても治すことも浄化することも出来はしない。
眠りに落ちて尚苦痛と悪夢にうなされ続けるパートナーを前に、彼女はあまりにも無力だった。
大樹の呪いに打ち勝てるだけの〝浄化〟を扱えるフォルダーが居ない以上、晶葉の呪いを解く方法はたった一つ。
呪いの根源たる大樹のアウターを殺すしかない。
呪いをかけたはずの者が生き続けていれば、必ず奴らは現れる。日々乃たちの前に木偶が多く出現するようになったこと、そして晶葉自身が何か悍ましき物と繋がっている意識を持っていることがその証左だ。
だが、このことに関して守り人を統括する本部は当てに出来ない。
何故なら、彼らからすれば晶葉は腹立たしいことに大した戦力にならない存在。彼女一人のために多数の損害を出した大樹のアウターが再び出現するようなリスクを負うはずがない。
故に日々乃は本部の目が届きにくい場所に高校進学を機に配属希望を出した。幸いにも呪いの存在と大樹の出現の関係性には気づかれた様子もなく、守り人であった三年生たちと入れ替わるようにこの陵星高校へ入学することが出来た。
その際、日々乃に新たなパートナーを打診してきた上司の顔面に拳を叩き付けそうにはなったが。
たった一つ誤算があったとすれば七瀬凛太郎の存在だろう。まさかこんなところで認知されていないフォルダーに遭遇するとは思わなかったが、理性的な人物で助かったという他ない。
いや、それどころか日々乃は一時的にせよ七瀬に助けを求めた。
「‥‥いえ、違うわね」
無意識の内に漏れる呟き。
日々乃は晶葉に関する重要な事実を話すことはせず、これまで普通の人生を送ってきた人間を、ただ実力があるからという理由で利用したのだ。
ベッドから立ち上がり揺らいだ彼の身体を抱き留めた時、日々乃は内心で驚愕し目を見張った。木偶を一蹴し、傷を負ったとはいえど囲まれた状態から晶葉を守り抜くだけの力。不可思議ではあれど、事実は事実であり、故に日々乃は気付かぬうちに七瀬を守り人のように見ていたのだ。
しかし、その腕で支えた七瀬の身体は想像より遥かに軽くて細い。筋肉の付き方も体重も、骨の硬さも何もかもが標準でしかなかった。普段は飄々とした物言いの口調は疲労に震え、髪の隙間から見える横顔は明かりの下で青白く際立つ。
『‥‥っ』
その瞬間、凄まじい罪悪感と羞恥が自身を襲った。
晶葉を助けなければならないという使命感にばかり目が向かい、本来は護らなければならない対象を戦いの矢面に立たせてしまった。甘えていたのだ、彼の気丈な態度に。
だからこそ、これからは一人で戦わなければならない。もう、誰かに頼るのは終わりだ。
「晶葉」
ベッドで眠る少女に囁き、その痩せた頬を撫でる。恐らく、今日が決着の日となるだろう。首筋を焼く緊張感が、それを教えてくれる。
「‥‥」
綾辻日々乃という少女は、生まれた時から孤独であった。
産声を上げたと同時に無差別に発動した強すぎる〝重力〟のコードは周囲の環境を容易く捻じ曲げ、実の両親は彼女をまともに抱くことも出来ず、日々乃は国の機関に引き取られたと聞く。
彼女が幼少時代を送ったのは、守り人を育てるためにフォルダーが集まる場所。周囲にいる人間は皆日々乃と同じように生まれた時から家族と訣別せざるを得なかった子供たちばかり。彼らは厳しい訓練の中で大きな一つの家族のように育てられてきた。
だが、強力なコードだけでなく卓越した運動能力、戦闘における天賦の才を持つ少女は年を経るごとにその異彩を際立たせ、徐々に孤立していく。
ただ良くも悪くも綾辻日々乃は勤勉であり真面目な性分であった。コードの影響によって色素の薄い髪色、整った顔立ちは相まって同期の中でも浮いた存在であった彼女は、周囲から見た己を理解した日から努力した。人当たりのいい笑い方、緊張を解かせる口調、親し気な仕草。
しかし、そうして人との距離を詰めて尚、いや、なまじ距離が近づいた分だけ日々乃は理解した。せざるを得なかった。
ふとした瞬間に感じる余所余所しさや、遠慮。どんな人間も決して彼女との間にある一線を越えることはない。どこまでいっても、彼ら彼女らにとって綾辻日々乃は家族から特別な存在へと変わっていたのだ。
故に、彼女は割り切った。日常の生活の中で、戦闘訓練のために支障が出ないようにすべての人と親しく接するが、それ以上の関係を望むことはない。手に入らないもののために、心を痛めることも、努力する必要もいつの間にか意味を見いだせなくなっていた。
そんな日々を過ごす中、日々乃はどことなく息詰まりを覚え人の輪を抜け出し、あてどもなく施設を歩くことがあった。その日、人の居ない所を探して彼女が辿り着いたのは、訓練場の一画。訓練時間ではないその時、日々乃以外に人はいないはずの場所。
そう、たった一人で休憩用のベンチに寝そべる少女、三神晶葉を除いては。
『‥‥三神、さん?』
三神晶葉は珍しく最近になってからここに引き取られた少女で、日々乃も名前だけは知っていたが、訓練でも人付き合いの中でもほとんど主張をしない彼女は日々乃の中で印象が薄かった。声をかけられた当人はといえば、身体を起こすこともせずに首だけを動かして日々乃を見ると気怠そうに口を開く。
『ああ、綾辻さんだっけ』
彼女が言ったのは、それだけだった。
反射的に日々乃はいつものように話しかける。
『ちゃんと話すのは初めてだったかしら。こんなところで会うとは思ってなかったけど、改めてよろ‥‥』
言葉が尻すぼみになったのは、上体を起こしてこちらを見る晶葉の瞳のせいだった。恐怖も憧憬も、なんの思いも抱かずこちらを見透かす純粋な眼差し。日々乃は幼少の頃から老若男女を問わず様々な視線に晒され続けたおかげで、その人の視線から感情を読み取ることが得意だった。
しかし、この少女からは何も見ることが出来ない。
言葉を失った日々乃に、晶葉が単調な口調で言葉を投げかける。本当に、何でもないように。
『別に、私に対してそういうことしなくていいよ。綾辻さんと組むようなことはないだろうし、疲れるでしょ?』
最初、何を言われているか分からなかった。その意味を理解した瞬間、日々乃は反射的に答えていた。
『別にそんなつもりはないけど‥‥』
『そう? ならごめん。ただ大変そうだなと思っただけだし』
『なっ‥‥』
何を言っているの? そう言おうとした。別に疲れるようなことはしてないし、そもそも初めてまともに喋る人にそんなことを言われる筋合いはない。
しかし思いとは裏腹に口は微かに震えるばかりで声を出すことが出来なかった。
どうして。
人付き合いなんてものは、結局表面上の物だけあれば十分だ。何故なら自分は特別であり、彼らとは並び立って戦うことは出来ない。それを彼らも分かっているからこそ、昔は仲のよかったあの子も、兄のように可愛がってくれたあの人も、気付けば離れていった。
無駄な努力だと割り切ってしまえば、もう何も感じる必要は無い。
痛みも、悲しみも、疲れることだってありはしないのだ。
だから、晶葉の告げた言葉も全て的外れでしかない。
そのはずなのに。
『まあ新入りの勝手な戯言だから気にしないで。私からはそう見えたってだ‥‥け‥‥』
晶葉の言葉は、日々乃を見つめた状態で徐々に途切れていく。それは奇しくも先ほどの自分と同じような状況であったが、彼女の表情にあったのは驚愕だった。
何を驚いているのか、そう日々乃が思った時、顎を何かが伝う感触に気付いた。
『あれ‥‥』
触れた指先を濡らしたのは、ここ数年流した覚えのない涙。理由なんてものはまるで分からないけれど、日々乃はその時確かに泣いていた。声を漏らすことも表情を歪ませることもなく、ただポロポロとその大きな瞳から真珠のような涙をこぼし続ける。
優秀であったが故に自らの心すらも欺き続けた少女は、しかし自分自身も気付かぬ間にその身体と精神は限界を迎えていた。
晶葉の言葉が日々乃の渡り続けた細い綱を揺らし、その均衡を崩したのだ。そして一度落ちてしまえば、もう簡単に戻ることは出来ない。
『まっ、待って! 別に泣かすつもりは!』
それまで淡々とした表情で話していた三神は、まさかの天才の泣き顔を前に慌て出す。
当の本人である日々乃は涙を流したまま、ああ、そんな顔も出来るんだな、とどこか冷静に考えていた。
ワタワタとハンカチで日々乃の顔を拭こうとして、それが汚れていることに気付いたのか途中で動きを止める。
そんな姿がどこかおかしくて、日々乃はいつの間にか笑みを浮かべていた。可笑しな気分だ、未だ零れ落ちる涙が止まる気配はないというのに、もう随分と忘れていた感情が心の内から湧き出て来る。
〝清浄〟のコードを持っていたらしい彼女がその存在に気付いてハンカチを綺麗にした後、こちらを見て訝し気な顔を作った。
晶葉からすれば変な女だろう。たった一言で泣き出した挙句に、そのまま笑っているのだ。
しかし、日々乃からしてみれば彼女の存在こそ新鮮だった。この狭い世界の中で、知らず知らずの内に作っていた常識がたった一言で、酷くくだらないものだと気付かされたのだ。こんなもの、笑うしかない。
『ごめんなさい、別に悲しいわけではないんだけど、ただおかしくて』
『おかしくてって‥‥』
それから暫くの間、日々乃は奇異の目をする晶葉の前で泣きながら笑い続けた。
それが、守り人としても友人としても長い付き合いになる二人の出会い。
きっと晶葉はほとんど覚えてもいないだろうが、日々乃にとっては人生の見方が変わるくらいには衝撃的な出来事だった。
だからこそ、ここで晶葉を失うわけにはいかない。たとえどんな手を使ってでも、この命を賭してでも彼女を救う。その覚悟を新たに、日々乃は眠る晶葉から手を離し、
「行ってくるね、晶葉」
そう告げて保健室を後にする。
月明かりの下、淡い光に照らされてたった一人戦場に向かう少女の表情は、研ぎ澄まされた刃のように静謐な殺意を宿す。そんな彼女を迎え入れるように、漆黒に染まった山の道はぽっかりと口を開けていた。




