9-⑮
意志の強い兄の目を見て、マデリンは言う。
「では、今日からお兄様が侯爵になってください」
「……え?」
兄はポカンと口を開けると、マデリンを見た。何を言われているのかわからない。そんな顔だ。
マデリンは小さく笑う。
「何でもできると仰ったではありませんか」
「だが……」
「ほんの少し早くなっただけです」
父が年老いれば、いずれ兄が侯爵を継ぐ。それが少し早くなるだけだ。
兄は早くから父のもとで次期侯爵として手伝ってきた。今、爵位を継いでも問題はないのではないか。
内向的で気の弱い兄だが、才がないわけではない。少し、度胸が足りないだけだ。
「お兄様が侯爵となり、お父様を処罰する。そうすれば、殿下も納得してくださるでしょう。いいえ、それで殿下を納得させなくてはなりません」
「マデリン……」
「お兄様ならできるわ。いえ、お兄様にしかできないわ」
「だが……」
兄は何度も父とマデリンを交互に見た。
「このままトルバ家が潰れていくのを見たいなら、私は止めないけど」
父とともに落ちて行きたいのであれば、止めるつもりはなかった。
「私が侯爵となり、父を処罰する……」
「お兄様はお父様のことを慕っていたみたいだけれど、お父様は自分の欲を満たすためにトルバ家を窮地に立たせた。そんな人を父と尊敬できますか?」
「本当に父も?」
「はい。本人がハッキリと。すべては私の不幸のために」
マデリンは掻い摘まんで父から聞いたことを兄に説明した。
兄は顔を青くさせながらも、マデリンの話を真剣に聞く。
何度も気絶する父の顔を見下ろした。
「父はそんなにひどいことを……」
「今回のことは、トルバ家としてけじめをつけなければなりません。どうするか決めるのはお兄様です」
「そうか……」
兄の声はわずかに震えていた。
マデリンは小さく息を吐く。兄がトルバ侯爵を継ぐには早すぎただろうか。
しかし、彼以外に適任者はいない。
「マデリンの言うとおりだ。父上は償うべきだろう」
「お兄様……」
「心配させたな、マデリン。父上がこうなった以上、私がしっかりしなければ」
兄はぎこちなく笑う。
「私もお兄様の力になります」
マデリンは床に膝をついて、兄に視線を合わせた。
トルバ家の娘と生まれたのだ。それくらい当たり前のことだった。
兄は笑みを浮かべて頷いた。
***
マデリンは兄と並んで廊下を歩いた。無言だ。
父は兄の指示で使用人たちが拘束している。
目が覚めたら正式にトルバ侯爵の代替わりを通達することになるだろう。
兄が何を考えているのかはわからない。マデリンにとって、兄は近くて一番遠い存在だった。
マデリンは兄を見上げる。
「お兄様、巻き込んだこと恨んでる?」
マデリンの問いに兄は立ち止まる。
「……恨んでいるか? か」
兄は暫くのあいだ思案したあと小さく笑った。
「マデリンは巻き込まれた側だろう? もう少しで二度も婚約破棄を経験するところだった妹を、恨むほど私は落ちぶれてはいない」
「そう……」
「だが、後悔はしている」
「後悔?」
「今まで、父の行いには目を瞑ってきた。その結果がこれなのだろう。もし、恨むとしたら自分自身だ」
兄の顔はどこかすっきりしていた。
「父上の処罰だが、マデリンはどうしたい?」
「私が決めてもいいの?」
「おまえが一番ひどい目にあっている。決める権利はあるだろう?」
マデリンは肩を揺らして笑った。
たしかに、この五年間でマデリンはひどい目にあった。膝の裏を何度も腫らした。
「そうね……。お兄様にお任せするわ。トルバ家の地位を保てる最良の処罰を」
「いいのか?」
「ええ。お父様のことは、もうどうでもいいの」
恨みがないかと聞かれたらそうではない。しかし、王族の納得する処罰を受ければそれでじゅうぶんだ。
彼は唯一持っていた爵位を失う。それを彼の手から奪い取ったのはマデリンだ。それだけでじゅうぶんだった。
兄は「そうか」と神妙な声で頷いた。
沈黙が続いた。二人の足音だけが廊下に響く。
長い沈黙のあと、兄は再び口を開いた。
「アウル君の容態はどうだ?」
「大丈夫。目を覚ましたわ」
「それならよかった」
「ええ、本当に。もし、アウルに何かあったら私は父親の心臓を狙っていたわ。だから、本当によかった」
マデリンは眉尻を下げて笑った。
きっと、アウルに何かあったら、マデリンは父を許さなかっただろう。
今だって許したわけではない。父がそれ相応の罰を受けると知っているから、落ち着いていられるだけ。
「もう少しで、私は父と妹の二人を失うところだったんだな。よかったよ、アウル君も無事で」
兄は困ったように眉尻を下げる。
「ところで、トルバ侯爵になるお兄様にお願いがあるの」
「なんだ? 結婚式の日程なら、いくらでも調整しよう」
兄が真面目な顔で答えた。
もうすぐ結婚式だ。
しかし、アウルの容態やトルバ家のゴタゴタ、それを、加味したら延期をするのが妥当なのだろう。
マデリンは頭を横に振る。
「いいえ」
「じゃあ、なんだ?」
「ルート家に婚約の撤回を申し出てもらいたくて」
マデリンは静かに言った。
兄はマデリンを見つめたまま動かない。
マデリンは廊下の窓から四角く切り取られた空を見つめた。




