8-⑦
兄はしばらくのあいだ思案したあと、口を開いた。
「最近、父上はおまえの大嫌いな浮気男と会っているようだ」
「……ルイード・アレスと?」
「ああ。だからなんだとは言わない。だが、おまえの知りたいことのヒントになるかもしれないな」
兄はそれだけ言うと、マデリンに背を向けた。
書類の一枚を手に取る。「話は終わりだ」と言いたいのだろう。
マデリンはそんな兄の背を見て、小さく笑った。
「お兄様、ありがとう」
「何も。ただの世間話だ」
「ええ、話ができて楽しかったわ」
兄の部屋の外では、侍女が心配そうに待っていた。
「お手伝いは必要ないみたい」
「そうでしたか」
「だから、今日はゆっくり休むことにするわ」
「それがいいと思います。お嬢様に必要なのは休息ですから」
(このことをアウルに伝えないと。アウルが言っていた連絡役って誰なのかしら?)
アウルは最後まで教えてくれなかった。
誰かわからなければ、マデリンは待つしかない。
だから、今日は眠ることにしたのだ。
マデリンは次の日の朝まで寝続けた。
***
翌日の昼下がり。
マデリンが暇潰しに難しい刺繍に挑んでいたとき、扉が叩かれた。
扉の奥からは使用人が現れる。
「お嬢様、お客様がお見えです」
「お客様?」
「はい。ハンナ・ベネロテ様です」
「ハンナが?」
マデリンは侍女の顔を見上げた。
「来客の対応は大丈夫なのか?」と尋ねるためだ。
侍女は笑みを浮かべた。
「旦那様から禁じられているのは、屋敷を出ることと、アウル様をお入れすることです」
「ハンナは大丈夫ということね?」
「はい。お茶の準備をいたしますね」
「お願いね」
ハンナに会うのは久しぶりだ。
彼女の趣味は社交場に行くこと。そんな彼女は毎日を忙しくしている。
その上、最近はマデリンも慌ただしかった。
結婚式の準備をし、狩猟大会に参加するための準備でアウルのもとに行っていたのだ。
(ハンナなら、何か知っているかしら?)
彼女は社交場を渡り歩いている。その分持っている情報はマデリンよりも多い。
ハンナをマデリンの部屋に通すやいなや、ハンナはマデリンに抱きついた。
「会いたかったわ~! もうっ! 最近、ぜんぜん会えなかったから、忘れちゃうところだったのよ!」
「悪かったわ。忙しかったの」
「結婚式の準備と狩猟大会の準備が重なったから、しかたないわね。でも、お茶会でも夜会でも見かけないし、マデリン不足になるところだったわ」
ハンナは頬を膨らませて私の手を握る。
私は思わず目を見開いた。
ハンナは目を細めて笑う。そして、彼女はマデリンの向かいの席に座った。
「最近はどう?」
「ちょうど暇になったところよ。ハンナが来てくれなかったら、干からびていたかもしれないわね」
母の手伝いはすぐに終わってしまう。
屋敷の中でできることなど、刺繍と読書くらいなものだ。
マデリンはそのどちらも、そこまで好きではなかった。
侍女が彼女の前にティーセットを置く。
「なら、毎日でも来ようかしら?」
「毎日はやりすぎよ」
マデリンとハンナは顔を見合わせて笑い合う。
話は弾んだ。
久しぶりだったからかもしれない。
「ナターシャ様、覚えている?」
「あの男の新しい婚約者でしょう? 覚えているわ」
覚える気もなかったが、最近よく話題に上がるから覚えてしまった。
「最近、自分が社交界のリーダーみたいな顔をしているの」
「へえ……。そうなの」
マデリンは適当に相づちを打つ。
「興味なさそうね」
「私は誰がリーダーでも構わないわ」
そもそもリーダーなんていう役割が存在していたことすら知らないのだ。
ハンナはカラカラと笑う。
「今後はマデリンが社交界を牽引していくって期待してたんだけど」
ハンナはそう言うと、クッキーを口の中に入れた。小気味いい音が響く。
「私が? 冗談にも程があるわ」
「冗談じゃないわ。マデリンは美人だし、かっこいいし、意外とファンが多いのよ?」
マデリンは小さく笑った。付き合い以外にほとんど社交場に出ない。そんなマデリンにファンがいるとしたら、もの好きくらいだろう。
「私よりもおしゃれで美人な人はたくさんいるでしょう? 私には興味ないわ」
社交界での立ち位置には興味がなかった。夫となる人がそれを望み、必要なことであればこなすつもりだ。しかし、アウルがそれを望まないだろう。
(あの男ならそういうことも望むかもしれないわね)
マデリンは昔を思い出して、小さく笑った。
「マデリンのそういうところがいいのよ。でも、マデリンはマデリンの生きたいように生きるのがいいと思う」
「ありがとう」
「最近のマデリンは昔よりも輝いて見えるわ」
ハンナは嬉しそうに目を細めて笑う。
「ところでマデリンは最近、何をしているの?」
「結婚式の準備よ。あとはお母様のお手伝いね」
それをやっても午前中にはすべて終わってしまうけれど。
「彼と狩猟大会に出るって噂を聞いたわ」
「ええ、でもどうなるかわからないわ」
マデリンは眉尻を下げる。
父が反対している今、どう転ぶかはわかっていない。
「そうなの?」
「いろいろあるのよ。そんなことより聞いて。お父様ったら、娘の私のことなんて何も考えていないのよ」
マデリンはすぐに話を切り替えた。
今の不安定な状況を説明しても、何にもならないと思ったのだ。
「おじ様に何かされたの?」
マデリンはわざとらしくハンナに顔を近づける。
そして、囁くような小さな声で言った。
「それが、あの男と会っているらしいの。あんなことがあったのに、権力には弱いのよ」
「それはひどいわね。浮気男と会うなんて」
ハンナは苦笑を浮かべる。
「でしょう?」
マデリンは大きく頷き、ぬるくなった紅茶を一気に飲み干した。
それから二人は長いこと話に花を咲かせる。
日が傾き始めたころ、ハンナは席を立った。
「それじゃあ、今日はこの辺で」
「ありがとう。またいつでも来て。当分のあいだ暇なの」
「なら、お言葉に甘えて」
ハンナは笑顔で去って行った。
マデリンは静かになった部屋で手の平を広げた。
「お嬢様? どうされたんですか?」
不思議そうに侍女がマデリンの手を覗きこんだ。




