3-②
兄の声が遠くで聞こえた。
しかし、返事をするのは難しい。
マデリンはその日から七日間、熱を出して寝込んだ。
***
マデリンが寝込んでいるあいだに、アウルとマデリンの婚約は決まっていた。
「お嬢様、もう傷も塞がりましたし、熱も下がりましたね。よかったです」
侍女は心底ほっとした様子で言った。
「これからは、あまり旦那様を怒らせないようにしてください。またこんなことがあったら大変です」
侍女は目を釣り上げる。笑ったり怒ったり忙しい。
「気をつけるわね」
「いいですね。結婚は半年後に決まったのですから、今後はおとなしく過ごしてください」
「半年後なの? 随分とかかるのね」
「何を言っているんですか。婚約半年で結婚なんてあまりありませんよ」
侍女はぷりぷりと怒りながら、マデリンの着替えを手伝った。
(半年か。長く感じるわ)
普通であれば婚約から結婚まで一年以上期間を空けるのが、この国では一般的だった。
上位の貴族になれば、五年以上空けることもある。
結婚式には準備がかかるからだろうか。
「今日はルート家の方々がいらっしゃる日ですから、めいいっぱい着飾りましょう」
「ええ。化粧は濃くして」
マデリンは鏡に映った自分を見る。
病み上がりのせいか、顔色が悪い。
調子が悪いことをアウルには知られたくなかった。
余計な心配はかけたくないからだ。
午後の日差しが強い時間にルート家はやってきた。
アウルと、アウルの両親だ。
「このたびは、急な申し出を受けていただき、ありがとうございます」
父にアウルが頭を下げた。
「こちらこそ、あんなことがあったばかりだというのに」
「マデリン嬢には一つも落ち度はありませんから。世間もそう思っていることでしょう」
アウルがにこやかに答えた。
なんだか今日の彼は別人のようだ。
「そう言っていただけると、助かります。ほら、マデリン。挨拶をしなさい」
父がぎろりとマデリンを横目で睨む。
マデリンは気づかないふりをしてドレスの裾を掴む。
「ようこそおいでくださいました。マデリンです。よろしくお願いします」
淑女の礼をとった。
アウルが小さく笑う。
今さらアウルを相手に他人行儀な挨拶は少し恥ずかしい。
「アウル君。うちに来るのは初めてでだろう? せっかくですから、娘にうちの庭園を案内させましょう」
「ありがとうございます」
アウルは父に頭を下げると、マデリンに手を差し出した。
「マデリン嬢、お手を」
まるで紳士のようだと思った。
着ている服のせいだろうか。
マデリンはためらいがちにアウルの手を取った。
二人は無言のまま庭園を歩いた。
この沈黙に耐えられず口を開いたのはマデリンだ。
「うまくいったわ。ありがとう」
「こちらこそ。マデリンのおかげで母の心配症が和らいだ」
アウルは小さく笑う。
よかった。いつものアウルだ。
マデリンはホッと胸を撫で下ろす。
「お祖父様はいらっしゃらなかったのね」
「ああ、もう爵位をゆずったからゆっくりしてるって」
「そう。じゃあ、私が会いに行かないと」
「そうしてくれると助かる。お祖父様の話し相手は大変なんだ」
アウルは肩をすくめた。
アウルの祖父がおしゃべりなのはよく知っている。五年前、マデリンの祖父も合わせて四人で狩りに行っていた日はみんなが聞き役だった。
「もう、五年なのね」
祖父が亡くなって、狩りに行かなくなって五年。
長いあいだ暗闇を歩いたような気がする。
「久しぶりに狩りにでも行かないか?」
突然、アウルは言った。
マデリンは目を見開く。
「もう私たちは大人になった。保護者がいなくても狩りくらい行くだろう?」
「それもそうね。でも、何も持っていないわ」
五年前、すべて捨てられてしまった。
マデリンが持っているのは、祖父の形見の猟銃一丁のみ。
馬すら取り上げられてしまった今、簡単に頷くことはできなかった。
「服以外はこっちで用意しよう。それなら?」
今日のアウルは押しが強い。
「大変じゃない?」
「別に。それに、結婚前に少しくらい仲のいいアピールはしておいたほうがいいだろう?」
「仲のいいアピールに狩り?」
「それともオペラとかのほうがいいか?」
マデリンは眉尻を下げる。
「いいわ。狩りに行きましょう。五年ぶりだから、下手になっていると思うけど」
「なんだ? 負けるのが怖いのか?」
アウルは笑った。
不思議だ。五年経っているのに、五年前に戻った気がする。
二人は大人になったはずなのに、まだ子どものままのような気がするのだ。
***
マデリンには友人が少ない。
もともとお茶会を好まなかったせいもある。年頃の令嬢たちがグループを作る中で、マデリンはそんなことに興味を示さなかったからだ。
しかし、そんなマデリンを気にいる希有な友人が一人いる。
ハンナ・ベネロテは紅茶を口に含みながら満面の笑みを浮かべた。
「婚約破棄アンド婚約おめでとう。マデリン」




