輪廻の理
白妖精と雲の上に行ってから一ヶ月と少しが経った。明日はいよいよロムス達と一緒に王都へ旅立つ日だ。
本当はもっと早く発つはずだったけど、私が書庫で負傷したせいでかなり遅れてしまった。それでも今は体力もすっかり戻り、体調も万全だ。
今日の夕食は壮行会という名目で、ささやかなパーティになった。マリンはまた泣いてしまったけど、今はテレシアもいるから……きっと大丈夫だろう。
片付けを終えて自室に戻ろうとする途中、賑やかな笑い声が聞こえた。ドアが開いたままのリビングから見えたのはロムスとエド、そしてレオンがそれぞれワイン片手に談笑している所だった。
――男性だけで二次会かな?
「みんな、お疲れ様。ちょっと早いけど先に休むね。――明日は早いんだから、あまり飲みすぎないようにねー」
「おう、また明日な!」
「僕ももうすぐ寝るよ。おやすみサンディ!」
「……おやすみなさい、サンディ様」
手を振って皆と別れ、自室に向かう。
それにしても明日が本当に楽しみだ。王都までは二日ほどかかるらしい。途中の村で一泊していくそうだけど、それすらも今から楽しみで仕方ない。
一日中ソワソワしてたせいで、さっきマリンから「ワクワクしすぎて眠れないんじゃないの〜?」とからかわれたけど……実はその心配はない。
なぜなら今は、睡眠時間もそれと同じくらい楽しみだから。
すっかり日課になっているギベオリード叔父様の書庫訪問。眠っている時にだけ入れるあの書庫へ、もちろん今晩も行くつもりで。
今までは一晩に何冊も読めていた。でも最近は内容がかなり難しくなっていて、一晩に一章も読み解けない日もある。今晩は少しでも進むといいんだけど……。
お父様の透視石へ挨拶を済ませてからベッドに入る。いつものように左手人差し指につけている明るい琥珀色……叔父様の瞳の色そっくりな石があしらわれた指輪に祈った。
(叔父様の、書庫へ……)
そのまま意識は沈んでいく。
気づけば私はまた、あの書庫に来ていた。
書庫の一番奥、重厚な机にはいつもどおり叔父様が座っていて、黒革表紙のノートに書き物をしている。
「叔父様、こんばんは」
「……」
チラとこちらに視線をやるけど、そのまま無言で書き物を続ける叔父様――今晩もいつもどおりだ。
挨拶だけ済ませてすぐに書棚へ向かう。えっと昨日読んでいたのは……あった。
『幻術考察 Ⅴ』
この四章部分の理論が難しくて、なかなか理解が進まない。でも幻術は絶対にマスターしておく必要がある。私は椅子に腰掛けて、その厚く重い本を読み始めた。
***
「ふう……」
やや苦戦したものの、なんとか四章を読み終えた。
(今日はここまでにしておこう……)
椅子から立ち上がって本を元の位置に戻し、ググッと伸びをする。
それにしても……あれから沢山の本を読んで、今まで持っていたこの世界に対する疑問がかなり氷解してきた。それでもいまだに書物の中に出てこない事項があって、ずっと意識の端に引っ掛かっている。
もっと先までいけばその項目に出会えるのかな? いっその事、目の前にいる教師に聞いてみようかしら……。
「叔父様、あの……一つ伺ってもいいですか?」
恐る恐る声をかけると、黒い革カバーのノートの上を滑るように舞っていた羽ペンが止まる。
「――なんだ?」
「その……輪廻の理とは、一体何でしょうか」
私は不快極まりないあの変態蜘蛛の『輪廻の理から外れている』という言葉を思い出していた。術の集中を欠くほどに『解せぬ』と繰り返し呟いていたのだから、きっとよほど珍しい事に違いない。
「何故それを聞く」
「私がそれから外れていると、あの蜘蛛に言われたんです」
「……何?」
元々低いギベオリード叔父様の声が、更に低くなる。
「もしや……アレクサンドラは前世の記憶があるのか?」
「え、あの、はい……」
何だか雰囲気が怖い。下手に聞かないほうがよかったかな……。
叔父様は羽ペンを置くと席を立ち、私の方へやってきた。長身の叔父様が目の前に来ると、私は軽く見上げる姿勢になる。
「ほう。少し見せてもらおうか」
「えっ……あっ!」
叔父様は私のうなじに手をやって身体ごと引き寄せた。私は叔父様に抱かれるような体制になり、さらに額にも手を当てられる。何をされるかわからない怖さに心臓が少し縮んだ後、その違和感に気づいた。
(あ……叔父様の身体や手には体温が無い……)
そう思った次の瞬間。うなじと額にあてられた両手からとてつもなく大きな力が流れ込んできて、私の脳を容赦なくざらりと撫でる。
「やっ……何!? こっ、怖い……っ!」
懸命に抵抗して叔父様から逃れようとしたけど、私の頭を挟む大きな両手はびくともしない。
「危害は加えぬ。いいから早く身体の力を抜け。呼吸を深くして、受け入れろ」
叔父様の声がとても遠くに聞こえる。全身がぞわぞわと粟立つような感覚。自身の根幹に近い、誰にも触れさせてはならない場所に無理やり侵入される恐怖感……。
叔父様の力はとても強くて抗えない。いや、抗うなと言われているのだけど、本能的な怖気が勝ってしまう。
「ハァッ、やっ……やだっ! 怖っ……!」
「ふむ……存外、抵抗力が強いな。やむを得ぬ」
その時力が急激に冷えた。まるで全身の血が凍るような感覚に襲われる。
(…………ッ)
身動きどころか僅かに震えることも許されない。悲鳴すら出せずにいると、何かが私の頭の深いところにぬるりと入ってくる。それはしばらく私の中で一通りうねった後、再びぬるりと出ていくのを感じた……。
凍えた力が抜け去ると、やっと全身の血が巡りはじめたような感じがした。うなじと額を抑える大きな手が離れた途端、立っていられずに崩れ落ちた所を抱き止められた。
「い……今の、何……?」
「お主の根幹、魂の記憶を見せてもらった。初めてにしては見事な抵抗だったが――さぞ恐ろしかったであろうな」
やっとの思いで小さく頷くと、叔父様は私をひょいと抱える。そのままゆっくりと移動し、机の前にある大きなソファーへ寝かせてくれた。
恐怖に慄きながら全力疾走した後のようで、まだ胸が苦しくて動悸が激しい。首筋にはピリピリとした神経系の刺激を感じる。
しばらくしてやっと落ち着いてくると、斜向かいのひとりがけソファに腰掛けていた叔父様が静かに話し始めた。
「なるほど……摩訶不思議な場所であった。前世は随分と若いうちに、病で亡くなったのだな?」
「はい……」
「何やら見たことのない物ばかりであったな。生活水準は高く、技術もかなり発展している世界のように見えたが」
「確かにそうです。でもこの世界のように、魔術や精霊の力という概念はありませんでした」
そう。前世でそれらはあくまでも架空の世界の話であって、現実世界でそれを意識することは一度も無かった。
「ふむ、根底となる概念が全く異なる世界か。……この事を他の誰かに話した事はあるか?」
「いいえ、まだ誰にも」
「よろしい。これは誰にも、決して話すな。――それはお主の切り札となる」
切り札とは一体どういう事だろう? 私はここでようやく身体を起こし、改めてソファーに腰掛ける。
「あとお主の魔術がイマイチな理由がわかったぞ」
「イマイチ、ですか……」
えっと……これでも結構、頑張ってきたんだけどな。正面切ってそう言われるとさすがにショックだ。
「恐らく前世の癖で、頭で色々と考えすぎるのだろう。――精霊との対話は理屈ではない。感じるのだ」
『考えるな、感じろ』……どこかで聞いたことのあるフレーズだ。
「天界の人間は、生まれた時からその感覚を肌で知っている。お主の中の殆どは前世のそれだが、僅かに『アレクサンドラ』の感覚も残っている筈だ。それに従って訓練を積むがいい」
私はここでハッとした。
元のアレクサンドラは何処に行ってしまったのだろうか?
「あの! 元々この身体に居た『アレクサンドラ』は、どうなったのですか?」
「『アレクサンドラ』……元の自我は前世の記憶……お主と綺麗に融合したようだの。魂が綺麗に混ざりあって一つになっていた」
そっか……よかった。消えてしまったわけでは無いんだ。
「普通前世の記憶が現れてしまえば、今世の意識は弾かれて消え失せる。なのに融合など……まさにお主は理から外れておる」
黒蝶の幻術で出逢った、幼い少女アレクサンドラ。彼女の記憶が私の中に戻ったあの時、きっと融合に成功したのだろう。あの幻術は私に対する攻撃だったはずだけど、偶然とはいえ良い結果に転んだのだと今知った。
「これを利用せぬ手は無い。――お主が読んできた書物の進行度に合わせて、幻術の実技を見せてやってもよいがどうする?」
「えっ、本当ですか!? ぜひお願いします!」
まさかの申し出に思わず心が躍る。ギベオリードに対抗する幻術を、本人から学べるとは。これ以上の教師は他にいないはずだ。
「ただし我の幻術は『攻撃』一択。相当キツいが、それでも良いのか」
私は以前レオンとエドに『虹の夢』を試させてもらって以降、全く練習ができない状況を話した。
「『虹の夢』は癒し側の術だ。なのにその青年は、一体何を見て拒絶を使うまでの動揺に至ったのだ?」
「その……無自覚に慕っていた方を見て、動揺したと言っていました」
エドのひどく寂しげな笑顔を思い出して、微かに胸がチクリとした。
「ふむ……自分の本心を知る事は、時にひどく辛い思いをすることもある。それを受け入れる覚悟がなければ幻術は使えぬ」
「それでも今の私には、それしか選択肢しかありません。もう覚悟は決まっています」
叔父様は無表情なままで頷いた。
「それならばよかろう。では明日以降、進めていくぞ」
「え? 明日以降、ですか」
てっきり今から始めるのかと思っていたので、その答えは意外だった。
「今日はもう時間が無いようだからな」
「あっ」
気づけば私の膝下が透け始めている。身体の目覚めが近いんだ……。
「――はい、今日は色々とありがとうございました」
「アレクサンドラ……お主は全く……」
「え? 今何て?」
私の身体はもう消えかけていて、意識は書庫からみるみる離れていく。叔父様の声がもう聞こえづらくて、思わず聞き返した。
「大変に、興味深い……ククク」
好奇心を満たす対象を見つけた時の、さも楽しくて仕方がないというギベオリード独特の笑い方。
既に現実へと戻りつつあった私は、その声を聞くことは無かった。
こちらで第四章の完結です。
次章からサンディはようやく魔女の森の結界を抜け、王都へ向けて旅立つ事になります。
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