雲海を舞う
私は入浴を終え、自室で身繕いをしていた。
結局、今日の訓練にエドが再び現れることはなかった。夕食時に顔を合わせた時、レオンの問いには『もう大丈夫』と返事をしていたけど、私とは目が合う事もなかった。
それでも見た感じは顔色も悪くなかったし、たぶんもう本当に大丈夫なんだろう……今はそう思う事にする。
窓の外からコツコツという音が聞こえた。夜目にも白いミミズク……ヴィオラがクリクリとした紫水晶の瞳をこちらに向けている。
「お帰り、ヴィオラ」
窓を開けてやると、ヴィオラに半瞬遅れて湿り気を含んだ風が吹き込んでくる。ひんやりとしたそれは、土の匂いがいつもより強めだ。
(ああ、雨が降るのかな)
ヴィオラは普段森で自由気ままに過ごしている。一日に何度か屋敷へ戻ってくるけど、その時間は不規則だ。それでも雨が降る前には必ず戻ってきて、屋敷の中で過ごすのだけはいつも決まっていた。
案の定、それからまもなくして大粒の雨が降り始めた。風も強いようで、時折窓にパチパチと雨粒の当たる音がする。
実は今日は満月だ。
白妖精のために笛を吹く日だけど、ここまでひどい大雨に当たったのは今までで初めてかもしれない。
いつもならベランダや屋根の上に出るのだけど、今日はそうもいかないので部屋の中で笛を吹き始めた。
そして二曲目の途中で白妖精が現れたものの……。
「こんばんは、白妖精様」
「こんばんはー……」
しょんぼりと項垂れて、小さく口を尖らせてる……やっぱり、明らかにご機嫌斜めだ。
特に会話も無いままもう二曲を吹き終えると、白妖精は机の上で足をジタバタさせながら駄々をこね始めた。
「ねえ、サンディー! この雨、酷いと思わない?」
「本当に、残念でしたね」
「んー、そういえばサンディもなんか落ち込んでる?」
昼間の事を思い出して、ドキリとした。
「――え? なんでそう思うんです?」
「笛の音が少し沈んでるわよ」
「ああ……」
私は白妖精に、今日の出来事を話した。
幻術の訓練でエドから思いがけず大きな反発を食らった事。それから目も合わせて貰えず、会話もない事……。
「『虹の夢』でしょ? あれでひどい目に合う人なんて見たこと無いけど……一体何を見たのかしらね?」
「さあ……それは教えてくれませんでした」
白妖精は腕組みをする。
「ふうん。ねえサンディ。ここで二人、腐ってんのは勿体ないと思わない?」
「まあでも、生きていればこんな日もあるかなーって……」
思わず本音がこぼれると、白妖精が頓狂な声をあげた。
「やだぁ! サンディったら、なんでそんな達観してんの!? ほんっと見た目通りの落ち着きよね!? とても十歳とは思えないわ……」
――まあ前世と合わせれば、実はもう三十年近く生きてるわけで。だけどそれを言えるわけもないので、えへへと笑ってやり過ごす。
「ねえサンディ。そういうわけで、これから月を観に行きましょうよ」
「――は?」
思わず間の抜けた声が出る。そういうわけとは、一体どういうわけだ。
「えっと、どこにですか?」
「え? 雲が邪魔なんだから、その上に行けばいいのよ?」
いや、理屈ではその通りなんだけど……。
「雲の上はちょっと寒いから、なんか羽織っていくといいわよ」
(うわぁー……)
白妖精は行く気満々だ。雨雲の上……普通に考えて気温はマイナスのはずで。
流石に寝巻きのままでは厳しいので、訓練の時に着るシャツとパンツに着替えた。一枚多めに上着を羽織って、さらにその上から銀鼠色のマントを纏う。
「あと雨雲はね、一気に抜けた方が色々と平和よ」
白妖精から、やや不穏なアドバイスを頂いた……ええ、わかりました。なるべく早く抜けましょう。
白妖精は私の肩に座っている。笛を短杖に変えて、大きな水泡で自分たちを包んだ。そのままベランダに出ると、さっきより風雨が一段と強まっている気がする。
ベランダのドアをしっかり閉めて、そのままえいやと飛び降りた。それと同時に竜巻を起こし、一気に水泡ごと上空へと舞い上がる……!
「いやっほーう! サンディ、最高ねこれ!!」
――大変喜んで頂けているようで何よりだけど、どんどん視界は悪くなっていく。
下を見れば屋敷の屋根はあっという間に小さくなって、暗い雲に隠れて見えなくなった。水泡の向こう側ではあちこちで雲が渦巻いている。
細かい渦の向こうで、細い紫電が閃いた。雲の中で気まぐれに現れるそれは、縦横無尽に走って目の前を過ぎ去っていく。
次に別の渦から現れた紫電は、上昇し続ける私たちの様子を伺うかのように、表面にだけパリッと絡んですぐ別方向へと走り去っていった。
気づけば水泡の表面が薄っすらと白く凍りかけている。そのままついに雨雲を抜けると、急に空気がしんと静まりかえった。
「うわぁ……綺麗……」
いつもより少しだけ近い満月は、やや明るい紺色の夜空に浮かんで凛と輝いている。
果てしなく続く白銀の雲海はゆっくりと流れていて、遥か先の方にはいくつかの嶺とそれに続く尾根がちらりと見えた――あれがこの王国の国境にあるという山々だろうか。
みるみる凍っていく水泡を解くと、途端に強い冷気に包まれた。
うわ……これはちょっと寒いどころじゃない。身体がみるみる自由を失うような寒さで、吐く息が白く輝く。
慌てて火精霊の力を借りてマントの中を温めた。これで凍える事はないと思う……たぶん。
「はぁー、最高ね!」
白妖精が大きく伸びをすると、淡く光ってその姿が大きく変化した。
「やはり月は良いのう……!」
そこには白く長い衣姿に、腰まであるウェーブがかった金髪の女が立っている。吊りあがったその目に瞳孔は無く、ただ白い玉が嵌っているかのようだ。
「……白妖精様?」
これは昔、加護を貰った時に見せた姿だ。急にどうしたんだろう?
「ああ、驚かせてすまぬの。あんまり嬉しゅうてな。ここは他に誰もおらぬゆえ、今はこの姿でいさせておくれ」
「それは構いませんけど……白妖精様は寒くないんですか?」
その白い衣は見るからに薄手の一枚物で、見ているこっちが風邪をひきそうだ。
「ふむ。この冷気も、妾にとってはご褒美じゃのう」
「はあ、そうなんですね」
改めてよく見れば、白妖精はとても美しい人だ。その姿からはまるで冬の満月のような、凛とした強さと冷たさを感じる。雲海を照らすあの満月がそのまま人に変わったら、たぶんこういう姿なのかもしれない。
――シャリン
白妖精の手に、白銀色に輝く鈴が現れた。それはまるで巫女が持つ踊り鈴のようだけど、前世の記憶にあるそれよりもずっと細長く、付いている鈴は小粒で量が多い。
白妖精はそれを水平に振ると、再び澄んだ音が鳴り響く。鈴を何回か振り抜きながらくるりと回り、悪戯っぽく笑みながら構えてみせた。その姿はまるで白銀の短刀を構える凛々しき女戦士のようだ。
「ふふ……興がのったわ。さあ、笛を聞かせてくれるかのう」
「は、はい!」
私の鳴らす笛の音に合わせ、白妖精は雲の上で舞う。そのステップは蝶のように軽やかなのに、鈴を振り抜く姿はまるで剣舞を見ているかのように激しい。
私の指はどんどん冷たくなっていくけど全然気にならない。むしろその舞に魅了されて、身体はカッカとした熱を帯びてきてさえいる。
白銀に輝く雲海を背にした白妖精の舞。その神話の世界のような光景から感じるインスピレーションを笛のアレンジに加えていけば、白妖精の舞も合わせて変化していく……。
(――これ、すっごく気持ちいい……!)
私の音と白妖精の舞が一緒に変化を重ねて、お互いにどんどん熱くなっていく。ふと目が合えば白妖精は、さも楽しくて仕方ないといった風に笑んだ。その笑みはまるで、氷で出来た大輪の花がほころぶようだ。
昼間の出来事に対する不安はもうすっかり忘れていた。雲海と満月と白妖精の舞い……その浮世離れした美しさに酔いながら、夢中になって笛を吹き続ける。
結局この晩は、相当遅くまで雲海の上で笛を吹き続けたのだった。





