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隠された翼  作者: 月岡ユウキ
第四章 地上編

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雲海を舞う

 私は入浴を終え、自室で身繕いをしていた。


 結局、今日の訓練にエドが再び現れることはなかった。夕食時に顔を合わせた時、レオンの問いには『もう大丈夫』と返事をしていたけど、私とは目が合う事もなかった。

 それでも見た感じは顔色も悪くなかったし、たぶんもう本当に大丈夫なんだろう……今はそう思う事にする。


 窓の外からコツコツという音が聞こえた。夜目にも白いミミズク……ヴィオラがクリクリとした紫水晶(アメジスト)の瞳をこちらに向けている。


「お帰り、ヴィオラ」


 窓を開けてやると、ヴィオラに半瞬遅れて湿り気を含んだ風が吹き込んでくる。ひんやりとしたそれは、土の匂いがいつもより強めだ。


(ああ、雨が降るのかな)


 ヴィオラは普段森で自由気ままに過ごしている。一日に何度か屋敷へ戻ってくるけど、その時間は不規則だ。それでも雨が降る前には必ず戻ってきて、屋敷の中で過ごすのだけはいつも決まっていた。


 案の定、それからまもなくして大粒の雨が降り始めた。風も強いようで、時折窓にパチパチと雨粒の当たる音がする。


 実は今日は満月だ。

 白妖精のために笛を吹く日だけど、ここまでひどい大雨に当たったのは今までで初めてかもしれない。


 いつもならベランダや屋根の上に出るのだけど、今日はそうもいかないので部屋の中で笛を吹き始めた。

 そして二曲目の途中で白妖精が現れたものの……。


「こんばんは、白妖精様」

「こんばんはー……」


 しょんぼりと項垂(うなだ)れて、小さく口を尖らせてる……やっぱり、明らかに()()()()()だ。


 特に会話も無いままもう二曲を吹き終えると、白妖精は机の上で足をジタバタさせながら駄々をこね始めた。


「ねえ、サンディー! この雨、酷いと思わない?」

「本当に、残念でしたね」

「んー、そういえばサンディもなんか落ち込んでる?」


 昼間の事を思い出して、ドキリとした。


「――え? なんでそう思うんです?」

「笛の音が少し沈んでるわよ」

「ああ……」


 私は白妖精に、今日の出来事を話した。

 幻術の訓練でエドから思いがけず大きな反発を食らった事。それから目も合わせて貰えず、会話もない事……。


「『虹の夢』でしょ? あれでひどい目に合う人なんて見たこと無いけど……一体何を見たのかしらね?」

「さあ……それは教えてくれませんでした」


 白妖精は腕組みをする。


「ふうん。ねえサンディ。ここで二人、腐ってんのは勿体ないと思わない?」

「まあでも、生きていればこんな日もあるかなーって……」


 思わず本音がこぼれると、白妖精が頓狂な声をあげた。


「やだぁ! サンディったら、なんでそんな達観してんの!? ほんっと見た目通りの落ち着きよね!? とても十歳とは思えないわ……」


 ――まあ前世と合わせれば、実はもう三十年近く生きてるわけで。だけどそれを言えるわけもないので、えへへと笑ってやり過ごす。


「ねえサンディ。そういうわけで、これから月を観に行きましょうよ」

「――は?」


 思わず間の抜けた声が出る。()()()()()()とは、一体どういうわけだ。


「えっと、どこにですか?」

「え? 雲が邪魔なんだから、その上に行けばいいのよ?」


 いや、理屈ではその通りなんだけど……。


「雲の上は()()()()寒いから、なんか羽織っていくといいわよ」

(うわぁー……)


 白妖精は行く気満々だ。雨雲の上……普通に考えて気温はマイナスのはずで。


 流石に寝巻き(ネグリジェ)のままでは厳しいので、訓練の時に着るシャツとパンツに着替えた。一枚多めに上着を羽織って、さらにその上から銀鼠色のマントを(まと)う。


「あと雨雲はね、一気に抜けた方が()()()平和よ」

 白妖精から、やや不穏なアドバイスを頂いた……ええ、わかりました。なるべく早く抜けましょう。


 白妖精は私の肩に座っている。笛を短杖に変えて、大きな水泡で自分たちを包んだ。そのままベランダに出ると、さっきより風雨が一段と強まっている気がする。

 ベランダのドアをしっかり閉めて、そのままえいやと飛び降りた。それと同時に竜巻を起こし、一気に水泡ごと上空へと舞い上がる……!


「いやっほーう! サンディ、最高ねこれ!!」


 ――大変喜んで頂けているようで何よりだけど、どんどん視界は悪くなっていく。


 下を見れば屋敷の屋根はあっという間に小さくなって、暗い雲に隠れて見えなくなった。水泡の向こう側ではあちこちで雲が渦巻いている。


 細かい渦の向こうで、細い紫電が閃いた。雲の中で気まぐれに現れるそれは、縦横無尽に走って目の前を過ぎ去っていく。

 次に別の渦から現れた紫電は、上昇し続ける私たちの様子を伺うかのように、表面にだけパリッと絡んですぐ別方向へと走り去っていった。


 気づけば水泡の表面が薄っすらと白く凍りかけている。そのままついに雨雲を抜けると、急に空気がしんと静まりかえった。


「うわぁ……綺麗……」


 いつもより少しだけ近い満月は、やや明るい紺色の夜空に浮かんで凛と輝いている。

 果てしなく続く白銀の雲海はゆっくりと流れていて、遥か先の方にはいくつかの嶺とそれに続く尾根がちらりと見えた――あれがこの王国の国境にあるという山々だろうか。



 みるみる凍っていく水泡を解くと、途端に強い冷気に包まれた。

 うわ……これは()()()()寒いどころじゃない。身体がみるみる自由を失うような寒さで、吐く息が白く輝く。

 慌てて火精霊の力を借りてマントの中を温めた。これで凍える事はないと思う……たぶん。


「はぁー、最高ね!」

 白妖精が大きく伸びをすると、淡く光ってその姿が大きく変化した。


「やはり月は良いのう……!」


 そこには白く長い衣姿に、腰まであるウェーブがかった金髪の女が立っている。吊りあがったその目に瞳孔は無く、ただ白い玉が(はま)っているかのようだ。


「……白妖精様?」


 これは昔、加護を貰った時に見せた姿だ。急にどうしたんだろう?



「ああ、驚かせてすまぬの。あんまり嬉しゅうてな。ここは他に誰もおらぬゆえ、今はこの姿でいさせておくれ」

「それは構いませんけど……白妖精様は寒くないんですか?」


 その白い衣は見るからに薄手の一枚物で、見ているこっちが風邪をひきそうだ。


「ふむ。この冷気も、妾にとっては()()()じゃのう」

「はあ、そうなんですね」


 改めてよく見れば、白妖精はとても美しい人だ。その姿からはまるで冬の満月のような、凛とした強さと冷たさを感じる。雲海を照らすあの満月がそのまま人に変わったら、たぶんこういう姿なのかもしれない。


 ――シャリン


 白妖精の手に、白銀色に輝く鈴が現れた。それはまるで巫女が持つ踊り鈴のようだけど、前世の記憶にあるそれよりもずっと細長く、付いている鈴は小粒で量が多い。


 白妖精はそれを水平に振ると、再び澄んだ音が鳴り響く。鈴を何回か振り抜きながらくるりと回り、悪戯っぽく笑みながら構えてみせた。その姿はまるで白銀の短刀を構える凛々しき女戦士のようだ。


「ふふ……興がのったわ。さあ、笛を聞かせてくれるかのう」

「は、はい!」


 私の鳴らす笛の音に合わせ、白妖精は雲の上で舞う。そのステップは蝶のように軽やかなのに、鈴を振り抜く姿はまるで剣舞を見ているかのように激しい。


 私の指はどんどん冷たくなっていくけど全然気にならない。むしろその舞に魅了されて、身体はカッカとした熱を帯びてきてさえいる。


 白銀に輝く雲海を背にした白妖精の舞。その神話の世界のような光景から感じるインスピレーションを笛のアレンジに加えていけば、白妖精の舞も合わせて変化していく……。


(――これ、すっごく気持ちいい……!)


 私の音と白妖精の舞が一緒に変化を重ねて、お互いにどんどん熱くなっていく。ふと目が合えば白妖精は、さも楽しくて仕方ないといった風に笑んだ。その笑みはまるで、氷で出来た大輪の花がほころぶようだ。


 昼間の出来事に対する不安はもうすっかり忘れていた。雲海と満月と白妖精の舞い……その浮世離れした美しさに酔いながら、夢中になって笛を吹き続ける。


 結局この晩は、相当遅くまで雲海の上で笛を吹き続けたのだった。

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