幻術体験
「――せいっ!」
「……っ!」
レオンの掛け声と同時に、カンッと乾いた音をたてて私の持つ模造剣が弾け飛んだ。
「……っはぁ、はぁ……参り、ました……」
肘にまで伝わる痺れを感じながら、頭を下げる。
「勝者、レオン!」
「っしゃぁ!」
エドの宣告で、レオンが飛び跳ねて喜んでいる……。
今日は朝から屋敷の外庭で剣術の訓練をしている。情けない事に私はレオンの剣術にずっと押されっぱなしだ。
原因は純粋に力負けしているのが一つ。あと予想しづらいしなやかで柔軟な剣筋や、大きくうねるような突き込み……レオンはどれもすごく上手い。
私は書庫での負傷が原因で一週間ほど寝込んでいたそうだ。そこから目覚めて今日で十日になる。
地道に、でも懸命に体力回復には努めているけど、まだ以前のような感覚は取り戻せていない。息切れが収まらず地べたに座り込むと、レオンが汗拭き用の布を投げてくれたので受け取って額に当てた。
「――あー悔しいっ! またレオンに負け越したっ……!」
「だってサンディ、全然力が戻ってないよ? 前に比べたらヨワヨワだもん」
「……サンディ様、あまり焦っても仕方ありませんよ。怪我してもつまらないですからね。ゆっくりやっていきましょう」
「うん……そうね。でも悔しいなぁ……」
今日の対レオンは五戦。
最初だけはかろうじて……本当にやっとで一勝はしたものの、後は全部分殺された――散々だ。まあ負傷前でもたまに勝ち越しできれば良い方だったけど、力の落ちている今は全く敵わない。
それなのにそもそもレオンは剣技より弓の方が得意だという。ロムスからヒントをもらって複数の矢を射れるようになってからは、その攻撃範囲と手段は大きく広がっている。
(レオンはすごいな。もういっその事、私は魔術に特化したほうがいいのかな……)
そうもいかないのは重々承知しているけど、流石にちょっと弱気になってしまう。
私は首筋の汗を拭いながら、ギベオリード叔父様の書庫で一通り学んだ知識の事を考えていた。あそこで学ぶようになってから魔術の扱いの幅がずっと広がったのは確かで、エドにも驚かれた程だ。
でも……あの書庫そのものについてはまだ誰にも話をしていない。今回の負傷の原因とも相まって、何となく言いそびれたままで……。
「サンディ様、どうぞ」
「あ……ありがとう」
エドから水を受け取って一気に飲み干す。うーん……思い切って聞いてみようかな……。
「ねえ、エドは幻術って使ったことある?」
エドの目が少しだけ大きくなった。
「幻術ですか……。まあ一通り学んでますし、学院では簡単ですが実践授業もありますよ。僕は治癒の一環として使用したことならありますが、攻撃を目的として使ったことはありませんね。――それがどうかしましたか?」
「概念については私も解ってるの。でも試す機会がなくて……」
「ええと、ちょっと待ってください? 失礼ですがサンディ様は、幻術についてどうやって学ばれたのですか? 僕はまだ一切お教えしてなかったはずですが……」
――よし、もうはっきり言おう。
「あのね……あれから私、毎晩あの書庫に通っているの」
「書庫ってまさか……」
「うん、ギベオリード叔父様の書庫よ」
「――それは一体どういう事ですか?」
地べたに座ったままの私に合わせて、エドが片膝をついた。やや険しい顔が近くなって、その低い声は少しだけ怖い……。
私は意識を失っていた期間に経験した事を説明した。順番でなければ読めない本の存在や、その進み具合も。
「昨晩は幻術の行使と防衛、治癒への応用についての章を読んだわ。あそこでは今読んでいる本を理解しないと次の本が開けない。でももし開けなくなっても、叔父様に聞けば丁寧に教えてくれてすぐに次の本にすすめるの」
「なるほど……そういう事だったんですね」
意外にも、エドはあっさりと納得してくれたようだ。
「あと私ね。あの書庫で蜘蛛のような魔物に幻術を使われて、その……いいように傷つけられて……」
「サンディ様、それ以上は……」
気遣ってくれたエドに、あえて笑顔で応える。
「ううん、大丈夫よ」
――そうは言ったものの、あの時の出来事を思い出すと今も背に冷たい汗が滲む。静かに深く呼吸をして、できるだけ冷静に言葉を選んでつなぐ。
「あいつはアズールと名乗ってた。解剖の天才だとか自称してたわね。……私に幻術をかけて魔術を封じ、さんざん好き勝手してくれたわ。私も一度は抵抗したんだけど、すぐに腹を突かれてしまって……もうダメだと思った時に叔父様が現れて、アイツを潰して……」
(……あれ?)
気づけば意思とは関係なく、ぼろぼろと勝手に涙が零れ落ちている。
そして周囲があまりに静かだ。顔をあげて二人を見るとレオンは心配そうに私を見ているし、エドは今にも泣きそうで……。
「あれ……私、何で泣いてるんだろ。えっととにかく、本当に心配かけてごめんなさい。でもちゃんと全部伝えておきたくて……」
「わかったからもういいよ、サンディ……」
「本当に、よく話して下さいましたね……」
この沈んだ空気が居たたまれない。あんな変態蜘蛛のせいで泣かされるなんて絶対嫌だし、そんなつもりも無かったのに。
持っている布でぐいと涙を拭くと、あえて元気よく声を張った。
「私、幻術をちゃんと使えるようになりたい!……もう二度とああいう惨めな負け方はしたくないの」
「ふむ……そういう事でしたら僕も協力しましょう」
エドが微笑んだ。
「僕もそんなに詳しいわけではないですが、今のサンディ様のお相手くらいなら問題無いでしょう。それにレオンも今のうちに経験を積んでおいた方がいいでしょうし」
レオンも隣で大きく頷く。
「とりあえず最初は攻撃ではなく、治癒側の使い方を試してみましょう。あと幻術にかかってからの対策も実践してみましょうかね」
エドの説明によれば、病気や老衰などで寿命が尽きるのを待つだけの人に対して、幸せな夢を見せる為の幻術があるという。
「これは『虹の夢』と呼ばれています。これはその人が実際に経験した『良い思い出』や『成功体験』を見せるんですけど、それを些か盛ってあげる効果があるんです」
「……盛る?」
「ええそうです。思い出をちょっと美化したり、本人の願望が叶った光景を見せるのですよ」
死にゆく人に良い夢を見せる……それはすごい事かもしれない。
「それいいな! 僕に試してみてよ!」
「でも私は加減がわからなくて……」
私と同じ幻術素人のレオンにかけて、もし何かあったらと思うと心配だ。
「できるだけ出力を下げれば大丈夫でしょう。それに僕も見てますから。もし本当に危険だと判断したら僕が弾きます。 ――あとレオン。見えた物がもしも本当に嫌なら、自分の強い意志を持って『これは現実ではない』と拒否するんだ。それが幻術を自力で解く強い鍵になる」
「うん、わかった」
「レオン、まずかったら本当にすぐ拒否してね……」
「大丈夫だよサンディ。エドアルドも居てくれるから、心配ないさ」
興味津々のレオンが、さっさと地面に座る。私は背後に立ってレオンの肩……首筋に一番近いところへ両手を置いて目を瞑った。できるだけ出力を下げてそっと力を流し込むと、目の前に映像が見えてきた……。
――魔女の森に似た、豊かな森林の中。
美しい暗灰色の毛並みを持つ大山猫族の男性が、樹上で矢をつがえ何かを狙っている。
弦を鳴らして放たれた矢が茂みから出てきた猪の眉間を貫くと、獲物は声も上げらないまま静かに、その場にドサリと倒れた。
「わあっ、父さんすごいや!」
父さんと呼ばれたその男性は、金色に鋭く光る瞳を緩めて優しく微笑む。
「ははっ! レオンにもそろそろもっと剛い弓を作ってやらないとな」
そう言って頭をくしゃくしゃと撫でてくれる男性は、いかにも自分……いやレオンの事が可愛くてたまらないといった風だ。
私の中には嬉しさ……そしてこれは、敬愛? とても優しくて温かい感情が伝わってくる。
しかしそこで、急に大きな悲しみの感情が流れ込んできた。それと同時に、まるでスイッチを切ったようにパチンと画像が消える。
目を開けてみると、レオンがポロポロと涙を流していた……。
「レオン、大丈夫!?」
慌てて声をかけると、レオンはぽつりと呟いた。
「父さんと、一緒に狩りをする夢を見た……」
「うん、私も視えたわ」
「すごく嬉しくて、楽しくて……。でもそんな事もう絶対あり得ないのにって思ったら、このままこの夢を見てちゃいけない気がして……拒否したんだ」
「そっか……ごめんねレオン。本当にごめんなさい……」
私は知らないうちに、レオンの心の傷に触れてしまっていたのだと気付く。それでもレオンはぐいと涙を拭いて笑った。
「――大丈夫。サンディは全然悪くないよ。それに幻術がどういうのかわかって本当によかった。これ知らないでかけられたら……しかも悪い方に使われてたら、相当キツイと思う……」
エドがしゃがんで、レオンの肩に優しく手を置いた。
「これは寿命の近い者に見せるための術ですからね。レオンのような若者には少々酷かもしれません。でも幻術というものを安全な環境で体験して、その拒否まで実行できた経験は今後きっと役に立つと思いますよ」
「うん大丈夫。……わかってるよ」
「サンディ様は、何かレオン側の画像は見えましたか?」
「ええ、はっきりと見えたわ。あとレオンの感情も一緒に伝わってきて……」
「ふむ……今回はレオンも幻術を掛けられるのは始めてですし、元々そのつもりで受けた事もあってほぼ完全な形で見えたのでしょうね。でも相手が心理的に構えていたり、あるいは幻術慣れしている者だと、そこまではっきりと見える事はまず無いですよ」
「そうなんだ……」
「というわけで、場数を踏むためにも今度は僕で試してみますか?」
「え……エド、いいの?」
「ええ。サンディ様の練習になるなら、喜んでお受けしますよ」
流石エド、余裕の笑みだ。レオンのあの様子を見ても全然動じず、素人の幻術を受けてくれるなんて……本当にありがたい。
「さあどうぞ。……ああ、僕はそう簡単に中身はお見せしませんからね」
悪戯っぽく笑いながら地面に座ったエドの首筋近くへ、レオンの時と同じように両手を添える。
エドがいくら経験者とはいえ、急に大きな力を流すのは怖い。できるだけそっと術を発動すると、レオンの時と違って全く映像が見えなかった。
(すごい……経験者相手だと、本当に見せてもらえないんだ……)
レオンとの経験の差がはっきりとわかる。自分が持つ一切の記憶や感情を見せないそれは、きっと今までの訓練の賜物なんだろう。
(私もこれくらい幻術を使えていたら、変態蜘蛛ときっちり戦えたのかも……)
あの悔しさを思い出しているとわずかな感情……いや、これは違う。エドの体調の変化だけがわずかに流れ込んできて、自分と同調する。
すると突然、心臓が口から飛び出るかと思う程に大きく跳ねた。そのまますぐに胸がきゅうと苦しくなって……今にも息が詰まりそうになる……。
(これは一体……?)
そして急激に全身がカッと熱くなり、両手にピシャリと強い電気が走った。
(……!?)
私は驚いて施術の手を離してしまい、そのまま術は途切れてしまった。
レオンの拒否はまるでテレビのスイッチ切って画像が消えただけのような感じだったのに、エドのそれはひどく激しい。
「っ……はぁっ……はあっ……」
見れば真っ青な顔をしたエドが地面に両手をついている。その息は荒く、額からは大粒の汗が落ちている……。
「エド、大丈夫!? ……っ!」
慌てて肩に触れようとしたら、勢いよく払いのけられてしまった――こんなエドを見るのは始めてだ。
「サンディ様、すみません……。今は……今は、僕に触らないでください……」
――どうしよう、エドが、ものすごくキツそうだ。
地面に落ちてしまった汗拭き用の布をレオンが拾った。丁寧に土を払ってエドに渡すと、大きく息を吐きながら顔を埋める。
肩が大きく上下しているけど、しばらくして落ち着いてきたのを見計らって水を渡した。私と目も合わせずに受け取ったそれを一気に呷ると、エドは大きなため息を吐く。
「すみません、本当に……お恥ずかしいところを見せてしまいました」
「エドアルド、本当に大丈夫? 何か怖いものでも見えたの?」
レオンの問いに、エドは苦笑いしながら首を横に振る。
「いえ、ちゃんと幸せな夢ではありましたが……ちょっと想定外で……。――サンディ様は、何か見えましたか?」
「いいえ。何も見えなかったし、感情も流れてこなかったわ。でも体調……急に胸が苦しくなったのはわかった。ねえエド、本当に顔色が悪いわ。すぐに休んで……」
額や首筋を拭いながらゆっくりと立ち上がるエド。レオンが手を貸そうとしたけど、大丈夫だからと断っている。
「サンディ様の術は全く問題ないですし、制御もこのまま練習していけば大丈夫でしょう。ただ今回は色々と僕の方に問題がありそうなので……。すみませんが、少しだけ休ませて下さい……」
そう言い残すとエドは、ややふらつきながら屋敷の方へと飛んで行ってしまった。
――やっぱり幻術の場数を踏むのは難しそうだ。仲間の中でも一番経験値の高いエドがあの調子では……。
「レオン。とりあえず私、しばらく一人で体力回復に専念しようと思う……」
「うんわかった。相手が必要になったらいつでも声かけて」
「本当にありがとうね、レオン」
レオンが私に寄り添おうとしてくれているのが伝わってきてとても嬉しい。
とりあえず、しばらく幻術の稽古は封印しよう。――まずは自分の体力回復を最優先に考える事に決める。
私は気を取り直して、屋敷の周囲をゆっくりと走りはじめた。





