救出
(ん……ここは?)
エドアルドは、モフモフと暖かい感触で目を覚ました。たくさんの羽毛が目の前でふわふわと揺れている。
ゆっくりと上体を起こすと、そこは大きな鳥の背中の上だ。その白い羽と斑に散らばる灰色は見覚えがある。
「お前……もしかしてヴィオラ?」
「ホウッ」
――いつもの高く可愛らしい声とは違い、低く優しい鳴き声だ。
魔法陣の書かれた紙に顔を包まれた直後、額を殴られたような衝撃に思わず意識を失った。そして今、気づいたら自分の背丈をゆうに超える大きなヴィオラに乗り、徐々に高度を下げている所である。
「ここは一体どこなんだ?」
「……」
ヴィオラは黙ったまま、音もなく滑らかに滑空していく。周囲は暗く霞んでいるが、覗き込めば下方に石の床が見えてきた。
「ギャ、ギャッ」
(……っ!?)
ヴィオラの威嚇音と同時に――今、この世で一番見たくないものが見えてしまった。
石畳の上、見慣れた銀髪が血にまみれて散らばっている。虚ろに開くその瞳は光を失いつつあり、口元に残る吐血の跡が遠目にも痛々しくて……気がつけばヴィオラの背から落ちるように直滑降していた。
「サンディ様ぁっ!!」
石床に降りてすぐ、身体に掛けられた暗褐色のローブを払いのけると、思わず目を背けたくなるような惨状に呼吸が止まる。
何処から手を付けたらいいかわからないが、鳩尾は特に傷が深いように見えた。それに脇腹に刺さる昆虫の足のような物も、一刻も早く抜き去りたい。
――生まれて初めて、自分の腕の本数に不足と不満を覚えた。
「なんて……なんて酷い仕打ちを……誰が、こんな……っ!」
我ながらみっともないと思う程の声の上擦りを隠すこともできず、そのまま即座に腹に治癒を施していく。そして、力を通して伝わり見えてくる損傷の深さと酷さに、ただただ泣けてくる。
――そういえば昔、精霊師として地上を旅していた頃、咎人に襲われた村人がこんな状態だった。そして結局その村人を助けることが出来なかった事まで思い出してしまい、無理やり記憶を振り払う。
サンディ様の呼吸はひどく浅い。半開きの目は視点が定まらないまま虚空を漂っている。両手で鳩尾に向けた力を強めると微かに唇が動いた。
「エド……ごめ、ん……ね……」
「――喋っちゃ、ダメです」
そう告げてはみたが、果たして聞こえているのだろうか? その目は半開きのままで、表情だけ見れば既に事切れていると言われても信じてしまいそうな有り様だ。
――しかし自身の施術を通じ、かろうじて息があることは伝わってくる。諦めず引き続き最大出力で治癒を施していく。
「ギャッ! ギャギャッ!」
ヴィオラの威嚇音で始めて顔を上げると、少し離れたところに見覚えのある姿がゆらりと立っていた。明るい琥珀色の瞳はひどく冷静に自分を見つめていて……。
「ギベオリード……お前なのか? 絶対に……絶対に許さんぞ……ッ!!!」
治癒の手を休めないまま、どうやって攻撃しようか……。
必死に考えていると、ヴィオラが首を傾げた後、なぜかギベオリードの元へと近寄っていく。しかも先程のような警戒音はなく、トトッと近寄ると身体を擦り寄せてみせた。
「……ヴィオラ?」
「まだわからぬか、同族の青年よ」
ギベオリードはヴィオラの頬を優しく撫でながら、四枚の翼を出してみせた。
「白い翼……」
「――いいからお主は治癒に専念せよ。アレクサンドラを苦しめた蟲は既に我が潰した故、もうここに敵はおらぬ」
見れば部屋の片隅で、汚く潰れた大蜘蛛の死骸が見えた。――とりあえず目の前のギベオリードは咎人ではないし、ヴィオラの様子を見る限り危険性は無いらしい。
正直さっぱり状況がわからない。それでも今は目の前の事に集中せねば……。
(ギベオリードではなく……今はヴィオラを信用するんだ……)
そう自分に言い聞かせて改めて集中する。一番損傷の大きい腹部の治癒に取り掛かり、すぐに止血だけは済ませた。
次に脇腹にめり込む汚い節足を、右手でゆっくりと抜きながら左手で止血を施していく。抜ききって見えた足の先端はまるで錆びついたナイフのように不潔に赤茶けていて……その忌々しさにそいつを全力で投げ捨てた。
見ればサンディ様はすでに目を瞑っている。右の首筋から頬にかけて、白磁の肌がぱっくりと割れていてひどく痛々しい。場所が場所だけに力の加減に気をつけつつ、裂かれていた皮膚をそっと、そしてできるだけ丁寧に治す。
――せめてお顔だけでも美しく
一瞬脳裏に浮かんだそのセリフに、自分で自分の頭を殴りつけたくなった。
(――クソッ……何を弱気になってるんだ!)
しかしその細い身体を探れば探るほど、損傷の大きさに絶望しそうになる。
血染めの服が裂かれている部分を追って傷を探していけば、乳房や臀部の深い部分まで抉られているのがわかって……思わず涙が溢れた。
すべてを一人で、今ここで完全に治すのは不可能だ。そう判断してからは、一番重要な血管や内蔵だけを最低限レベルで治癒することにひたすら集中した。
***
一体どれほどの間、治癒を続けていただろうか。時間の感覚を失ったままひたすら続けていたら、突然ひどい目眩に襲われて両手を床に付いた。まだ流血の乾ききらない石床は、掌にぬるりと冷たさを伝えてくる。
――とりあえず止血は最初に終わっている。損傷の激しい、致命傷に当たる部分の修復もあらかた終わった。それでもその細い身体に刻まれた傷は、まだまだ塞ぎきれていない箇所ばかりだ。
これでは完治が遅れるばかりか、酷い傷跡が残ってしまいかねない。
(ダメだ……まだこれからなのに……)
自身の力不足が今ほど憎らしいと思ったことは無い。大きく深呼吸をしてもう一度治癒を再開しようとしたその時……ギベオリードの声に止められた。
「――お主、もう限界であろう。今はとにかく、元の場所へ戻れ」
「でもこのままでは傷が……」
「お主がここで倒れたら、誰がアレクサンドラを元の場所へ連れて行くのだ?――引き際を見誤るな」
「っ……」
完璧な正論に全く返す言葉が無く、その悔しさに唇を噛んだ。
ギベオリードは跳ね除けられたままの暗褐色のローブを拾いあげた。ローブにはすっかり血が染み付いているが、それを改めてサンディの身体に被せる。
「これも精霊王からの賜り物ゆえ、幾分の御加護があるやもしれぬ。それと……」
ギベオリードは自身の左手をサンディの胸部にそっと置いた。
「我の記憶と知識が納められたこの書庫は、今後アレクサンドラと、その許しを得た者に対してのみ扉を開く、と伝えよ――まあ無事に生き延びられれば、だがな……」
元々影の薄いギベオリードの姿だったが、最後まで無表情なまま、みるみるその姿が煙になって消えていく。薄っすらとした紫灰色の煙は左手中指に嵌められていた指輪……明るい琥珀色の玉に吸い込まれて消えた。
ここにいたギベオリードがなぜ咎人でないのか解らない。襲撃事件の犯人はまた別の存在なのだろうか?……いや、その考察は後回しだ。今は先にやるべきことがある。
ローブと指輪は、王を決定する際に王弟が精霊王から賜ったと伝えられているものだろう。真偽の程は判断しかねるが、とりあえず今これは大切な預かりものだ。
サンディの胸部に落ちている指輪を拾い、しっかりとポケットにしまう。そして暗褐色のローブごとサンディを抱きかかえると、そのあまりの軽さに肝が凍りそうになった。
「――戻るぞ、ヴィオラ」
ヴィオラは応えるように大きく翼を広げると、乗れと言わんばかりに限界まで背を下げる。
「すまん……助かる」
正直、もう立っているだけで精一杯だった。力を振り絞ってヴィオラの背に乗り、そっとサンディを寝かす。
ヴィオラが大きく羽ばたくと、あっという間に石床の部屋が遠のいていく。サンディの血濡れた手を両手で取り、額に当てて心から祈った。
(サンディ様……どうか、生きて下さい……)





