それぞれの朝
翌朝、早めに起きてキッチンで洗い物をしていると、テレシアが野菜の入ったかごを持ってやってきた。
「おはよう、サンディ。洗い物ありがとうね」
「おはよう、テレシア。――あの、私昨日の事よく覚えてなくて……何か失礼なことしてないかな……?」
テレシアはクスリと笑い、その後すぐに少しだけ口を尖らせた。
「サンディったら、一番最初に寝ちゃったのよ。マリンが抱えてベットに連れて行ったの。もっと天界の話を聞かせて欲しかったのになー」
「ああっ、ごめんなさい……」
それでも、暴れたり吐いたりしたわけでは無いらしい。その点は少しだけ安心した……。
「おっはよ〜! あ、サンディ、体調は大丈夫〜?」
元気よくキッチンに入ってきたマリンは、ミルクの入った水差しを両手に持っている。
「おはようマリン。昨日は迷惑かけちゃったみたいでごめんね」
「なんのなんの〜。それより、サンディも結構イケる口だったね〜、また飲もうよ〜」
「あー……それがね……」
天界人は二十歳まで飲酒が禁止されている事を伝えると、二人はものすごく残念そうな顔をする。
「翼人は案外堅苦しいのね。地上人は十八歳から飲めるはずだし、私たち大山猫族なんか十五歳の誕生日を過ぎれば飲んでもいいのよ」
「じゃあレオンはもう飲めるんだ?」
「ええそうね。私達は十五歳で成人とされて、そのお祝いの席で初めて口にするの。でも個人の好みもあるから、それ以降にわざわざ勧めたりはしないわねえ」
この件については、種族によってかなり差があるみたいだ。いや、それにしても……。
「っていうかさ……そもそも私、まだ十歳なんだけど……」
「全然そうは見えないのにねえ。本当に残念だわ」
「で、サンディ〜。昨晩はまさか、お酒の年齢制限の話だけってわけじゃないんでしょ〜?」
「……え?」
気がつけばマリンとテレシアが、私をピッタリと挟むように立っていた。私の両肩にそれぞれ手を置いて、顔を覗き込みながらニヤニヤと笑っている。
「なんだかとってもいい雰囲気だったわよねえ」
「サンディったら、めっちゃ顔赤くしちゃってさ〜」
「えっと……二人とも起きてたの……かな?」
顔が一気に熱くなるのを感じつつ、目が泳ぐのを止められない。
「毛布かけ直してくれたあたりからだったかしら……」
「戻ってくるまで、ずーっと起きてたよね〜」
「えっと、その……ちょっと考え事してたら急にエドがきてくれて、その……色々心配させちゃって……」
「「ふ〜ん……?」」
左右から視線の圧を感じる……。
「あの! ほ、ほんとにそれだけだから!」
「んー……まあいいわ」
「そろそろ朝食作らないとね~」
二人がスッと離れて、心底ホッとした次の瞬間。
「また改めて、時間をつくりましょうね」
「その時にしっかり話聞かせてね~」
この時の二人の笑顔は、私が今まで見たことがないほど輝いていた……。
***
空が白み始める前、早めに起床したエドアルドは、自室で古びた書物を開いていた。昨晩ラフォナスから転送してもらった禁書とその資料だ。
(なんと悍ましい……)
そうは思ったが、実はまだ数ページしかめくっていない。つくづく胸の悪くなる術とその結果報告の数々に、既に心が折れかけている。
最初の項目、『死体に意思をもたせてそれを操る』なんてのは、まだ序の口だ。
次の項目、『生きた女性の身体を使って別の生き物を育て、最終的に母体をエサにする』……これも昆虫の世界で似たような事を聞いたし、大したことではない……きっと。
なんとか気を取り直して索引から幻術の項に飛んだはいいが……そこで盛大に後悔する羽目になる。
幻術の項には、狂うだけで済めば御の字と思いたくなるような、残虐な拷問方法の数々とその結末について詳細に記されていた。
(これは……子供まで含まれているじゃないか。一体、どれだけの実験を繰り返していたんだ?)
『とある研究とその実験成果をまとめた論文』として考えれば、この本は大層立派なものだ――ただしその目的と方法を除けば。
この書物に著者の名は書かれていない。しかしそれが王弟陛下――いや、もうその呼び方はやめよう――ギベオリードのものだという事は既に確認がとれている。だからこそ、ラフォナス様が送ってきたのだ。
鳩尾に薄っすらと吐き気を感じる。あえて深く呼吸すると、傍らにおいてある水を一気に飲んで堪えた。
(情けない……今からこんな状態で、この先読み進める事ができるのか?)
それでも収まらない息苦しさから逃げるため、既に開いている窓だけでなくベランダへのドアも開け放つ。
本当なら今すぐにでも、これらの資料すべてを焼き払ってしまいたい程には穢らわしい。しかし相手を知っておかねば対策も打てない。実際に相対する事になるであろう、サンディ様の為にも。
(サンディ様……)
机に戻って席に付くと、ベランダを眺めながら昨夜の事を思い出す。
マリンの部屋を抜け出して気怠げに宙を漂っていた時の表情は、どこか物憂げに悩んでいるような様子だった。しかし話を聞けば、なんと飲酒していたというではないか……!
しかも急に笑い出したり、危うくバランスを崩したり……とてもじゃないが、そのまま放っておける状態ではなかった――おそらくあれは相当飲んでいたはずだ。
ベランダまで手を引いてエスコートしてもよかったが、あの時はそれすら危うく感じて失礼の無いよう断った上で肩を抱いた。
しかし……魔法だけでなく剣も人並み以上に扱うはずのその身体は、拍子抜けするほどに華奢な上に、ふにゃりとして何とも頼りなかった。
酒のせいか、妙に火照ったその身体を自分に引き寄せたはまではよかった。しかし思いがけず激しく鳴る自分の早鐘を悟られたくなくて、説教じみた話を続けてしまった余裕の無さは今でも恥ずかしい……。
そして極めつけは別れ際。
『父には飲酒を内緒にしてくれ』と願い口元に人差し指を立てるその仕草は、とても子供っぽかった。
――しかしその姿は大人の女性だ。花弁のように可憐な唇に重なる細い指。ほんのり朱に染まった頬に、無防備な寝間着姿で……。
「あーーーだめだ! 集中しろ、俺!」
あえて大きく口に出して、自分を叱咤した。
机に突っ伏してわざと頭を打ち付ければ、頭蓋に響く鈍い音から僅かに遅れて、鋭い痛みが伝わってくる。
そのままそっと頭をあげると、目前に悪魔の書が開いていて……やや浮かれた意識は嫌でも現実に引き戻された。
ふと思う。この書物の内容は、できればサンディ様には見せたくない。
こんな悍ましい事をあの方には知ってほしくないし、何より似合わない。その代わり、こんな穢れた知識は自分が中身を理解し覚えておけば……。
(――いや、それはダメだ)
軽く頭を振って考え直す。
(これは、対峙する本人が知らなければいけないんだ……)
それでも本人に伝える前に、自分が理解しておく必要がある事に変わりはない。
エドアルドは自らの両頬をパンと叩いて気合を入れ直し、再び書物の頁をめくり始めた。





