初酔いと動悸
(あれ、ここは?)
浅く目覚めた意識。そのまま動かずに耳を澄ますと、自分以外の静かな寝息が聞こえる。
(あ、そうか。私、マリンの部屋で……)
薄らと目を開けると、ソファに寝ているテレシアの姿が見える。対面のソファにはマリンの姿もあった。そして何故か自分だけはベッドの上にいるようだ。
少し起き上がって見れば、テーブルの上は簡単だけど既に片付けられている。
(えっと私、片付けなんてしたっけ? 全然覚えてない……)
この様子だと、もしかしたら私が一番に沈没したのかもしれない。何か失礼な事をやらかしてなければいいんだけど。
不安を覚えつつ、音を立てないようにベットから降りて、二人の肩から落ちかけている毛布をそっと掛け直した。
窓の外はまだ真っ暗だ。空にはやや細めの月が見える。静かにドアを開けてベランダに出ると、まだ火照りの冷めない頬に夜風が心地いい。
床を蹴ってふわりと夜風にのった。
屋敷の屋根より高く上がってくるりと横になる。空を見れば細い月は、まるで星々の海に浮かぶ小舟のようだ。
ぼんやりと夜風の中を漂いながら、テレシアの言葉を思い出した。
『必ず生きて帰ってきなさい。何も成し遂げられなくても構わない。絶対に、生きて帰ってきて……』
あの真剣な眼差しには、子を持つ親だからこその真剣な想いが確かに強くこもっていた。
(『お母様を捨てても自分は生き残る』、か……)
今まで考えたこともないその選択肢を聞いた時、一瞬心が冷えて震えた。
その時、私は正しい選択ができるのか? いや、そもそもそんな選択肢などあるのだろうか? 王弟ギベオリードは、天界にいる誰よりも強いと言われているのに。
目を瞑ったまま宙を漂っていると、頭の中を暗鬱な考えが堂々巡りして止まらない。思わず額に手をやって、大きくため息を吐いた。
***
「ラフォナス様、ありがとうございます」
「いいのよー、陛下にも了解は頂いてるし。何よりもかわいいエドちゃんのお願いだものー」
水晶玉の向こう側で、見慣れた厳つい中年男が小指を立ててヲホホと笑っている。ラフォナス様は相変わらずだが、その仕事の速さは流石だ。
エドアルドは今、王弟ギベオリード対策として禁術の知識を得るために動いている。
本来持ち出しはおろか、閲覧すら禁じられている物もある貴重な禁書の数々。その資料や書物の中から特に重要なものを選別して、大樹の切り株に転送してもらったところだ。
魔術の天才、王弟ギベオリード陛下が百年余にわたって研究していた魔導の道。それを未熟な自分ごときが、書物を読みかじる程度で追いつけるとは思っていない。しかしこれが少しでも、アレクサンドラ殿下――サンディ様の助けになれば嬉しいと思う。
既に夜半を過ぎている。音を立てないよう静かに屋敷を出て、大樹の切り株に向かうと資料が届いていた。
(流石に読み込みは明日にするか……)
資料をまとめて手に取ったところで、視界の端に映る白い影に気づいた。
屋敷の主、マリンの部屋。最上階の一番広い部屋にあるベランダから、寝間着のままふわりと飛び立つサンディ様の姿が見えた。屋敷の屋根を超えるとやや横になり、少しずつ上昇しながら気怠げに漂っている。――一体何があったのだろう?
その挙動に一抹の危うさを感じ、資料を小脇に抱えたまま宙に発った。
***
サンディがぼんやりと宙を漂っていると、バサリという羽音と風を感じた。
目を開くと明るい金髪が目に入る。そこには長い金色のまつ毛に縁取られた青灰の瞳が、優しく微笑んでいた。
「エド……?」
「こんな時間にこんな場所で何を? 眠れないんですか? ――失礼」
エドアルドは横になって浮いているサンディの手をそっと取ると、引き上げるように身体を起こす。自然と顔との距離が近くなったその時、スンと軽く鼻を鳴らした。
「ん? これは……まさか、お酒ですか?」
「ふふっ。今日はマリン達と一緒に、とっても美味しいワインを飲んだの」
それを聞いたとたん、エドアルドの目が大きく見開かれた。
「はぁ? お酒は二十歳を過ぎてからですよ!?」
それは完全な不意打ちだった。前世で聴き慣れたそのフレーズが、まさかエドアルドの口から飛び出すとは思わなかったのだ。一瞬固まった後、笑いが止まらなくなる。
「ふふ……あははは! やだ、エドったら、あはははっ!!……っと」
あまりに笑い過ぎてフラつくと、エドアルドがすかさず身体を支えてくれた。――がしかし、勢い余ってその胸に頭を強くぶつけてしまった。
「あいったた……ごめんなさいエド。痛くない?」
「ええ、このくらい問題ないですが。サンディ様こそ、本当に大丈夫ですか?」
「えっと、まだちょっとふわふわしてる感じ」
エドアルドは困ったようにため息を吐いた。
「完全に飲み過ぎですね。お部屋までお送りしますから、早くお休みになって下さい」
「でも私、勝手にマリンの部屋を抜け出してきちゃったわ」
「ふむ。急にいなくなったら心配させてしまいますね。ではマリン殿のお部屋までお送りしましょう――失礼します」
エドアルドの腕が伸びて、サンディの肩をふわりと抱いた。肩に触れる大きな手と、引き寄せられもたれ掛かる形になった胸元からエドアルドの体温を感じ、サンディの心臓は勝手に小さく跳ねる。
「気をつけて下さいね――さあ、降りますよ」
ゆっくりと下降する途中、サンディは自分の心臓が早鐘のように鳴っている事に気づいた。そっと見上げると、困った顔をしたエドアルドと目が合う。
「天界では高等学院を卒業……落第無しで二十歳になりますが、それからでないとお酒は飲めない決まりなんですよ。……ってお教えしてなかったですね、すみません」
「そ、そうなのね……」
顔のすぐ近くで囁かれる低い声を、サンディは妙に意識してしまう。いや、動悸の激しさも顔が熱いのも、全部お酒のせいだろう……たぶん。
エドアルドは、やや厳しい口調で続ける。
「やっぱりまだ酔ってらっしゃいますね。お顔が赤いですよ」
「うん……そうみたい」
「戻られたら、水をたっぷり飲んで下さいね」
「はい……」
マリンの部屋のベランダに、音を立てないようにそっと降りた。肩からエドアルドの腕が離れると、何故か少しだけホッとする
「では私はここで……」
そのまま立ち去ろうとするエドアルドを見て、ふと大切な事に気がついた。
「あ待って、エド。あの、お願いがあるんだけど」
「ん、何でしょう?」
人差し指を口の前に置き、心から願う。
「あの……今日の事は、お父様には内緒に……」
少しだけ目を丸くすると、エドアルドはふふっと静かに笑った。
「――わかりました。でも、今回限りですよ?」
「ありがとう、エド!」
「サンディ様、お静かに……」
慌てて口を押さえて部屋の中をうかがうが、二人が起きた様子はない。サンディはほっとしつつエドアルドを改めて見ると、小脇に本をいくつか抱えている事に気づいた。
「ねえエド、その本は?」
「ああ、これは……いや、この話は明日以降にしましょう。とにかく今晩は、まずお休みください。それでは」
エドアルドはサンディの問いに答えないまま、すぐに床を蹴って飛び立った。その大きな翼は夜目にも白く美しい。力強い羽ばたきを見せながら、エドアルドは屋敷の玄関の方へ飛び去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、サンディはついさっきまでエドの手が乗っていた肩に逆側の手をそっと乗せた。
(やっぱりお酒の飲み過ぎはダメね。まだ少し、ドキドキする……)
サンディは大きく深呼吸をして、音を立てないようにマリンの部屋へと戻っていった。





