大蛇とミミズク
荷馬車の御者台から、ロムスはぼんやりと魔女の森上空を見上げていた。冷たく澄んだ朝方の空気の中、そこにはいつもと変わらない青空が広がっている。
魔女の森手前の街道は、他に通る馬車が無いせいで相変わらず荒れ気味だ。空のガラス瓶達が奏でるカチャカチャという聞き慣れたBGMを背後に感じながら、いつも通りゆっくりと馬車を進ませている。
(もう十日経つのか……)
自然と大きな溜息が漏れた。
***
グレンダに誓いを与えて……いや強引に押し付けて、半ば逃げるように屋敷を発ったあの日。
結界を抜け、森の外に出たところで手綱を大きく操ると、馬車を再び屋敷の方向へ向けて止めた。
いつもと違う指示に戸惑いの表情をみせる馬達……。御者台から降りて、彼らの顔や首を優しく撫でながらしっかり目を見て言い聞かせる。
「よーし、いいな。もし俺が消えるようなことがあったら、馬達は自力で屋敷へ戻るんだぞ」
馬達が落ち着くのを待った後、再び御者台に戻ってそのまま寝転がり、目を瞑って沙汰を待った。
妖精として初めて自我を持ち、グレンダに名前を与えてもらったあの日。自分の中に今まで感じた事のない強大な力が芽吹くのを感じた。それと同時に名付け親に対する愛着のような、自分でもよくわからない妙な感情が生まれたのは昨日の事のように憶えている。
それからは毎日のように魔女の屋敷に通い、屋敷にある書物を読み漁ったり、グレンダと他愛もない話をして過ごす日々だった。お礼代わりと言ってはなんだが、森で仕留めた鳥や獣を毎日のように持ち込んでいたのも今となっては懐かしい。
成り行きで王都との往復を請け負うようになってからは、街で人間たちの商ルールや武術、武器の扱いや人間との付き合い方……そして美味い酒の選び方をそれとなく学び、屋敷に戻ってグレンダにそれを報告する事も楽しみの一つだった。
俺のできる事が少しでも増えると、グレンダはいつも自分の事のように喜んで褒めてくれて、それがたまらなく嬉しかった。
そして小さなドワーフ族の女の子――森で拾われたマリンが屋敷の家族に加わると、俺たちはまるで彼女の両親になったかのように愛し育てた。
その頑張り屋のマリンが色々と行き詰まりを感じて焦り始めていた頃、まるで見計らったかのようにサンディとレオンが現れる。
二人は間もなく、マリンの急成長に欠かすことの出来ない変化をもたらしてくれた。おかげでマリンは全ての加護を得たどころか、一番苦手だった風に至っては誓いまで手に入れた……。
――それにしても……あの魔樹さえ森にやって来なければ。いまだにこれだけは、悔やんでも悔やみきれない。
魔樹の種をその身に潜ませたテレシアが、森に入ることを許してしまった――自分にも責任があるその失態の尻拭いに、なんでグレンダだけが犠牲にならなきゃいけないのか。
そもそも魔樹なんて来なければ、今も変わらずグレンダを中心に平和に暮らしていたはずなんだ。
王都で出会ったエドアルドの願いを、俺が断るべきだったのか? ――いや、そもそもサンディが森に来さえしなければエドアルドだって俺に頼むはずもないし……
(――待て待て待て……俺は一体何を考えてるんだ!?)
自分の中にサンディの出自を恨むような感情が湧きかけて、慌ててそれを全力で打ち消す。
サンディは心根の優しい本当に良い子だ。――自分を犠牲にしてでも友人やその母を助けようとする程に。
(サンディが悪いわけじゃねえだろっ、俺のくそったれが……!)
苦々しい気分で大きく舌打ちした次の瞬間、それは来た。
(……っ!?)
不意に氷水の池に落とされたような、猛烈な寒気に襲われた。慌てて上体を起こすと寒気はすぐに収まったが、それと入れ替えに胃がキュウと締め付けられるような不安が鎌首もたげて襲ってくる。
恐る恐る自身の身体をあちこち確認してみたが、何も変化は無いしそれ以上の異常な感覚も訪れない。
――そこで全てを悟った。
(賭けは婆さんの勝ちか……)
御者台の板を、思わず感情のままに拳で叩いた。ダンという大きな音に馬たちがやや驚いた様子を見せ、それが更に自己嫌悪を募らせる。
そこで唐突に、懐かしい気配を感じて空を見上げた。
いつも見ている細かな精霊たちの光の粒の中を、ひときわ大きく光る紫色の球体が高みへと登っていくところだった。
すかさず昔グレンダに見せてもらった、古ぼけた絵姿に描かれた人間の青年に姿を変える。
(まんまと勝ち逃げしやがって……せいぜいあちらでこいつと再会してればいいさ……)
グレンダが見てるかどうかなんて、どうでもいい。俺なんかよりも自分の使命を選択した魔女に対して精一杯の皮肉を込めつつ、わざと大きく手を振ってみせた。
***
いずれ自分がグレンダを見送ることになるのはずっと前からわかってたし、とっくに理解しているつもりだった。それでも突然『今日これから逝くわ』なんて……全く納得できなかったし、その意思を受け止めてやることも出来なかった。
そして、自分の中にあるこのひどく我儘な感情の正体がいまだにわからない。人間たちが言うところの恋とか愛とか、そういうのとも違う……たぶん。
強いて言うなら、名付け親への執着みたいなものだろうか。しかしそれすら憶測でしかないし、たとえ今その正体がわかったところでこの虚無感が埋まるわけでもない。
(……そうだ、虚無感。今俺に残されたものは、それだけ……)
これからもいつも通り、王都との往復をこなす事くらいは問題ないだろう。しかし……ここへ戻ってきても、もう俺の名付け親はいないんだ――永遠に。
王都で過ごしている間も、ずっと気持ちは沈んでいた。そしてこれから屋敷に戻ることは、俺にとってかなり勇気が必要な行為だった。
やや暗くなった事に気づいて周囲を見ると、馬車が森の中に入ったところだ。いつもと変わらない森のむせ返るような緑の香りや日陰の湿った土の匂いを吸い込み、またも大きくため息を吐いてうなだれる。
(――俺らしくもねえな……情けねえ。屋敷に付くまでにはもう少しシャンとしないと……)
いつになくナーバスになっている自覚はあるが、今の情けない姿は絶対マリンに見せられない。でも今はもう少しだけ……心のままに沈んでいたい……。
しかしその間もずっと馬車は進み続けている。結界の縁、双樹の間をくぐり抜けて小一時間経てば、木々の隙間から見えてくるのは見慣れた屋敷だ。
「ロムス様〜、お帰りなさい〜!」
結界をくぐった事を察知して待っていたのだろう。マリンがテレシアと一緒に並び、屋敷の外庭で手を振っている。
ああ、ここは何も変わってない……名付け親が居ない事を除けば。
――いや、まずい。ここで感傷的な顔をしていたら、あんな別れ方をした手前……マリンは酷く心配するだろう。
(――俺だってその位の気遣いはできるさ)
わりと必死に笑顔を作り、手を挙げてみせた。
(ん……?)
屋敷の前に置いてあるテーブルセットに、レオンとエドアルドの姿が見えた。二人はこちらに気づくと、手を振りながら笑顔でこちらに歩いてくる。
(そうか、皆帰ってたのか……)
勿論、グレンダの件を聞いて帰ってきたのだろう。――益々どんな顔をしたらいいのかわからなくなったが、なんとか平静を装って馬車を定位置で止めた。すかさずマリンとテレシアが来て、荷物を降ろし始める。
「レオン達は、あの後すぐに帰ってきたんですよ」
「……そうか」
荷物を降ろしながらテレシアが小声で教えてくれたが、返事もそぞろに馬車を離れて二人に向かって歩く。
「久しぶり、ロムス!」
「ご無沙汰しています」
「お、おう……二人とも帰ってたんだな」
揃って笑顔の二人は、腰に同じ模造剣を佩いている。レオンに至っては見たことの無い、弦の無い弓のような棒を背中に背負っており――二人とも天界でかなりの訓練を積んできたであろうことはすぐに察した。
「ねえ〜、荷下ろし手伝ってくれます〜?」
「僕、マリンを手伝ってくるよ――マリン、今行くー!」
レオンはすぐに馬車に向かって駆けて行った。
二人きりになると、エドアルドの顔から笑顔が消える。
「ロムス……この度は……」
「そういや嬢ちゃんはどうしたんだ? 今回は一緒じゃねえのかよ」
――今、そんなセリフは聞きたくない。エドアルドの言葉を遮るように、やや大きな声で被せた。
「あ……ああ。サンディ様なら、たぶんすぐに来ますよ」
俺の意思を察したかのように、エドアルドはすぐに笑顔に戻って応じる――そうだ、こいつはそういう気遣いのできる奴だ。
「あ、ほら――あそこですね」
エドアルドが指差す方向を見上げると、ちょうど太陽が正面にあって一瞬目が眩む。手で日差しを遮ってなんとか視認すると、腰まである銀髪をなびかせて飛ぶ大人の女性が見えた。
背中に透けて輝く翼を持つその女性は、満面の笑みで手を振りながらこちらに向かって飛んでくる。その瞳は間違いなく深い赤紫で、その奥に濃い青緑の光をチラつかせており……。
「……は??」
思わず間の抜けた声を出すと、エドアルドがクスリと笑った。
「――ええ、あれが今のサンディ様です」
「ロムス、おかえりなさい! 会いたかったよー!!」
空から登場したその女性は、勢いよく俺に抱きついた。細い腕が首に周り、ふにゃりと柔らかいものが胸に当たる。一瞬訳が分からずに固まったが、慌ててその細い身体を引き剥がしてその姿を上から下まで何度も見直した。
その髪色や特徴のある瞳は明らかにサンディなのだが、身長は俺やエドアルドより少々低い程度で……何よりその見た目が、完全に若い大人の女性だ。
「本当に、サンディなのか? ……どうなってんだ??」
「あ、そっか。この姿になって初めて会うって事、すっかり忘れてた」
ちょっと失敗した時に、テヘヘと笑って頬を小さく掻くその仕草は……間違いない、サンディだ。
すぐにエドアルドから、アヤナの試練とやらの説明があった。……が、理屈はともかく。サンディのこの姿に慣れるまで、俺の方が少々時間がかかりそうだ……。
「あのね、ロムスに紹介したい子がいるの! ――ヴィオラ、おいで!」
俺の戸惑いを他所にサンディがその名を呼ぶと、森の方から小さな白い鳥が飛んでくるのが見えた。かなりのスピードで滑空してくるがほぼ無音で、サンディが差し出した左腕にふわりと優雅に掴まってみせる。
「この子はヴィオラ。私が名付けた妖精なのよ……さあヴィオラ、彼はロムスっていうの。ご挨拶できる?」
ヴィオラと呼ばれた小さなミミズクは小さく首を傾げると、身体を震わせながらホッ・ホウと高く鳴いてみせた。
「ふふっ! 上手に挨拶できたわね、ヴィオラ! ……あっ」
ヴィオラは軽く羽ばたいてサンディの左腕から離れると、俺の方へと移りたがる素振りをみせる。
「おおっと」
慌てて右腕を差し出すと、そいつはすかさず飛び移ってきて俺をじっと見つめた。
深い紫水晶の輝きを湛えた瞳を見つめ返すと、不意に意識が吸い込まれそうな錯覚に陥って……慌てて視線を逸らす。
「ヴィオラ……か。綺麗な名前だな」
「でしょ! 私も気に入ってるの!」
その容姿に似合わぬ子供っぽい素振り……腰に両手をやり胸を張ってみせる様子に、ああやっぱり彼女はサンディだと妙に納得する。
「ヴィオラもロムスの事が気に入ったみたいで、本当によかったわ!」
「みんな〜、積み込みもあるから、手伝ってくださ〜い!」
「ああいっけない、忘れてた! ごめんマリン、今行く〜!」
そのまま慌ただしく走って行ったサンディを見送ると、エドアルドは軽く首をすくめてみせる。
「天界にいた時は、あのお姿らしくもう少し落ち着いていたんですがね……こちらに帰ってきたら、すっかり素に戻られたようです」
やれやれという物言いだが、その表情は実に嬉しそうだ。
「――さて。少しは手伝っておかないと後でマリン殿に怒られますんで、僕もそろそろ行ってきます。ヴィオラをお願いしますね」
「お、おう」
エドアルドが離れていくと、ヴィオラは俺を見ながらホウと鳴いてみせた。その可愛らしい声は、まるで小ぶりな土笛を鳴らしたような優しい響きだ。そっと頬を掻いてやると、目を瞑って嬉しそうに頭を押し付けてくる。
それにしても、この紫水晶色の瞳……真っ先にグレンダを連想したが、そこに湧いた感情は先程まで感じていた苦しさや痛みではなかった。それはただ懐かしくて、そして目の奥が熱くなるような嬉しさ……。
「――お前、もしかして婆さんの生まれ変わりじゃねえのか?」
冗談混じりで小さく話しかけてみるが、ヴィオラからの返事はない。その代わりにまるで『何のこと?』といった体で、くるりと大きく首を傾げてみせる。
「ふん……そうやってすぐはぐらかす所なんかそっくりじゃねえか……」
思わず笑いながら悪態をついてみて、俺は気づいた。
あの日以来初めて、自分が自然に笑っている事に。
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