謁見
「……レンダ……グレンダ……」
自身の名を呼ぶ優しい女の声に気付き、グレンダはゆっくりと目を開いた。いつの間にか、手すり付きのゆったりとした椅子に腰かけている。なんの変哲も無い簡素な木製の椅子だが、妙に座り心地がいい。
それにしても、何やら長いこと眠っていた気がする。あれは全て夢だったのだろうか?
「夢ではないぞ、森の魔女グレンダよ」
男の声に気付いて顔をあげると、同じような椅子にくつろいだ様子で腰掛ける二人の男女が見えた。
一人は漆黒の長い髪を緩く一つに結い、暗い紫色の衣を纏った男である。その太く低い声が似合わぬ中性的な美青年は、微笑んではいるがどこか昏い雰囲気が滲む。きりりと吊りあがった目に白目は無く、ただ黒い玉が嵌っているように見えた。
もう一人は白い衣を纏い、腰まであるウェーブがかった長い髪を持つ女だ。その凛とした美しさは、例えれば冬の満月の冷たさを体現してるかのようだ。そして男と似た吊りあがったその目に瞳は無く、ただ白い玉が嵌っているかのように見えた。
周囲を見回すと、深い森の中でポツンと開けた空き地のような場所だ。周囲はむせ返るような緑の香りに溢れており、グレンダは屋敷を囲む森林を思い出した。
二人はグレンダと向かい合うように座っており、女の膝には一匹の大柄な猫が座っている。
白地にややグレーかかった長毛に包まれたその猫は、女に撫でられて気持ち良さげに目を瞑っている。首元を囲むようにたくわえられた豊かな長毛は、まるで獅子のたてがみのようだ。尻には七本の長い尾があり、それぞれ勝手にふわりふわりと動いている。
猫はともかく、この二人は昔どこかで会ったような……? グレンダはそう思ったが、何かが強く引っかかったように記憶の引き出しが開けられず、どうしても思い出す事ができない。
そこへ男でも女でもない、三人目の声が聞こえた。
「グレンダ、この度はご苦労であった」
それはまるで少女のような可愛らしい声だった。グレンダは周囲を見回すが、二人以外に人はいない。
「ふふっ、ここじゃ、ここ」
女の膝に乗る猫が、ニャアと一つ鳴いた。
「あなた方は一体……?」
グレンダの問いに女は名乗らないまま、猫を撫でながら答えた。
「グレンダ。このお方こそ、精霊王ですよ」
まさか、この猫が精霊王! グレンダは慌てて椅子から降りて跪こうとしたが、黒い男に止められた。
「待て、グレンダ。精霊王はそなたと対等に話すことを望んでおられる。そのままゆっくり座っておれ」
グレンダは恐る恐る椅子に座り直した。しかし、今までずっと崇めてきた精霊王が目の前にいる……。この状況がどういう事なのか全く飲み込めず、緊張で背筋が伸びた。
「グレンダよ、此度はそなたのお陰で地上の調和が保たれた。改めて礼を言わせてもらうぞ」
その猫は金色に光る瞳をグレンダに向けているが、口は動かない。それは思念での会話だ。
「本来であればそなたを精霊国の国民として迎え、そしてその中でも、特に尊ばれる竜人族への転生を認めるところじゃ。しかし我はそなたの功績に敬意を払い、更に大きく報いたいと思ってな」
その猫――いや精霊王は、女の膝の上で上に向かって伸びると、目を大きく見開いた。
「グレンダよ、お主はどうしたい?」
精霊国の国民? 竜人族?? ――今まで聞いたことの無い話に考えがまとまらないでいると、黒い男が口を開いた。
「精霊国の国民とは、要するに妖精になるという事だ。そして竜人……これは地上で言うところの竜族の事。代々森の魔女達は、その生涯の功績として竜人への転生が認められておる。竜人になれば、お主を育てた先代の魔女と再会できるやも知れぬな」
グレンダは、森の魔女にそんな特権があるとは全く知らなかった。しかしこれは無理もない。代々の魔女たちが命数を使い果たした後に知る事なのだから、屋敷の記録に残るわけがないのだ。
そして精霊王は自身に『どうしたい?』とわざわざ尋ねた。ということは、竜人となる以外の選択肢を願う事が許されるのかも知れない。
「私は地上のこれからが心配でございます。森には愛娘も残していますし、大切な友人達もおります。どうか彼らの将来を守る手伝いは出来ないでしょうか」
「ふむ……出来なくはない。ただし、一度地上へ戻れば竜人はもちろん、精霊国民になることはもう叶わぬぞ。それでも良いのか?」
グレンダは竜人になる事に対して、特に魅力を感じなかった。ただかつての師匠に会ってみたいとは僅かに思ったが、よく考えれば竜人になる事に対する望みはその位しか思いつかない。
それよりも地上に残してきた皆が、今後もずっと幸せに暮らしていける。そんな地上を守りたいという願いの方が、比較にならぬ程強かった。
「ええ、構いません。私の望みが叶うならば、これ以上の転生は望みません」
グレンダが言い切ると、白い女は少々心配そうだ。
「それ程までに、残してきた者達が大切なのですね?」
「その通りです」
強く頷くグレンダに、黒い男は尋ねた。
「生きとし生けるものの何者も、輪廻の理から外れる事はできぬ。その先が例えば地上の小さな羽虫や、捕食される側の弱き獣になるやも知れぬ。それでも良いというのだな?」
「ええ、もちろんです。ただし……」
「ただし?」
精霊王が復唱すると、グレンダはふと表情を和らげた。
「弱き獣でも魚でも、そして地を這う小さな虫でも構いません。なんでも良いので、できればあの魔女の森で過ごしとうございます」
「ふむ……」
精霊王がニャアと一声鳴くと、白い女と黒い男が顔を見合わせて頷いた。
「地上の調和を乱す者は、地底にて今も力を蓄えておる。グレンダ、お主にはその者を止める為の手伝いをしてもらおうと思うが……どうじゃ?」
「はい、私に出来る事でしたら何なりと」
「よろしい。それでは功績ある魔女グレンダの願いを、精霊王の名をもって聞き届けよう」
その言葉と同時に、グレンダは自身の中に大きな力が宿るのを感じた。その力と入れ替わるように身体の重さがみるみる抜け、同時に今ある記憶が遠くなっていくのを感じる。
「あいにく、理に因って前世の記憶は持ち越せぬ。それでもお主の意思が正しく強固であれば、必ず目的を達する事ができよう。その暁には望み通り、お主の故郷である地上の森へ還って、自由に過ごすが良いぞ」
記憶と意識が遠のく中、精霊王の声だけが脳裏に響いていた。そしてそれも聞こえなくなると、グレンダの意識は淡く消え去った。
***
その広場に白い女と猫の姿は無く、黒い男が一人で佇んでいた。
男の左腕には、小柄な木兎が止まって目を瞑っている。
その身体の殆どは雪のような白さで、翼にはグレーの斑紋が薄らと散らばっている。男が少し腕を揺らすと木兎はくぅと小さく鳴き、愛くるしいまんまるの目が開かれた。
その瞳はまるで紫水晶のような輝きを湛えており、小柄な体格に似合わない力強さで光っている。
男が細く長い指を差し出して優しく頭を掻いてやると、木兎は目を瞑り、その指に甘えるように頭を押し付けた。
「――さあ、皆の元へ帰ろうぞ」
黒い男の言葉に、木兎は嬉しそうに羽ばたいてみせるのだった。





