もう一つの誓い
ロムスはその日の早朝、グレンダの自室にきていた。
グレンダは昨晩、夕食の後から随分遅くまでマリンと二人で話をしていたようだ。今朝は恐らく寝不足気味だろうに、本人はとてもスッキリとした顔で穏やかに微笑んでいる。
「やっと、肩の荷が降りたよ」
「ああ、本当によかったな」
ロムスは前日の昼過ぎに屋敷へ到着していた。夕食の時、マリンが風妖精から誓いを得たと初めて聞いて、自分の事のように嬉しく思った事を思い出す。
しかし、続くグレンダの言葉を聞いて我が耳を疑った。
「ロムス、落ち着いて聞いて欲しいんだがね。私は今日にでも、残りの寿命をお返ししようと思っているんだ」
地精霊の力が弱まっているのは、ロムスも自身の感覚として察知していた。それに炭鉱の村に咎人が出たとか、鉱山や海に魔物が出現したとか、王都でも物騒な噂が飛び交っている。それは既に、近隣の村々にも伝わっているほどだ。
それでもなぜ、グレンダが犠牲になる必要があるのか……正直、そう思ってしまう。
「婆さんがなんでそんな事する必要が――」
「――私は森の魔女だよ。それはロムスもわかっているだろう? 特に地精霊の結界はもう限界だ。一刻も早くなんとかしないと」
グレンダの諭すような声が、ロムスにはとても遠くに聞こえていた。
自身の中にある、この息詰まるようなもやもやをどう言葉に変換したらいいのかわからない。――いや、これはただの我儘であって、わざわざ伝えるべきではないかもしれない。
悩めば悩むほど上手い言葉が見つからず、ただただ苛立ちだけがつのる。
渋っ面で腕組みをするロムスは、黙り込んだまま靴の踵を床に小さく打ち続けている。コツコツと小さい音が神経質に鳴り続け、グレンダは仕方ないねと言わんばかりの顔だ。だが、その表情はどこか、我儘な子供を見ているかのように優しい。
「ロムス、どうかこれからも森の魔女を……いや、マリンを助けてやってくれないだろうか」
ロムスはそんな事をわざわざ尋ねる言葉なんて聞きたくなかった。しかし、その苛つきを懸命に飲み込んで低く応える。
「そんなの……言われるまでもねえよ」
グレンダはソファーから立ち上がって窓を開けた。空にはすでに朝日が登り始めている。室内に早朝のひんやりとした風が吹き込むと、まだ結っていないグレンダの長い髪がふわりと揺れた。
「本当にロムスには、長いこと世話になったね」
振り返ったグレンダの髪は逆光に照らされ、透けて美しく輝く。
「今まで、本当にありがとう」
そこにあるのは、いつもと同じ見慣れた微笑み。その瞳から、光る粒が落ちた事を除いては。
その時、ロムスの中で何かが弾けた。
「黙って聞いてりゃ、さっきから勝手な事ばかり言いやがって!!」
ガタリと立ちあがってグレンダの両肩を掴むと、驚きに見開く紫水晶の瞳を一瞥する。そして薄く開いた唇を、ロムスは自身の唇で乱暴に塞いだ。
その柔らかさとお互いの体温を感じた瞬間、グレンダは自身の中に発生する大きな力を感じた。
(――これは誓い……!)
グレンダは必死に、全力でロムスの身体を押し返すが、腕力では全く敵わない。しばらくもがき続けた後、ロムスが力を緩めてやっと唇を離す事に成功した。
「っはぁ、はぁ……ロムス! こんな事をしたらお前がどうなるか……」
「うるさい! これは俺の自分勝手だ!」
ロムスはグレンダの肩からそっと手を離すと、軽く目を伏せて低く呟いた。
「これで俺がどうなろうが知ったことじゃねえ。――後は、お前の好きにしろ」
ロムスは踵を返すと乱暴にドアを開け、そのままカツカツと高い足音を立てて出ていってしまう。グレンダはそのまま床にへたり込んだ。
(本当に、馬鹿な妖精……)
唇に残る甘い感触を、打ち消すように強く噛んだ。そして床に座ったまま必死に頭を働かせる。
魔女が預かった寿命を妖精へ返した、という事は過去に一度だけあったらしい。それは屋敷の古い記録で読んだことがある。
しかし、妖精の誓いを受けた魔女がその寿命を自発的に返した時、その妖精は一体どうなるのか。今までそんな記録は見たことがない。恐らく、本人も知らないだろう。
グレンダは迷った。このまま自分の決意を通したら、ロムスの命までも奪ってしまうかも知れない。そうなればマリンが……いや、私が私を許せるだろうか?
(ロムスは最後まで私を揺さぶってくるね……)
しばらくの間、グレンダは改めて自身の覚悟を再確認せざるを得なかった。
それでもやはり、今も絶え間なく鳴り続ける地精霊の低い警告を、このまま無視し続ける事はできそうにない。グレンダはそう長い時間を必要とせず、賭けに出る決意を固めた。
(仕方ない。もしもの時はあちらの世界で土下座でもするさ)
***
今、魔女は大樹の切り株の上で跪いていた。地妖精グノーマからの許可が降りると、身体から重さがするりと抜けていき、急激に上昇する温かい風に包まれる。
(これは……なんという心地よさだろう)
自身に預けられた寿命を地妖精に全て委ねた今、グレンダは大いなる安らぎを感じていた。
最後、やはり泣いてしまったマリンに笑顔を向けると、自身の意識だけが地上を離れてぐいぐいと上空へ持ち上げられていく。重しを突然外されたように浮上する力はとても強く、その視界はどんどん高く広くなっていった。
――その時、 グレンダは見た。
今まで自身が守ってきた森の端で、あの青年が御者台で自分を見上げている。そしてこちらに向けて大きく手を振る姿はみるみる小さく、そして遠くなって、とうとう見えなくなった。
「ありがとう、ロムス……」
その感謝は元の青年ではなく、それに化けてみせた妖精に対するものだった。
「自分勝手で、ごめんなさい……」





