魔女の決意
青年との別れから、百年程経った頃。
自分は相変わらず独りきりで、精霊たちとの対話をしながら屋敷で静かに暮らしている。
いつもと変わらぬ平和な昼下がり。
自室で茶を飲んでいると庭の方からとてつもなく大きく重い物が落ちたような音がした。それは低い地響きが屋敷を僅かに揺らすほどだった。
手元の長杖を引っ掴み、慌てて屋敷から飛び出してみれば、大樹の根本にそれはそれは大きな蛇が這って……いや、めり込んでいる。
大蛇曰く。大樹のてっぺんで光る粒を眺めていたら、急に目がまわってそのまま落ちたそうだ。
その丸太のような太い胴に纏わりつく裂けた薄皮の下からは、エメラルドグリーンに輝く鱗が覗いている。思念での会話、そしてオリーブグリーンの瞳の奥で僅かに輝く赤い光――これは明らかに妖精だ。
しかもこれは、その誕生の瞬間ではないか。
「妖精が生まれる瞬間に立ち会うなんて、生まれてはじめてだよ……」
思わずそう呟いた。
その生まれたての妖精は、名を持っていなかった。名無しじゃ不便だから、何か適当に名前を付けてくれ――そうせがむ大蛇の背後に、あの弔いの場所が見えた。
一瞬迷ったが、その名をもう一度声に出して呼んでみたくて……大蛇にロムスという名を与えると、大蛇の妖精はたいそう喜んだ。
ロムスはそれから、ちょくちょく屋敷に現れた。手土産のつもりか、訪れる度に鳥や動物を狩ってくる。屋敷にある本を好んで読み、森での出来事を面白おかしく話すと、夜になる前に森へ帰っていった。
水妖精オンディーヌのように引っ込み思案でもなく、火妖精リザドのようにいちいち愛を囁くような事もない。地妖精グノーマのように酒癖が悪い事もなく、風妖精シルフィアのような、酷いわがままも言わない。
――少々お調子者ではあるが、ロムスは自分が自然体で話せる初めての妖精だった。
ある日ロムスが屋敷の物置小屋で大量のガラス瓶を見つけ、これは何だとしつこく聞いてきた。昔、薬を作って街に届けていた事を教えると、どこで覚えたのか『金を稼ごう』などと言い始める。
「グレンダの薬はよく効くからな。絶対売れるぜ! それに街で金を稼げれば、美味い酒をもっと飲めるんだろ?」
――それは昔、師匠や自分がやっていた事そのものである。しかし、さもいい事思いついた体で得意げに言うロムスが可笑しくて――そこまで言うなら、とやらせてみることにした。
久しぶりにたくさんの薬を作って瓶詰めし、荷馬車に積み込む。馬もちょうど二頭いる。昔、青年が使っていた馬車馬と野生馬の子孫たちだ。
馬車の扱いは見せてやったものの、大蛇の姿のままでは街に行けない。かといって自分の姿に変化されるのも都合が悪い。人間の男性の見本がどこかにないか……そこでふと、絵姿の存在を思い出した。
自分が青年にしつこくせがんで作らせた、小さな姿絵。青年に会えない雨の日は、屋敷で一日中眺めていた事もあった。その姿絵もあの弔いの日以降、引き出しの奥にしまってそれきり……一切見ないように封印していたのだ。
久しぶりに引き出しから取り出したその姿絵は、少々埃を被って色もやや褪せていた。しかし青年の笑顔だけは昔のまま……眩しい程の魅力に溢れている。
なるべく平静を装って――その姿絵を見せてやると、ロムスは見事に化けてみせた。そしてお調子者のロムスが意外にも『この青年が誰なのか』を詮索してくる事はなく、内心ひどく安心した。
ロムスが屋敷を出発してから約十日が経った頃、結界に入ってくる気配を察知した時は本当にホッとした。
ロムスは人間社会の常識をまだよく知らない。品物や金はどうなってもいい。妖精ゆえに怪我や病気の心配は無いものの、とにかく無事に帰ってきて欲しいと願っていたのだ。
表に出て待っていると、遠くに荷馬車の姿が見えた。
「グレンダ!」
御者台のロムスが自分の名を呼び、大きく手を振っている。その姿はあの幸せだった日々に見た青年そのままで……その時、自分の中で百年以上封印してたはずの感情が、堰を切ったように溢れ出した。
自分の意思を無視して勝手に溢れ出す涙を見られたくなくて、咄嗟に後ろを向く。軽く手をあげて合図だけ送り、一旦屋敷に戻って顔を洗った。そして再び外に出ると、ロムスは既に見知らぬ男の姿になっている。
「街にはいろんな人間がいるんだな。見かけた中でいいと思う姿を混ぜてみたんだが……これ、どうだ? なかなかの男前だろ?」
ニカッと笑うロムスに、悪くはないね、とだけ答えた。それでもロムスが自分を気遣っているのは、痛いほど伝わっていた。
(ありがとう……)
口に出しては言えなかったが、心中で確かにそう呟いた。
***
「……様…………お師匠さま〜!」
ハッと目を開くと、目の前にマリンの顔がある。
「お師匠様、勝手にお部屋に入ってごめんなさい〜。ノックしてもお返事がなかったので、心配になって〜……」
「いや……問題ないさ。何かあったのかい?」
マリンの表情が、嬉しそうにほころんだ。
「私……風妖精様から、加護を頂きました〜!」
「まあ! それは本当かい!?」
あの天邪鬼がねえ……よく気が変わったものだと思った。しかも加護どころか誓いまで得たというではないか。
しかし、マリンから話をよく聞けば、半ば事故のような形だったらしい。
――今頃シルフィアは、さぞ落ち込んでいる事だろう。それを考えると、ほんの少しだけシルフィアが気の毒にも思えた。
しかし――これで次の魔女の安全は確保された。いくら事故とはいえ、マリンに何かあれば、シルフィアがそれこそ命がけで守るはずだ。
マリンは心底嬉しそうに、火精霊リザドと地精霊グノーマへの感謝を語っている。その言葉を笑顔で聞きながら、グレンダは一つの大きな決意を固めるのだった。
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