黒蝶
最後の方に残酷表現が出てきます。苦手な方はご注意下さい。
天界王の執務室入り口に控える侍女 アメリア・フェルネイは、何食わぬ顔をして聞き耳を立て続けていた。
アメリアの暗い赤毛はしっかりと一つに結われ、赤灰の瞳は眼鏡の奥で涼やかに光っている。きちんと手入れされた侍女服の着こなしは隙がなく、その有能さが見て取れる。
ここでは執事だけでなく、高位の貴族や騎士達が頻繁に出入りしていた。その度に重要な案件が囁かれ、ある時は声高に論じられたりする。
ここにおいて知った出来事は全てにおいて他言無用なのは当然だし、当然その心得もある。しかしながら個人的な興味にまでは蓋ができない。
政治やそれに伴うリアルな駆け引きを知るのは大変スリリングである。比較的高位の貴族家出身で高い教養を持つアメリアは、まるで小説を読むかのように機密情報を楽しみ、その旺盛な好奇心を密かに満たし続けていた。
そしてアメリアには、もう一つの楽しみがあった。
数ヶ月前、休暇を利用して遊びに行った地上で恋に落ちたのだ。――お相手は、美しい人間の青年である。
この翼ある身を晒せば、地上人たちに敬われるのは珍しい事ではない。しかしそれを差し引いても彼はとても優しく、自分のことをまるで本物のお姫様の様に大切に扱ってくれた。
長年仕事一筋。高いプライドと矜持を持って王城の中枢で勤め続けてきたアメリアは、周囲から尊敬や頼りにされこそすれ、一人の女性としてちやほやされる事には全く慣れていなかった。しかしその青年は、アメリアの持つコンプレックスを優しく溶かす事に成功する。
王城勤めの彼女ですら舌を巻く程の完璧なエスコートとそれ以上の好意を感じさせる気遣いの数々は、こと恋愛に関してはうぶなアメリアを酔わせるのに充分すぎる程だった。
おまけにその青年の放つオーラには不思議な陰りがあり……会話が途切れた時、憂いを帯びた瞳で空を見る横顔に、思わずアメリアの方から愛を囁いた。青年はそれを受け入れ口づけを交わし、再会を約束する。
そして次に会った時、青年から『愛の証』として明るい琥珀色の石がついたペンダントを渡された。
「私には翼は有りませぬ故、貴女の側に駆けつける事が出来ません。ですからこれを私と思い、肌身離さずお持ち下さいませ。例え戦場の只中であっても、あるいは王城奥深くの寝屋であっても……私の心はどこまでもアメリア様と共に有りたい……」
ペンダントの石と同じ明るい琥珀色の瞳に見つめられながらそう囁かれた晩、二人は初めて一夜を共にした。以来アメリアはそのペンダントを片時もその身から離す事無く身につけている。そしてそれは、勤務時間中も例外ではなかった。
「アメリア、お疲れ様。交代の時間よ」
「うん、ありがとう」
ようやく交代時間が来たようだ。同僚に引き継ぎを済ませると時間は既に昼近い。中途半端な時間ではあるが、今から二日間の休暇である。これからすぐに身支度を整え、地上の青年に会いに行こう……。
アメリアは王城の離れにある自室に戻り、ふわふわとした心持ちで侍女達が使う共同浴場へ向かう。貸切状態の更衣室で着衣を脱ぎ、最後にペンダントを外すと青年の瞳を思い出したのか――僅かに頬を赤らめながら、服の下にそっと隠した。
アメリアが浴室に入って間もなく、脱がれた着衣の中から黒い染みのようなものがぬるりと這い出る。それは棚から床にぺたりと落ちると、ふわりと浮いて黒い蝶に変わった。
淡い青紫色の光をわずかに纏った黒蝶は、赤い目を小さく光らせながら、更衣室の壁に沿って這い上るように飛んだ。
(アメリア……君は実に可愛らしい)
黒蝶はクククと笑いながらそう呟くと、そのまま天井にある通気孔へと消えていった。
***
訓練場の上空で、私は引き続きラフォナスから指南を受けている。
横笛を変化させた短杖を使って雷撃を放ち、長杖を使って防御の練習もした。実体の無い翼の利点を教わり、物理攻撃を肩スレスレで躱したり、強風に煽られない飛び方や、突風をいなす訓練をする。
「殿下、だいぶコツを掴まれたようですわね!」
「ありがとう、ラフォナス先生の教え方がとても上手なおかげよ!」
魔導士団長のいう通りに身体を動かしていると出来る事がどんどん増えていく。少し息は切れているが、まだまだ動けそうだ。
――これは前世の記憶のせいかもしれないけど……健康な身体で動き回れることを、今は心から楽しんでいる!
「――殿下、一旦降りて少し休憩いたしましょう」
本当はもう少し続けたかったけど……ラフォナスに促されて地上に降りると、ちょうど皆も休憩しているところだ。屋根付きテントの下で椅子に腰掛けると、カルリオン団長が直々にコップに入った水を渡してくれる。
「杖も翼も扱いがだいぶ上達されましたな。飲み込みがとても早くてらっしゃる」
「ありがとうございます。ラフォナス先生のおかげです」
「はははっ! ラフォナス先生ですか! ――おい、ずいぶん出世したもんだな」
ラフォナスは二杯目の水を一気に飲み干し、三杯目を注ぎながら笑う。
「殿下は素晴らしい素質をお持ちですわ。――それは恐ろしい程の素直さ! 私の知識をそのままグングン吸い込まれていくようで……末恐ろしいわぁ」
その言葉とは裏腹に、ラフォナスは満面の笑みでカルリオン団長に向けてウインクをした。
周囲を見ると少し離れた場所にレオンとエドアルドが一緒にいる。他の騎士たちと話をしているようだけど、レオンがこちらに気づいて走り寄ってきた。
「――サンディ、すごくカッコよかったよ! 飛んでるサンディがあんまり綺麗でよそ見してたら、カルリオン様に怒られちゃった!」
本人はケラケラと笑っているが、サラッと自然に女性を褒められるレオンは、素直にすごいと思う。――思わず頬が熱くなってしまった。
「でさ、エドアルドもずっと見とれてたんだけど、よそ見しすぎて相手の女性魔道士さんの攻撃を思い切り食らってたよ」
引き続きケラケラと笑うレオンの後ろで、盛大に水を吹く音が聞こえた。
「うっわ、エド、汚えな!」
「す、すまん……」
騎士の一人に水を吹き掛けてしまったエドが、きまり悪そうにチラチラとこちらを見ているので思わず笑ってしまう。
ここは本当に賑やかで、そして和やかな雰囲気だ。
「っはあーー、おいしい!」
自分も勢いよく水を飲んでホッと一息つくと、淡い青紫色の光を纏った黒い蝶が飛んでいる事に気付いた。
地上では見たことのないその美しい色合いの蝶は、皆の間を優雅に舞いながら私に近寄り、編み込んで肩から前に垂らした髪の胸の辺りに止まった。
(わぁ……リボンみたい!)
嬉しくなって、皆にも見てもらおうと顔を上げる――が、そこにはもう、誰も居なかった。よく見れば、この景色は王城の中……?
(――え?)
状況が飲み込めず、しばし動きが固まる。見ればさっき髪に止まった蝶もいない。
辺りを見回すとここが王城の廊下だということはわかる。でもここは自分が来たことの無い場所だ。そして周囲には人っ子一人見当たらない。
シンとした空間の中で耳を澄ますと、子供だろうか……遠くから、シクシクと小さな泣き声が聞こえる。泣き声に引き寄せられるように歩き始めると、長い長い廊下の一番奥、突き当たりの大きなドアの前に辿り着いた。
試しにそっとドアに耳を付けてみると……
(――シクシク……シクシク……)
泣き声は、確かにこの部屋から聞こえてくる。
普通こういう状況だと肝試し的な怖さを感じるものだと思ったけど……今は不思議とそういった感情はない。ただどうしてもその原因を突き止めなくてはいけないような気がして……。
大ぶりのドアノブをそっと回してみると、重厚な扉はあっさりと開いた。
(お邪魔しますよ……)
部屋に入ってみると、その部屋はホテルの一室のような佇まいだ。
広々としたスペースに応接セットがゆったりと設置してあり、その背後には大きく窓が開いていてとても明るい。脇には本棚が並び、その向こう側にはもう一つ部屋がありそうだ。
ずっと聞こえ続けている小さな泣き声は、その奥の部屋から聞こえてくる。隣室に行ってみると部屋の中央にはソファーが置かれ、壁には大きなクローゼットがある。
「シクシク……シクシク……」
小さな泣き声はこのクローゼットの中から聞こえてくる。
「――誰かいるのかしら?」
極力優しく声を掛けてみると泣き声が止まった。しかし、返事は無い。
「ここを開けてもいい?」
すると泣き声よりも更に小さく、苦しそうな嗚咽が聞こえた。
「おかあさま……怖いよ……たすけて……」
――この子は、何をこんなに怖がっているんだろう? かといってこのまま放っておくわけにもいかない。更に優しく、ゆっくりと声をかけてみる。
「どうしたのかな? ここには私以外誰もいないわ。一緒にいきましょう? お顔を見せて――開けてもいいかな?」
「……」
返事は無いけど、拒絶されるわけでもない。
――思い切って、そっと扉を開けてみた。
空のクローゼットの端っこ。そこには銀髪の小さな女の子がうずくまっている。
「怖いことがあったの? ――もう大丈夫よ。ここには私しかいないわ」
私がそう言うと、小さな少女はゆっくりと顔を上げる。その瞳は深い赤紫色に輝いているけど、白目は泣きはらして真っ赤だ。
(――あれ? この子私に似て……)
そう思った途端、小さな少女は目を大きく見開いて叫んだ。
「おかあさまあっ!!」
弾かれるように私の胸に飛び込んできた少女は、しっかりと私の身体を掴んで離さない。エーンと大きな声で泣き続けるその小さな身体は激しく震えている。
私をお母さんと間違えている? ……が、今はそれでもいいだろう。
「よしよし……もう大丈夫だよ……」
そう言いながら少女の身体を優しく抱きしめたその時、全身に酷く重い、そして激しい衝撃を感じて息が止まった。
一瞬で鼻腔に血臭さと肉と毛の焼け焦げる匂いが広がる。抱いた筈の少女の姿は無く、手には真っ赤で鉄臭い、ぬるりとした液体がまとわり付いている。
背筋には凍るような恐怖。呼吸もままならない喉からは全く声が出ない。
目の前にはかろうじて侍女であったとわかる布切れを纏った、大きな肉塊が血溜まりの中に倒れていて……。
「いやああああああああああっ」
その小さな少女の悲鳴は、自分の口から発せられていた……。





