68.縫い目の設定
目を開ける。天井は低い。石壁、薄い灯り。
椅子に固定され、手首と足首に柔らかい帯。力を入れると締まる。
「確認から始める」
目の前に立つのは第七使徒――“夢を縫う者”。
声は落ち着いている。手には細い銀色の針と、淡く光る糸。
「名前」
「……セイル」
「所属」
「学園。ルデス王子の班」
「目的」
「十一層から十四層の攻略」
「いい。素直だ」
針先が空中に文字の線を描く。光の糸が淡く揺れる。
「次。帰還後の言い訳を作る。
君は“帰り道で気分が悪くなり、途中で倒れていた”。
迎えを受けたか、自力で戻ったかは聞かれた方に合わせて答える。
その間の記憶は曖昧でいい。分かったね?」
「……分かった」
「よろしい。では反射行動の設定に入る」
“夢を縫う者”は糸を一本、セイルの額にそっと当てる。
「①“自分の身に何があった?”と三度以上続けて問われたら――頭痛。答えは『覚えていない』で固定。
②“君は操られていないか?”と正面から問われたら――沈黙し、話題をずらす。
③特定の合図で、行動の優先順位を切り替える。合図は後で渡す」
「……特定の合図?」
「外部刺激だ。音でも光でも。聞けば分かる」
糸が少し深く沈む。痛みはないが、思考が掴みにくくなる。
「感情の確認。リーナとレンの名を出す」
「……やめろ」
「反応、強い。使える」「ルデス王子」
「……」
「反応なし使えない」
“夢を縫う者”は作業を止めない。
「君は二人を守る。これは君自身の意思として残す。
そのうえで、特定の合図があれば優先順位を入れ替える。理解したね?」
「……守る……合図で、切り替える」
「よろしい」
針先が離れる。糸が空気に溶ける。
“夢を縫う者”は最後に短く告げた。
「痕は残す。目に。制御のしやすい部位だから」
視界の端が赤く滲む。瞬きで収まる。
「三つ数えたら目を開ける。歩いて戻れ。
一、二――」
――意識が切り替わった。
⸻
夜気。石畳。学園の正門が見える。
立っている。手足は自由だ。口の中が乾いている。
(戻れ――そう指示された?)
考えるより先に足が動く。門番がこちらに気づき、駆け寄ってきた。
「おい、大丈夫か!」
「……少し、気分が悪くて。倒れていたみたいです」
口が勝手に動く。事前に用意された言葉のように滑る。
「寮まで付き添う。歩けるか」
「はい。大丈夫です」
門番に支えられて歩く。正門脇の灯りが白くにじむ。
視界の端が一瞬だけ赤を帯び、すぐに消えた。
⸻
寮の前。扉が開き、リーナが飛び出してくる。
「セイル! 本当に……よかった……!」
駆け寄る腕。セイルは反射的に受け止める。心拍が早まる。
(守る――)
胸の内側で、さっき刻まれた言葉がそのまま響く。
少し遅れてレンが来る。
「無事か」
「……ああ。心配をかけた。覚えていない。帰り道で、急に」
言葉が枠にはまる感覚。レンの目がわずかに細くなる。
「医務室で見てもらえ」
「そうだね。セイル、行こ」
リーナが手を取る。温度が確かで、手が離れない。
⸻
医務室前の廊下。
ルデス王子が到着するのと同時に、灯りが少し明るくなった。
「戻ったか。状態は?」
「歩けます。吐き気はありません。頭が重いくらいです」
「経過観察に回す。詳細は明日聞く。今は休め」
王子の視線が一瞬、セイルの目に止まる。
赤は出ない。何事もなく、通り過ぎる。
(沈黙。話題をずらす――)
セイルはゆっくり頷くことだけを選んだ。
⸻
個室に入り、灯りが落ちる。
ベッドに背を預けた瞬間、内側で小さな合図が鳴る。
何の音かは分からない。けれど、優先順位が切り替わる感覚だけが残る。
――守る。
――問いには答えない。
――合図が来たら、動く。
目を閉じる直前、視界の端がもう一度だけ赤くなった。
次の瞬間には、何も残っていない。
夜は静かに進む。
セイルは眠り、糸は見えないところで締まっていく。




