55.速さの代償と打開策
刃が闇を裂くたび、火花のように黒い霧が散った。
レンの動きは風より速く、
その姿を目で追える者は、もはやいなかった。
だが――。
何度斬っても、確かな手応えがない。
影は形を変え、音もなく再び立ち上がる。
仮面の奥で紫の光が笑った。
「速い、だが軽い」
「……っ!」
返す刃で首を狙うが、空を裂く。
影の本体がすでに位置をずらしていた。
すぐに反転し、地を滑るように距離を詰める。
――速さでは負けていない。
だが、何かが足りない。
リゼの声が、かすかに響いた。
「……レン……あなたの攻撃……力が……散ってる……」
「散ってる?」
「速すぎて、重心が追いついてない。
一撃ごとに、力が抜けてるの……」
レンは息を飲む。
確かに、踏み込みの感覚が軽い。
速さに頼りきり、剣が“流れて”しまっている。
「――なるほど」
敵の声が嘲るように響いた。
「自らの速度に溺れた者。神の前に立つには早すぎたな」
影が伸びる。
無数の手が一斉に襲いかかる。
レンは反射的に跳び、壁を蹴って斜めに降下。
その一撃で地面を裂く。
黒い霧が散るが、
再び影がゆらりと形を取り戻す。
「……無限再生……!?」
「影の核を壊さなきゃ終わらない……」
リゼの声が弱々しく続く。
「核は、心臓の位置。
でも“影の流れ”を見切らないと……」
「見切れって、どうやって――」
レンの言葉を遮るように、
リゼの声が少しだけ強くなった。
「――速さを殺さないで。
速さを“聴く”の。
あの影は、音の波と一緒に動いてる。
……息を整えて、風を感じて……」
風。
耳の奥で、自分の呼吸と、敵の影の波が重なる。
わずかに聞こえる“うねり”の中に、
静止の瞬間があった。
レンはその一瞬を掴む。
跳躍。
短剣の軌跡が音を裂く。
今度は確かな手応えがあった。
影の片腕が切り飛ばされ、黒い血が飛び散る。
「……やっと、届いた……!」
レンが息を吐く。
リゼの唇がかすかに笑った。
「そう、それよ。
音よりも、静寂を聴く。
“止まる瞬間”にこそ、速さの意味がある」
だが、影はまだ動いていた。
片腕を失っても、その力は衰えない。
闇の中で、仮面が不気味に揺らぐ。
「興味深い……ならば、もう一段見せてみろ。
お前の“速さ”が、本当に神を裂けるのか」
足元の影が広がり、地面ごと飲み込まれる。
黒い腕が無数に伸び、レンを取り囲む。
リゼは地を這うように身を起こし、
その光景を見つめていた。
(このままじゃ……)
彼女は自分の右腰に手を伸ばす。
そこには、殿下から下賜された銀の短剣。
誰にも渡さぬはずの刃。
リゼの手が震えた。
だが、決意の方が早かった。
「……レン……!」
声が夜を裂く。
彼女の手から、一本の短剣が放たれた。
銀の光が闇を切り裂き、一直線にレンの元へ飛ぶ。
銀の光が夜を切り裂いた。
回転する短剣が空を走り、
影の腕を貫いてレンの手元へ吸い込まれる。
金属の音が高く鳴った。
レンは反射的にそれを掴み、目を見開く。
「リゼさん!?」
「――それを使いなさい!」
壁際で膝をついたままのリゼが叫んだ。
顔は蒼白。
だが、その瞳だけは炎のように揺らめいていた。
「火力が足りないんでしょ。
それは“双極の刃”の1つ。
でも、君なら扱える……速さと魂が同じ“系統”だから」
レンは手の中の短剣を見た。
銀の刃が、淡く脈動している。
心臓の鼓動と同じリズムで。
「……託すってことですか」
「繋ぐの。
――速さに“重さ”を加えるために」
その声に、レンは小さく息を吐いた。
言葉よりも早く、身体が動く。
彼は両手に短剣を構えた。
片方は己の黒刃。
もう片方はリゼの銀刃。
闇と光――二つの刃が共鳴する。
「俺に力を貸してくれ」
瞬間、空気が爆ぜた。
周囲の霧が押しのけられ、影がたじろぐ。
第七使徒が低く唸る。
「双剣……だと?」
レンの姿が、消えた。
目では追えない。
風圧だけが、刃の軌跡を示す。
「――ッ!」
黒い仮面の頬に、一本の細い傷が走った。
初めて、血が滲む。
紫に染まった液体が蒸発するように消える。
リゼが小さく呟く。
「……そう、それよ……“速さの重さ”……」
レンの動きが変わった。
速さの中に“間”がある。
一瞬の静止、そこに全ての力を溜めて放つ。
ドン、と空気が震える。
影の腕がまとめて斬り払われた。
斬撃の余波だけで、周囲の霧が吹き飛ぶ。
「馬鹿な……この私の影が、消える……!?」
第七使徒が動揺の声を漏らす。
その一瞬を、レンは逃さなかった。
「――終わりだ!」
交差する刃が閃光となり、
仮面の中心を縦に切り裂いた。
光の中で、敵の身体がゆっくりと崩れ落ちていく。
黒い霧が逆流し、鈴の音が一度だけ響いた。
カラン……
その音が、夜の終わりを告げる鐘のように響いた。
レンは膝をつき、深く息を吐いた。
両手に握った刃がまだ震えている。
その背後で、リゼが小さく微笑んだ。
「よくやったわ、レン……」
彼女の声は弱く、それでいて穏やかだった。
空を見上げると、夜がわずかに白み始めていた。
崩れ落ちた仮面の奥から、
かすかに人の声が漏れた。
「……愚かなる者よ……
神の音を……否定するか……」
声とともに、鈴の音が微かに響いた。
――チリン。
それは、泣くような音だった。
ひとつ、またひとつ、音が増えていく。
リゼの表情が険しくなる。
「……まだ終わってない……!」
彼女の瞳が光を捉える。
影の残滓が鈴の音に引かれるように、
床の裂け目から這い上がっていた。
それはもはや人ではなく、
闇そのものだった。
「鈴が……“媒介”……!?」
リゼが叫ぶ。
「レン! 離れて!」
だが、もう遅い。
黒い渦が爆ぜ、
影が鈴と融合して膨張を始める。
レンは歯を食いしばり、地を蹴った。
音を超えて、風を裂く。
双剣の光が再び走り、
闇の核へ一直線に踏み込む。
――それでも、音は止まらない。
リゼが震える声で叫ぶ。
「“鈴の音”は精神を喰う! 近づいたら――」
「もう遅い!」
レンの声が闇に溶けた。
視界が霞む。
鈴の音が、まるで心の奥を叩くように響く。
過去の声が、微かに蘇った。
母の笑顔。
幼い頃の笑い声。
そして、誰かの泣き声。
――行かないで。
(……幻覚か……!)
レンは頭を振り、目を開けた。
視界の奥、影の中心に、確かな“核”が見えた。
「そこか……!」
レンは全身の力を込め、双剣を交差させる。
銀と黒の光が重なり、
世界が一瞬だけ、無音になった。
――ズゥン!
轟音とともに、鈴が砕け散る。
光が逆流し、
黒い霧が弾け飛ぶ。
音が、止んだ。
何も聞こえない。
ただ、風だけが静かに吹いていた。
リゼが壁にもたれたまま、
小さく息を吐いた。
「……やった、のね」
レンは双剣を下ろし、
振り返って頷いた。
「はい。もう、何も……」
地面に散らばった鈴の欠片が、
淡い光を放ちながら、ゆっくりと消えていった。
長かった夜が、ようやく明けていく。
リゼがかすかに笑う。
「鈴が止まったなら、街も静かになるわ」
「……そうですね」
朝日が差し込み、
双剣の刃が淡く光る。
その輝きは、血の色を洗い流すように清らかだった。
レンはゆっくりと膝をつき、
震える手で地面の鈴の欠片を拾った。
「……これが、“あの音”の正体か」
リゼが目を細める。
「虚神教団――神の代行者を名乗る連中。
あれが“第七使徒”、まだ六人は残ってる……」
レンは静かに頷いた。
「じゃあ、まだ終わりじゃない」
リゼは弱く笑う。
「そうね。でも、少なくとも今夜は……」
そのまま彼女は、力尽きたように目を閉じた。
レンはそっと肩を支え、夜明けの空を見上げた。
朝の光が、
二人の影をゆっくりと溶かしていった。




