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44/107

44."格差"

 笛の音が止んだあとも、訓練場にはしばらく声がなかった。

 やがて、静寂を破ったのはカイルの取り巻きたちだった。


 「な、なんだ今の……!? 一瞬で終わったぞ!」

 「見たか? 今、あいつ消えたよな? ズルだろあれ!」

 「魔法か? 補助魔法使ったんじゃねぇのか? あんなの反則だ!」


 三人の声が重なり、場にざわめきが広がる。

 レンが木剣を下ろしても、誰も拍手をしない。

 ただ取り巻きたちだけが、悔しさを吐き出すように言葉を続けた。


 「カイルは手を抜いてたんだ。そうだろ?」

 「そうだよ、あいつ本気出してなかったんだ。

 ……そうじゃなきゃ、こんな結果になるわけがねぇ」


 その輪の中心で、カイルは何も言わなかった。

 木剣を握ったまま、うつむいて動かない。

 風が吹き、金髪が顔にかかる。


 誰も近づけない空気。

 ただ、その拳が震えているのを、リーナだけが遠くから見ていた。


 砂がさらさらと流れ、彼の足跡をすぐに覆い隠していく。

 まるで、さっきの勝負など最初から存在しなかったかのように。

 訓練場の端、柵の影に立ちながら、リーナは静かに状況を見ていた。

 取り巻きたちの声が風に乗って飛んでくる。

 「ズルしたに決まってる!」

 「目の前で消えるとか、おかしいだろ!」

 誰も彼の動きを見切れていなかった。

 それが普通だ。見えるはずがない。


 ――でも、自分には所々見えた。


 リーナはわずかに指先を握る。

 (ほんの一瞬。

  あの人の体が、空気の流れごと“滑った”……そんな感じだった)


 速さじゃない。

 力でも、技でもない。

 “存在が流れた”ような違和感。

 その動きは、美しいほどに自然で、理屈が追いつかない。


 「……あれは、魔法じゃない」

 呟きが漏れる。

 リーナは学園でも上位にいる。魔術も剣も心得ている。

 だからこそわかる――今の現象は、どちらでもない。


 (殿下は、あれを知ってたのかな)

 思考がふと冷える。

 王子の指名。突然の警護命令。

 そのすべてが、今の一撃に繋がっているように思えた。


 ――けれど、それでも。


 レンが木剣を下ろした時の表情は、ただ静かで、どこまでも人間らしかった。

 勝ち誇るでもなく、威圧するでもなく、

 ただ“終わったから剣を置いた”だけの自然な動き。


 「不思議な人だな……」

 思わず零れた声を、誰も聞いていない。


 取り巻きの騒ぎはまだ続いていた。

 けれどリーナの視線はもう、砂の上に残る二人の足跡に向けられていた。

 片方は重く深く、もう片方は軽く、まるで風が通り抜けた跡のように。


 リーナはそっと柵から離れた。

 日差しがまぶしい。

 それなのに、胸の奥には冷たい影が落ちていた。


 訓練場の喧騒が落ち着いた頃、空はもう橙に染まり始めていた。

 砂の上にはまだ足跡が残り、風が少しずつそれを消していく。

 レンは道具を返し終えると、静かに校舎裏の道を歩いていた。


 ――足音。


 「ねぇ、レン」


 振り向くと、リーナが夕陽を背に立っていた。

 光の向こうで、茶色の髪がふわりと揺れる。


 「すごかったね、今日の模擬戦」

 彼女は笑っている。けれどその声の奥に、探るような響きが混じっていた。


 「そうか?」

 レンは軽く首をかしげる。

 「自分では、ただ避けただけなんだけど」

 「避けただけ、ね」

 リーナはくすっと笑い、少し近づく。


 「みんな“消えた”って言ってたよ。

 でも、私には――ちゃんと見えてた」


 レンが目を瞬く。

 リーナの茶色の瞳が、真っ直ぐこちらを射抜いていた。

 「風の流れが変わったの。あれ、意識してやってるの?」

 「……さぁ」

 曖昧に笑って答えるレン。

 彼自身も、うまく説明できなかった。


 沈黙が落ちる。

 けれどそれは気まずくなく、どこか柔らかい空気だった。


 「ねぇ、レン」

 「ん?」

 「殿下に言われたこと、気にしてる?」

 「……まぁ、少し」

 短い返事。リーナは微笑む。


 「うん。あの人、面倒くさいけど悪い人じゃない。

 でも、少し“見てる世界”が違うんだ」


 レンはその言葉に何かを感じたように眉を動かした。

 「リーナは、どんな世界を見てる?」

 「んー……そうだな」

 リーナは夕焼けを見上げ、少し考えるように言葉を探す。


 「人が笑ってる場所、かな。

 私、それだけでけっこう満足なんだ」


 その声は穏やかで、どこか寂しげでもあった。

 レンは一瞬だけ、何かを言いかけてやめた。


 風が吹き抜け、彼女の髪を揺らす。

 太陽はもう建物の向こうに沈みかけている。


 「そろそろ戻ろっか。門限、過ぎるよ」

 リーナが笑いながら歩き出す。

 その背中を追いながら、レンは胸の奥のわずかな違和感を押し込んだ。


 ――あの速さは、何だったのか。

 そして、彼女の瞳に映った“それ”は、本当に自分の力なのか。


 問いは残ったまま、二人の影が夕陽に溶けていく。


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