3.宿のぬくもりと、冒険のはじまり
夕暮れの街を歩きながら、レンはため息をついた。
冒険者登録を終え、Eランクのギルドカードを手に入れたものの、
懐はほとんど空だった。
「銀貨……三枚。
これ、宿泊まったら明日の飯代もないな……」
街の宿屋を何軒か回ったが、
一泊あたり銀貨三〜五枚が相場。
旅人の街リステアは、思っていたよりずっと物価が高い。
通りの灯りがともり、パンと肉の焼ける匂いが漂う。
その香りに胃が鳴った。
「……父さん、“これでしばらく困らん”って言ってたけど、
一泊が限界だよ」
手の中の布袋は軽い。
中に入っているのは銀貨三枚だけ。
父ウィルは、腕は確かだった。
だが十数年も田舎の村で暮らすうちに、
すっかり金銭感覚を忘れていた。
『都会でも、笑ってりゃなんとかなる!』
「……宿代は笑顔じゃ払えないんだよ、父さん…」
レンは苦笑して肩をすくめた。
それでも、どこかで笑えてしまう。
――笑っていれば、なんとかなる。
父の無責任な言葉が、今はほんの少しだけ背中を押してくれる。
◆◇◆◇◆
街のはずれ、小さな木製の看板が目に入る。
《ねこのしっぽ亭》
木の扉は古びているが、窓から漏れる明かりは温かい。
胸の奥で、何かが“ここだ”と囁いた。
扉を押すと、カランと鈴の音。
香ばしい匂いと、笑い声。
その空気だけで少し安心できた。
カウンターの奥で、ふくよかな女将がこちらを見る。
「いらっしゃい。……見ない顔だねぇ」
「はい。今日、ギルドに登録したばかりで……その、宿を探してます」
「なるほどね。悪いけど、部屋は銀貨三枚だよ」
レンは苦笑した。
「……実は、それが全部で。
もしよければ、手伝いをさせてもらえませんか? 料理か掃除でも」
女将は少し目を丸くした。
「へぇ……あんた、見た目まだ子どもじゃない。
料理なんてできるのかい?」
「はい。父と二人暮らしだったので、ずっと僕が作ってました」
女将は腕を組み、じっとレンを見つめた。
細い腕、まだ幼さの残る顔。
だが、その瞳は真っすぐで、冗談を言っているようには見えない。
「……そうかい。じゃあ見せてもらおうか。
厨房、貸してやるよ。味を見てから決めようじゃないの」
「本当ですか!」
「ただし、焦がしたら皿洗いね」
「はいっ!」
女将はため息をつきながらも、口元に笑みを浮かべた。
「まったく……面白い子が来たもんだねぇ。
ほら、厨房は奥だよ。火傷しないようにね」
◆◇◆◇◆
厨房は狭く、けれど整っていた。
レンは袖をまくり、包丁を手に取ろうとして止まる。
古びた包丁が棚に数本並んでいるのを見て、
レンはおそるおそる女将に声をかけた。
「包丁、お借りしてもいいですか?」
「これかい?」
女将は一本を抜き取り、柄をレンに差し出した。
刃こぼれはあるが、よく研がれている。
「まずは貸してやるよ。返すのは出る時でいい。
ただし、うちの子を傷つけたら承知しないよ」
「大事に使います!」
レンは包丁を両手で受け取り、深く頭を下げた。
⸻
鶏肉、タマネギ、卵、トマト、米。
女将が「このくらいで足りるかい?」と出してくれた材料だ。
「オムライスを作らせてもらえますか?」
「おむ……なにそれ?」
「卵で包んだご飯料理です」
「へぇ、聞いたことないね。やってみな」
⸻
包丁の刃が火の光を反射してかすかに光る。
レンはタマネギを手に取り、まな板の上に置いた。
コン、コン、コン――一定のリズムが厨房に響く。
切るたびに、透明な汁が光を反射して煌めいた。
そして――三度目の刃が落ちた瞬間。
包丁の刃が、ほんの一瞬だけ淡く光を放った。
レンは思わず手を止めた。
まるで包丁が息をしたかのようだった。
だが、すぐに首を振り、作業を続ける。
⸻
油をひいた鍋が、ジュッと音を立てた。
タマネギを炒め、香りが甘く変わっていく。
肉と米を加え、トマトを潰す。
香ばしい音と香りが厨房を包み込み――
女将の表情が驚きに変わった。
卵を熱したフライパンに流し込み、
ふわりと広がる膜の中心に炒めご飯を乗せる。
手首を返すと、柔らかな黄色が包み込むようにまとまった。
皿に盛られたオムライス。
湯気とともに漂う香りが、客席にまで届いた。
一口、そしてもう一口。
女将の目が見開かれ、次の瞬間笑みがこぼれた。
「……うまいね。
鶏肉の旨味がちゃんと出てる。
塩加減も完璧だよ」
店の客たちが匂いにつられて振り返る。
「おい、なんだこの匂い……」「腹減るな」
女将はスプーンを置き、満足そうに頷いた。
「いい腕してるじゃないか。
皿洗いと仕込みを手伝うなら、部屋と飯付きで泊めてやるよ」
「本当ですか!?」
「うん。それに――」
女将は少し声を落とし、照れくさそうに言った。
「できれば、もう少しの間ここで料理を手伝ってくれないかい?
あんたの料理、客にも評判になるよ」
レンは驚き、少し戸惑ったように笑う。
「……僕なんかでいいんですか?」
「いいに決まってるさ。働き者で、腕も確かだもの」
そう言って女将は、棚の奥から一本の包丁を取り出した。
さっきよりも刃渡りが短く、よく手入れされた一本だ。
「これ、うちで一番扱いやすい子だよ。
しばらくあんたに貸してやる。大事に使いな」
「ありがとうございます。料理に使わせてもらいます」
「そうしておくれ。料理は命を支える武器だからね」
◆◇◆◇◆
昼前、レンは宿を出て再び冒険者ギルドへ向かった。
依頼掲示板の前には、活気あふれる冒険者たちの姿。
そんな中で、昨日模擬戦で見かけた三人組がいた。
一人は陽気な火魔法使いの青年――カイ。
一人は短剣を扱う冷静な少女――ミナ。
そして岩のような体格の防御役――ゴルド。
「お、昨日の!」
カイが笑顔で手を振る。
「見覚えあると思ったら、あんた昨日の剣の子だろ?
動き、悪くなかったじゃん」
「ありがとう。でも、まだまだですよ」
「俺たち、今日からパーティ組もうと思ってさ。
前衛、魔法、盾まではいるけど、もう一人欲しくてな」
「俺か?」
「そう。落ち着いてるし、何より昨日の動きの速さ結構凄かったしね」
ミナが口を開く。
「確かスキルは使わなかったでしょ? それともスキルまだよく分かってないの?鑑定はした?」
「うんまだスキルよくわかってないんだ、金がなくてね」
ゴルドが腕を組み、うなずいた。
「なら稼げばいい。Eランクなら採取依頼が安全だ」
カイが掲示板を指差す。
「“西の森で薬草採取”ってのがある。報酬は銀貨12枚。
地味だけど、4人で行けば1人3枚。宿代と食費を引いてもギリ黒字だ」
ミナが呆れたように笑う。
「また計算してる……昔から変わらないわね」
カイは肩をすくめた。
「まあでも、命あっての物種だろ?
冒険者なんて、無理して死んだら元も子もない。
人数は少ないより多い方がいいに決まってる」
ゴルドがうなずく。
「……それは正しいな。慎重すぎるくらいがちょうどいい」
「だろ? 俺はちゃんと計算して“生き残る冒険者”を目指してんだ」
カイは笑いながら親指を立てた。
「ま、ついでにちょっとだけ儲かれば最高だけどな!」
ミナがため息をつきながら笑う。
「調子いいのか真面目なのか、ほんと分かんないんだから」
レンはそのやり取りを見て、自然と笑みをこぼした。
「……いいパーティだね」
カイが振り返り、軽く顎を上げた。
「だろ? じゃあ――今から向かうが、それで構わないか?」
「もちろん」
レンは力強くうなずいた。
「準備はできてる」
カイがにやりと笑う。
「よし、決まりだ! 昼飯は森で食おうぜ!」
⸻
こうして、レンの初めての冒険が始まった。
まだ自分のスキルも知らないまま、
少年は新しい仲間たちと一歩を踏み出す。




