106.ダンジョン箱1F~
翌日、午前。
寮の部屋のテーブルの上に、あの木箱が置かれていた。
俺とルデスは、向かい合って座っている。
「……逃げるなら今のうちだぞ、レン」
軽く笑いながら言うくせに、ルデスの目は真剣だ。
「まさか、逃げるわけないよ」
そう返したところで、コンコンとドアが叩かれた。
「リーナだ。入れ」
ルデスが声をかけると、ドアが開く。
「お待たせ。――って、もう二人とも覚悟決めてる顔してるじゃない」
リーナが部屋に入ってきて、すぐに箱に視線を落とす。
「何度見ても、その箱、落ち着かないオーラ出てるわね」
「同感」
俺は苦笑しつつ、椅子を勧めた。
リーナが腰を下ろし、三人で箱を囲む形になる。
「手順を確認する」
ルデスが、落ち着いた声で言った。
「三人で手を繋いで箱を開ける。
何が起きても、最初の瞬間は絶対に手を離さない」
「了解」
「わかった」
「中に入ったら、まず体の状態と魔力の流れを確認。
一階層だけ様子を見て、出入口を探す。
……見つからなかった場合は、その時点で一度集まって方針を決める」
「うん」
リーナが、こくりと頷く。
「じゃあ、行こっか」
俺が真ん中に立ち、右にルデス、左にリーナ。
右手にルデスの手のひら。
「レン。起動頼む」
「……行くよ」
空いている片手で、そっと蓋へ指を置く。
ひやりと冷たい木の感触。
息を一つ整え――ゆっくり押し上げた。
視界が、白く弾ける。
足元の感覚がふっと消え、何か柔らかいものに包まれるような――
◆◇◆◇◆
「……っ」
次の瞬間、靴裏に固い感触が戻った。
灰色の床石。
規則的に並んだ魔導灯。
湿り気のある空気。
さっきまでの寮の部屋は、跡形もない。
「転移、成功だな」
右手には、まだルデスの手の感触。
「とりあえず、手は離してよさそうね」
リーナが周囲をぐるりと見回しながら言う。
「変な魔力の流れは……今のところ感じない」
ルデスも周囲を確認し、ようやく指をほどいた。
俺も、二人の手を離す。
「で、レン。肩は?」
真っ先にリーナが聞いてくる。
「ん――」
その場で、腕をゆっくり回してみた。
ぐるり、ぐるり。
途中で引っかかる感覚が、どこにもない。
痛みも、重さも、妙な違和感も――何一つ。
「……何これ、軽」
思わず、本音が口から出た。
「外だと、そこまで回せないのよね?」
「うん。
途中で変な感じの重さがあった」
もう一度、早めの速度で肩を回す。
本当に、健康体そのものだった。
「説明通り、ここの中では“怪我なし”の状態ってわけか」
ルデスも、自分の吊っていた方の腕を大きく動かしてみる。
「……ふむ。俺の腕も、今は問題ないな。
これはこれで反則じみているが」
リーナは、二人の周囲をじっと見てから頷いた。
「魔力の流れも、変な乱れはない。
今のところは、受けた説明と一致してる感じね」
俺たちが立っているのは、どうやら「一階層」の通路らしい。
壁は単調な石造り。
両側に、ところどころ小部屋につながる扉。
足音がよく響く、静かな空間だ。
「じゃあ、一階層の探索開始しよう」
「そうだな。
まずはこの階の構造と、敵の強さを確認する」
ルデスが剣の柄に手をかける。
俺も、腰にある二本の短剣を軽く抜いた。
リーナは、ペンダントにそっと指を当て、魔力の流れを整える。
それからしばらく、
俺たちはダンジョン一階層を歩き回った。
結果から言うと――
「……拍子抜けするくらい、楽勝だね」
リーナが、肩の力を抜いて言う。
最初に出てきたのは、小さなスライムの群れ。
次に出会ったのは、訓練用迷宮にも出るような弱い狼。
その後も、ごく普通のゴブリンや、小型のトカゲのような魔物ばかり。
数はそこそこいるが、どれも一撃か二撃で沈んだ。
「少なくとも、一階層の敵の強さは『初級』だな」
ルデスが、倒れた魔物の体を一瞥してまとめる。
「足並みを揃えていれば、危険な相手ではない」
俺自身の体の切れも、外とは段違いだった。
走っても、跳んでも、肩に一切ブレーキがかからない。
短剣も、久しぶりに“何の遠慮もなく”振り切れる。
(……これだけ動けると、逆に怖いな)
嬉しい反面、どこかでそんなことも思う。
「レン、変な無茶だけはしないでよ?」
隣を歩きながら、リーナがじとっと睨んできた。
「顔が『ちょっと楽しそう』になってる」
「なってない……と思う」
触れられて、初めて気付くくらいには、確かに体が軽かった。
一階層をくまなく回ったが――
「……戻るための“扉”とか、“魔法陣”とかは、見当たらなかったね」
リーナが、最後の通路を覗き込みながら言う。
「階段は?」
ルデスの問いに、俺は頷いた。
「一ヶ所だけ、あった。
上へ上がる階段」
そこに、簡素な石の立て札があった。
《2F》
ただそれだけ。
「じゃあ、“上に進む”方向の出口しか用意されていない、か」
ルデスは顎に手を当てる。
「この手の構造のダンジョンなら、十階層ごとに一つ区切りがあるのが普通だ。
おそらく、“十階層のボスを倒す”のが、最初の戻り道だろうな」
「……一階層で帰れる仕様だったら、最高だったんだけど」
「そんな甘い話なら、あの店主ももう少し嬉しそうにしていただろう」
ルデスの言葉に、苦笑するしかない。
「行くか」
俺たちは階段を上がった。
◆◇◆◇◆
二階層、三階層――
構造は一階とそう変わらない。
出てくる魔物の種類が少しずつ増え、
数も、動きも、わずかにだけど“濃く”なっていく。
「それなりに、ちゃんと“鍛える”ための作りになってるな」
ルデスが、剣を払って一体の狼を倒しながら呟く。
「無意味に理不尽な感じじゃなくて良かった」
「レンが本気出すまでもない程度には、ね」
リーナが笑う。
確かに、今のところ苦戦というほどの場面は一つもなかった。
肩は軽い。
足も、視界も、集中も、全部よく回る。
王の刃を振るっても、
あの重さに振り回される感じはなく、ただ素直に“斬れる”。
俺が前に出て、ルデスが横を固め、リーナが後ろから魔法と補助。
その形を崩さずに、
ただ淡々と、目の前の敵を片付け続けるだけだ。
五階層に入る頃には、魔物の顔ぶれがまた変わっていた。
硬い甲殻を持つ昆虫型。
火を吐く小さなトカゲ。
集団でかかってくるゴブリンの亜種。
「ふうん。ここからはさっきより少しだけ強そうね」
リーナが、軽く汗を拭いながら言う。
「でも、まだ押し切れるわね」
「ああ」
俺も息は上がっていない。
肩も問題ない。
むしろ、ここまで何戦か重ねたことで、動きがどんどん馴染んでいく。
「外でこれだけ連戦したら、肩の方が先に悲鳴上げてただろうな」
小さく呟くと、ルデスが頷いた。
「だからこそ、この箱は“訓練場”として価値がある。
経験だけが残る、なんて素晴らしいアイテムなんだろう」
「聞けば聞くほど、怖い道具でもあるけどね」
リーナの一言に、反論はできない。
それでも――足取りは止まらない。
六階層。
七階層。
八階層。
敵の数は増え、質もじわじわ上がっていくけれど、
戦いの流れ自体は、終始こちらが握ったままだった。
「ここまでで、まともに傷を負ったのは……」
ルデスが、さっと視線を走らせる。
「リーナの袖が一回裂かれたのと、
レンの頬がちょっとかすったくらいか」
「ちゃんと避けたもん。
服だけならセーフ」
リーナが胸を張る。
「そっちはどう?」
「ちょっとかすっただけだよ。
痛いけど、気になるほどじゃない」
頬に触れると、薄く血の線が残っていた。
(……この程度の傷でも、外に戻れば“消える”のか)
ふと、そんなことを考える。
九階層に入ると、少しだけ空気が変わった。
通路がわずかに広くなり、
魔物の配置も、人間の“動きを試す”ような形になっている。
前衛を引き離そうとする動き。
後衛狙いの回り込み。
小さな罠を絡めた、連携じみた動き。
「……やっぱりあんまり強くないな」
ルデスが、最後の一体を斬り伏せながら言う。
「普通のダンジョンなら、
おそらく十階層にボスがいる。
そこで最初の区切り、そして“戻り道”だろう」
「だったら、そのボスを倒せば、外に帰れる可能性が高いってことだよね」
リーナが、ほっとしたように息を吐く。
「一回くらいは、戻り方も確認しておきたいし」
「その前に、まずは十階層を見ないとな」
俺たちは、九階層の最奥――
天井が少し高くなった広間の、奥の壁の前に立った。
そこには、他の階層の階段とは違うものがあった。
大きな両開きの扉。
表面には、簡素だが分かりやすい紋章が刻まれている。
《10F 門》
「……分かりやすいな」
ルデスが、苦笑混じりに呟いた。
「この先が十階層。
そして、おそらく最初のボス部屋だ」
俺は、肩を一度、ぐるりと回してみる。
違和感はない。
力もちゃんと入る。
中に入ってからずっと続いている感覚――違和感のない肩。
(やれるだけやってみよう)
そう決めて、扉の前に立ち位置を整える。
「準備は?」
ルデスの問いに、
「いつでも」
「合わせるよ」
俺とリーナの声が重なった。
石の扉に、ゆっくりと手がかかる。
十階層――最初のボス戦が、その向こうで待っていた。




