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『悪役令嬢は王を叱る』

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/02/10

物語の中で「叱る」という行為は、しばしば感情や暴力と結びつけられます。けれど本当に重い叱責は、声を荒げることでも、罰を与えることでもなく、逃げ道を用意しないことなのかもしれません。


この物語は、誰かを裁く話ではありません。正しさが必ずしも喝采を呼ばず、善意が必ずしも結果を伴わない世界で、人がどこに立ち、何を引き受けるのかを静かに描いています。


派手な出来事はありません。代わりに、積み重なる選択と、その後に残る形だけがあります。読後に残るのが勝敗ではなく、役割についての小さな違和感であれば幸いです。


少し距離を置いて、物語としてお楽しみください。

 王都の朝は、紙の匂いがした。湿ったインク、乾ききらない封蝋、羊皮紙の粉が空気に舞う甘さ。鐘楼が九つを打つと、庁舎へ向かう靴音が石畳を磨き、窓の外の旗が寒風に短くはためいた。


 執務室の長机には、決裁を待つ書類が山になっていた。書類は形だけ整っている。だが、封の角度や朱の乾き具合が、そこに「待たされた時間」を匂わせた。


 レオノーラ・ヴァルディエールが、最初の束を開いたのは鐘が止む前だった。


 侯爵家の令嬢であり、王妃一門の分家筋。背は高く、姿勢が良い。礼装を纏えば身体が衣装に負けない骨格で、胸元には厚みがあるが、腰は明確に細い。華奢さではなく、前へ立つための均整。視線を集めるのは曲線そのものではなく、視線を返さない強さだった。


 彼女の指先は速い。紙をめくる音が一定のリズムを刻み、目は行間を削り、必要な数字だけを抜き取っていく。


 窓際に控えた侍従が、三枚目の差し戻しが戻ってきた時点で小さく息を呑んだ。差し戻しは苛烈ではない。赤字は少なく、言葉も丁寧だ。だが、それがかえって逃げ場を失わせる。読み直せば、どれも正しい。


 彼女が次の束に手を伸ばした時、侍従が控えめに咳払いをした。


「本日も、相当な量でございます」


「量が多いのは、止まっているからです」


 冷たい言い方ではない。むしろ事務的で、淡い疲労の匂いがない。侍従は「止まっている」という言葉に、曖昧な笑みを浮かべかけて、やめた。止めている者が誰かを、ここにいる全員が知っている。


 レオノーラが開いたのは、北方の穀物配給に関する報告書だった。冬の終わりが遅れ、備蓄が尽きかけている地方がある。輸送路の補修、馬車の割当、護衛の手配。告知を先に出さねば、民が不安で動く。動けば混乱が増幅する。


 報告書の最後の一文に、王太子名義の承認が必要とある。


 承認が降りていない。期限は三日前に切れている。


 レオノーラは羽根ペンを置き、机上の砂時計をひっくり返した。さらさらと落ちる砂の音が、室内の沈黙に線を引く。


「期限が切れています。誰が止めましたか」


 侍従は視線を逸らした。言葉を選ぶ時間だけで砂が一段落ちる。


「……殿下のご印章が、まだ……」


「印章ではなく、判断です」


 淡々と、同じ文の形で言い直す。侍従は背筋を伸ばした。まるで叱られたかのように。


「殿下は、本日も聖女様の儀式の準備で……取り巻きの方々が、身の回りを……」


「儀式は腹を満たしません」


 短い言葉だった。乱暴ではない。だが事実は、乱暴なほど硬い。侍従が喉を鳴らす。


 レオノーラは紙面の余白に、指示を書き込んでいく。北方の不足分は南部の余剰から回す。輸送路の補修費は臨時支出へ。護衛は第三騎士団から十名、途中の宿場に連絡。配給の告知は輸送の確約を待たず、時刻だけ先に出す。動揺を防ぐため、告知文は「王太子殿下の慈しみ」として整える。


 最後に命令書の文面を整え、王太子の名で封をする手順まで書いた。


「このまま通します。責任の所在は明確に。殿下の名で出し、殿下の責任として記録します」


 侍従の顔が少し青くなる。


「……よろしいのですか。もし、後で……」


「後で誰が叱られるか、という話ですか」


 侍従は否定しきれないまま沈黙した。


「私は叱られません。叱られるのは、本来ここに印を押すべき人です。だから記録を残します。記録がなければ、同じことが繰り返されます」


 レオノーラは封蝋を押し、書類を束ねた。


「陛下に伺います。今日の午後、謁見の時間を取ってください」


 侍従が目を見開く。王に直談判するなど、表向きの王太子妃教育の範囲を越える。だが、彼女はその「表向き」と「実際」を区別していない。必要なら越える。越えた責任も引き受ける。


「今日でなくてはならないことがあります」


 侍従は深く礼をして退出した。扉が閉まると、レオノーラは窓辺へ目を向けた。王宮の塔が見える。あの高みの風は、紙の匂いよりずっと冷たいはずだ。


 派手なことはしていない。それでも、結果だけがいつも派手になる。


 民は口々に言い始めていた。


 殿下より、あのお嬢さまのほうが話が通じる。困ったときはヴァルディエールに陳情を出せ。


 敬意は、守ってくれる者へ自然に寄る。誰も反王家を叫ばないのに、王家が不要なのではないかという空気が、薄く、確実に広がり始めている。


 その危うさを、彼女は知っていた。


 だからこそ、王に叱られに行くのではない。王を叱りに行く。


 午後。王の執務室に通されたレオノーラは、いつもより一歩だけ前に進んで礼をした。


 王はナイスミドルと呼ばれる男だった。整えた髭、深い眼差し、歳月に磨かれた落ち着き。政治の才も、人格も、欠けてはいない。だが、彼には触れてはならない柔らかい部分があった。


 王妃を、出産で失っている。


 エリザベート・ヴァルディエール。公爵家嫡流の娘で、王妃一門の本家筋。包容力を骨の髄まで備えた女性だった。分家の女性たちが「引き締まった均整」で立つなら、彼女は「余白のある安定」で立った。ややふっくらとした体つきでも、背筋は凛としていた。胸の厚みは隠れず、それでも色香より先に安心が宿った。


 彼女は王に対しても、民に対しても同じ姿勢でいた。抱え、諭し、逃がさない。


 だが彼女は息子を産んだ後、肥立ちが悪く亡くなった。


 王に残ったのは、形見のような一人息子と、守れなかったという痛みだった。


 レオノーラが机の上に書類を差し出すと、王はすぐに内容を理解した。理解が早いのが、この王の強さでもある。


「北方の配給か……期限が切れているな」


「切れています」


 レオノーラは余計な飾りをつけない。王は眉間に皺を寄せ、書類の角を指で軽く叩いた。


「なぜ私に上がってこない」


「上げる前に、現場が先に倒れます」


 王の目が細くなる。責める視線ではない。痛みに触れた視線だ。彼は分かっている。息子の名で止まっている。止めているのは、息子の「判断の欠如」だと。


「私も分かっている。だが……」


 その「だが」が、国政ではなく息子に向けられたものだと、レオノーラは一瞬で理解した。理解した上で、そこを断ち切る必要がある。


「陛下。これは“息子だから”という理由で、許されることではありません」


 王の表情が揺れた。


 ほんの僅かに、まぶたが落ち、目の奥が遠くなる。レオノーラが見ているのは王の顔だが、王が見ているのは別の誰かだった。


 ――王妃だ。


 彼女の声は荒げない。だが、叱る時ほど声が低く静かになる。王が甘えかけた瞬間に、線を引く。抱えた上で逃がさない。その圧の優しさを、王は身体で覚えていた。


 王は呟くように言った。


「……君は、あの人に、似ている」


 レオノーラは一瞬だけ目を伏せた。否定も肯定もしない。似ているからではない。同じ位置に立っているから、面影が見えるのだ。


「王妃様から教わりました。王を叱る役目は、王に最も近い者が負うのだと」


 王の喉が動く。彼はそれを「重荷」と呼ばなかった。重荷と呼べば、逃げ道にできてしまうからだ。


「君は……王太子妃になるために、ここにいるのだな」


 レオノーラは一拍だけ置き、はっきりと言った。


「いいえ。国を止めないために、ここにいます」


 王が短く笑った。笑みというより痛みに触れた反射だった。


「ならば、私が決めねばならない」


 レオノーラは頷く。


「陛下が決めなければなりません。殿下のために。この国のために」


 王はしばらく黙った。窓の外の風が、カーテンを僅かに揺らす。書類の端がわずかに鳴る。それだけの音が、やけに大きく感じられる。


 王が顔を上げた時、その眼差しは決まっていた。


「……分かった。今日のうちに、王太子を呼ぶ」


「ありがとうございます」


 礼をして退こうとしたレオノーラに、王は続けた。


「君は、恐ろしくなることはないのか。これだけの火種を、毎日ひとりで抱えて」


 レオノーラは扉の前で立ち止まり、振り返らずに答えた。


「恐ろしいのは、火種があることではありません。火を見て見ぬふりをすることです」


 それは王妃の言葉に似ていた。王は目を閉じ、短く息を吐いた。




 数日後、王宮の大広間で断罪が行われた。


 空気はすでに作られていた。王太子の周囲には、白い衣を纏った聖女と、笑みを貼り付けた取り巻きたち。貴族たちの囁きが波のように広間を撫で、どこからか甘い香が漂っていた。緊張ではなく、期待の香だ。


 レオノーラは中央に立たされる。背筋は真っ直ぐで、視線はまっすぐ上がっている。自分が「悪役」に仕立てられるのは知っている。だからこそ、余計な言葉を足さない。言葉は切り取られ、歪められる。最後まで真実として残るのは、記録と結果だけだ。


 王太子が高らかに告げた。


 レオノーラが王権を簒奪しようとした。民衆を扇動し、王太子の権威を貶め、国を自分の手に収めようとした――。


 罪状は、どれも曖昧で、どれも耳触りがいい。結果を意図にすり替えれば、人は怒りやすい。民の困窮と苛立ちを「誰かの陰謀」にしてしまえば、楽になる者が多い。


 証拠として示されたのは、レオノーラが出した命令書の写しだった。王太子名義の封。王太子の印章。そこに記された文面を読み上げながら、取り巻きが「殿下を操っていた」と断じる。


 レオノーラは反論しない。反論は、彼らの物語に燃料を足すだけだ。彼女が見ているのは、王の沈黙の質だけだった。


 聖女が柔らかく口を開いた。


 彼女は“善”の顔をしていた。悲しみを滲ませ、慈悲深く微笑み、罰を望まないように見せながら、罰へ誘導する言い回しをする。自覚があるのかないのか分からない。だが、善意であれ悪意であれ、現実は同じ方向へ転がる。


「殿下のお心を踏みにじり、国を混乱させた罪は重いのです。どうか、相応の裁きを……」


 貴族の一人が頷き、別の一人が声を合わせる。そうして「空気」は増幅する。誰かが最初に石を投げると、二人目は楽になる。三人目は正義になれる。


 王太子は勝利の確信を顔に浮かべた。彼の視線はレオノーラではなく、周囲の支持へ向いている。彼にとってこの場は、国を守る裁判ではない。恋を成就させる舞台だ。


 そして彼は、決定的に口を滑らせる。


「よって、婚約は破棄する! 私は、聖女を王太子妃に迎える!」


 その瞬間、広間の呼吸が一斉に止まった。


 王が立ち上がったからだ。


 王の立つ音は、鎧の擦れる音のように硬い。誰もが息を呑む。王が立つだけで、広間の重心が変わる。王太子の言葉が床に落ち、拾われない。


 王は怒鳴らない。声を荒げない。必要な分だけの音量で、告げる。


「ならばその前に、王太子の婚約は白紙撤回とする」


 王太子の口元が緩んだ。勝ったと思ったのだろう。聖女も微笑を深める。取り巻きたちが安堵の息を漏らしかける。


 だが王は続けた。


「そして、レオノーラ・ヴァルディエールを……王太子妃ではなく、王妃として后に据える」


 空気が凍るというのは比喩ではない。人は理解が追いつかない時、身体が固まる。誰もが一瞬だけ動けなくなる。


 王太子の瞳から色が消えた。聖女の微笑が、初めて揺らぐ。取り巻きの一人が「そんな」と口の中で呟いたが、声にならない。


 王は淡々と言う。


「私は、まだ在位している。王妃を選ぶ権限は王にある。王太子よ。王妃を断罪したいなら、まず王になれ」


 それは制度の言葉だった。慣習の言葉だった。王国の現実そのものだった。感情で勝とうとする者の足元に、法と責任が滑り込む。


 レオノーラはそこで初めて口を開いた。


「陛下。私にできるのは、国を止めないことだけです」


「それで十分だ」


 王の声は低く、痛みを含んでいた。だが揺れてはいなかった。あの日、執務室で叱られた時に、王は決めていたのだろう。逃げないと。


 断罪は“成立”しなかった。代わりに、王太子の未熟さと聖女の無垢な残酷さだけが、広間に記録として残った。


 王宮の空気はその日から変わった。


 王太子は聖女と共に暮らし、儀式と宴と、慰め合う時間に沈んでいく。叱られない世界は甘い。だが甘さは、現実の筋肉を萎ませる。


 一方、王妃となったレオノーラは淡々と仕事をした。戴冠の衣装が整う前に、配給の手配が進む。税の徴収が整い、輸送路が整備され、役所の紙の流れが速くなる。


 彼女は派手な改革をしない。前例を守り、規則を読み、必要な穴だけを塞ぐ。だが、塞がれた穴の数が多すぎて、それだけで派手に見える。


 民は噂した。


 前の王妃様みたいだ。いや、違う。あの方は……もっと、逃がさない。


 王は夜更けに一人、王妃の遺品に触れることが増えた。指輪、手紙、薄い香の残る布。だが彼は泣かなかった。泣けばまた息子を甘やかす理由にしてしまう。王は、王妃に叱られた日の感覚を胸に刻み続けた。


 年が巡る。


 レオノーラは子を産んだ。ひとりではない。子沢山になったのは偶然ではなかった。彼女は「王妃」として、王国の未来を“数”でも守る選択をしていた。誰か一人に全てを背負わせないために。派閥が一人の子へ集中しないために。王位を競争ではなく、役割として育てるために。


 子どもたちは、書類の匂いに慣れて育つ。侍従の足音を聞き分け、官僚の言葉の端で優先順位を嗅ぎ取る。視察にも同行する。民は、彼らを知る。名前を知る。姿を知る。


 王宮の廊下で、まだ幼い王子が転びそうになった時、レオノーラが手を伸ばすより先に、側近の若い文官が自然に支えた。文官は慌てて膝をつき、子どもの目線に合わせて言う。


「大丈夫です。殿下が転んだことが問題ではありません。転んだ後に、どう立つかが大事です」


 その言い方に、レオノーラは一瞬だけ目を細めた。誰かの背中を、皆が真似し始めている。国が、彼女の型を学び始めている。


 一方で、王太子は危機感を持たなかった。いや、持てなかった。


 本来、彼には才覚があった。理解力も、判断力も低くない。教えれば覚え、正解を示されれば選べる。王妃が健在で、抱きしめながら逃がさず叱る者がいたなら、王になる器へ整えられたかもしれない。


 だが彼は「叱られないまま」育った。甘さの中で現実を学ぶ機会を失った。だから、自分を肯定する聖女を選び、責任から遠ざかる道を自然に選んだ。


 王は、その事実を責めなかった。責めたところで埋まらない穴は埋まらない。だが王は、国を賭けることはできなかった。


 廃嫡の日、玉座の間は驚くほど静かだった。


 王太子は呼び出され、形式上の手続きとして立たされた。彼の顔色は悪くない。まだ自分に「何かが残っている」と信じている顔だ。だが、その信仰は根拠が薄い。


 王は言った。


「王位は、国を守れる者に継がせる」


 王太子が唇を噛む。


「父上……私は、奪われたのですか」


 王は首を振った。


「奪われたのではない。お前は一度も掴んでいなかった」


 言葉は残酷だ。だが真実は、いつも残酷で、だからこそ救いにもなる。曖昧にすれば、傷は長引くだけだ。


 王はほんの一瞬だけ目を伏せた。


「……お前には、才はあった。だが王妃がいないまま育った。私は王としてそれを補えなかった」


 それは懺悔に近い言葉だった。王太子は何も返せない。返せば、王の傷を抉るだけだと分かったからだ。彼にも、その程度の理解はあった。


 王太子は、僅かな個人資産を与えられ、宮廷の外へ出た。贅沢を続けられるほどではない。働けば生きられる程度。だが彼は、王になる準備しかしてこなかった。


 そして彼の隣には、聖女がいた。


 聖女は寄付で暮らしていた。信仰は金を生む。小さな家、暖かな食事、穏やかな日々。王太子は気づけば、養われる立場になっていた。


 最初のうちは、彼はそれを「一時的なもの」と呼んだ。次の仕事を探すまで。次の機会が来るまで。次の“誰か”が迎えに来るまで。


 だが、迎えは来ない。


 彼が「殿下」だった時に寄ってきた者たちは、殿下という肩書きに寄っていただけだ。肩書きが剥がれれば、残るのは本人だ。そして本人は、思ったより軽かった。


 聖女は彼を責めない。叱らない。問い詰めない。


「大丈夫よ」と聖女は言う。「あなたは悪くなかったの。皆があなたを理解しなかっただけ」


 その言葉は甘い。だが甘さは刃にもなる。叱られない言葉は、成長を止める。


 王太子は、穏やかに透明になっていった。


 飢えてはいない。寒さにも困っていない。だが、身体の奥に熱が灯ることが減っていく。誰かに必要とされる熱。誰かの期待に応える熱。責任の熱。


 ある夜、王太子は窓の外を見て、ふと思う。王宮の塔は、遠くからでも見える。あの塔の上で、誰が風に当たっているのか。


 答えは、分かっている。


 王妃。彼女の子。官僚。騎士。民の声。


 自分は、その輪の外側にいる。


 それを受け入れるのに、時間がかかった。だが受け入れた時、妙に楽になった。期待されないというのは、解放でもある。


 やがて王都では新しい噂が走る。


 次の王が決まった、と。


 それは王妃の子だった。聡明で、落ち着いていて、民の顔を覚えている子。官僚たちが自然に背を支えた子。王が承認する前から、皆が「そうなる」と理解していた子。


 即位の式典の日、王都の広場には人が溢れた。旗が揺れ、鐘が鳴り、拍手が広がる。王は老いを感じさせるようになっていたが、背筋はまだ真っ直ぐだった。王妃は玉座の横に立つ。華やかさより確かな重さを纏って。


 新王太子が誓いの言葉を述べる。声は若いが揺れない。言葉は飾りではなく、決意として落ちてくる。民はその声に安心する。官僚はその声に背筋を伸ばす。


 広場の端、群衆の隙間に、元王太子がいた。目立たない外套の陰。聖女は家に残っている。彼はひとりで来た。誰にも見つからない場所を選んだ。


 拍手はできなかった。だが、目を逸らすこともできなかった。


 玉座の横の王妃が、一瞬だけ視線を下げる。群衆の中の誰かを見たのか、ただ民を見渡したのかは分からない。だが元王太子は、その視線が自分を掠めたと感じた。


 胸の奥が、わずかに痛んだ。痛みは怒りではない。懐かしさでもない。これは――「もしも」だ。


 もし、王妃が、母が生きていたなら。もし、叱られていたなら。もし、逃げ道を塞がれていたなら。


 その思考は、いつも途中で終わる。終わらせる声が、彼の背後にあるからだ。


 聖女が笑う。「難しいことは考えなくていいのよ」


 彼は小さく息を吐く。


「……そうか」


 それだけ言って、踵を返す。


 帰れば、聖女がいる。温かい食事がある。肯定してくれる声がある。叱られない日々がある。


 それが、彼の選んだ人生だ。


 王妃は、子どもたちに囲まれながら余計な言葉を口にしない。勝ち誇らない。過去を裁かない。自分がしてきたのは、ただ国を止めなかったことだけだと知っている。


 そして王は、玉座に座りながら胸の奥で亡き王妃の声を聞く。


 ――王を叱る役目は、王に最も近い者が負う。


 その役目は途切れなかった。


 悪役令嬢と呼ばれた女が、王を叱ったからだ。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


この物語では、誰かを強く罰したり、明確な悪役を作ったりすることを意図的に避けています。王太子も、聖女も、王も、そして悪役令嬢と呼ばれた彼女も、それぞれに「そう振る舞う理由」がありました。間違いがあったとしても、それは人格ではなく、役割や環境の欠落に近いものだったと考えています。


作中で描きたかったのは、「才能があるかどうか」よりも、「叱られる位置に立てたかどうか」です。誰かを導く立場にある者ほど、肯定よりも制限を、優しさよりも現実を突きつけられる必要がある。けれどそれは、愛情がなければ成立しません。先代王妃が担っていた役割が空白になったとき、その穴は自然に別の場所へ移動していきました。


悪役令嬢は、何かを奪ったわけではありません。声高に主張したわけでもありません。ただ、止まりそうになったものを止めなかった。その結果として、人も信も、役割も集まってしまっただけです。「何もしなかったのに派手になる」という現象は、現実でも案外よく起きているのではないでしょうか。


一方で、王太子の行き着く先は、いわゆる“ざまぁ”ではありません。彼は罰せられず、飢えず、追い出されもしない。ただ、期待されなくなります。責任を求められなくなり、決断の場から外れていく。それは静かですが、取り返しのつかない喪失でもあります。もし王妃が生きていたなら、もし叱られていたなら、という「もしも」が最後まで消えない形で残るようにしました。


タイトルにある「叱る」という言葉も、強さの象徴ではなく、覚悟の象徴として置いています。叱るとは、嫌われる可能性を引き受けること。関係が壊れるかもしれない場所に、それでも立つこと。その役目を誰が担うのか、担えなくなったとき何が起きるのかを、物語として描けていれば幸いです。


最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

この物語が、読み終えたあとに少しだけ現実の見え方を変える一助になれば嬉しく思います。

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― 新着の感想 ―
聖女が最後まで元王太子を見捨てずに、何もしないヒモを優しく養い続けているのが印象的でした。 この手の話にありがちな王太子妃になりたがるタイプの聖女ではない、ただただ無垢で優しくて良くも悪くも包容力のあ…
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