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076:殴り合い・夫婦喧嘩・カーディガンの少女

「お、もしかして火里?」

「……?」

 夕刻の行燈館の軒先でじっと蟻の行列を眺めていた火里は、自分の名を呼ぶ聞き覚えのない声にふいと顔を上げた。

 目の前にいつの間にか一人の女性が立っていた。

 父母と同じくらいの年頃で、黒地にピンク色のラインが入ったジャージを身に着け、長い亜麻色の髪の毛が夕日を赤く反射してとても眩しかった。右肩に火里が一人くらいなら入れそうな大きなカバンを下げて仁王立ちするその姿に、普段から父母やたくさんの同居人たちから「知らない人に声をかけられたらすぐに大声を出すこと」と教えられていた火里だったが、初めて会うはずなのに彼女から不思議な既視感を覚え、ゆっくりと首を傾げることしかできなかった。

「おばちゃん、だれ?」

「クスクス、まあ覚えてないかー。火里がちーっさい頃に一回会っただけだもんなー」

 苦笑を浮かべ、女性は左腕で寝息を立てているカーディガンを着た小さな女の子をおいしょ、と抱えなおした。

「とりあえず、とーちゃんかかーちゃん呼んできてくれる?」

「う、うん」

 言われた通り行燈館の玄関をくぐり、厨房で夕飯の支度をしている母の元へ走る。そして幼児なりにつたない言葉選びで事情を説明すると、母は青い瞳を「えっ」と見開いて駆け出した。

「あ、アズサ!?」

「よーっす。ビャクちゃん久々ー。ユーちゃんまだ帰ってきてない感じ?」

「う、うん。もうすぐ戻ると思うけど……と、とりあえず上がって?」

「連絡なしで来て悪いねー」

「それは良いんだけど……いや、私は良いけど、大丈夫なの?」

「大丈夫か大丈夫じゃないかで言ったら、たぶん大丈夫じゃない」

「だ、だよね……」

「まあ後でなんやかんや言われたら全部あたしのせいってことにしていいからさ」

 言って一呼吸置き、女性――伊巻梓はあっけらかんと言い放った。


「夫婦喧嘩してきたから一晩泊めて☆」



          * * *



「旦那さんは無事なの!?」

「竜胆先輩大丈夫ですの!?」

「竜胆さん、ちゃんと五体満足……?」

「あんたら揃いも揃ってあたしを何だと思ってんのよ」

 ビャクから連絡を受けて早めに帰宅した裕、押っ取り刀で駆け付けた白羽と真奈は異口同音に竜胆の心配を口にする。それに対し、道中で買ってきた手土産らしき缶ビールの蓋をさっそく開けながら梓が据わった目で返す。

「いや、あの人の性格的に夫婦喧嘩しても殴り合いにはならないのは目に見えてるから、一方的に殴られたんじゃないかと心配で心配で」

「だからなんで我が家の夫婦喧嘩=あたしからの一方的な暴力だと思われてんのよ。普通に口論よ」

「いえ梓お姉さま、学生時代にあなたがユウ兄さまにしてきた仕打ちを省みてから発言なさってください」

「ユッくんはユッくんでどうして無事に卒業できたのか不思議なくらい……」

「おやおやあ?」

 わざとらしく目を泳がせながらぐいっと缶ビールを煽り、中身を飲み干す。母と兄とは違い酒に強くはないタチであるはずなのにその無茶な飲みっぷりから、その場の全員が彼女の荒れ様を察してしまい息を呑んだ。

 ちなみに、火里と梓の娘――葉月は、白羽が連れてきた青雫と緋真とまとめて紫が面倒を見ている。元々大学進学を機に行燈館を出て一人暮らしを始めた紫だったが、事情を話したら二つ返事で駆け付けた。


「小さい子供特有の甘い匂いのお腹あああああああ!!」


 大学の課題で相当ストレスがたまっていたらしい紫が到着と同時にそのような奇声を発し四人をまとめて風呂に連れて行ったのを見て、選択を誤ったかもしれないと大人たちは後悔したが、それはともかく。

「それで、何があったの……?」

 さりげなく缶ビールを梓から遠ざけ代わりに水の入ったコップを差し出しながらビャクが尋ねる。

「いやあ、悪いのはあたしなんだけどさあ……」

 悪戯を見咎められた悪童のようにぽりぽりと頭を掻き、梓はコップの水を口にする。

「去年から香宮補佐んとこの長男の修行に付き合ってんだけど。昨日、その指導方針の打ち合わせで本家ともちょいと話が盛り上がって、夕飯をご馳走になって帰ったのよ」

「あら、楓のご飯はちょっと羨ましいですわね」

「うん、めっちゃ美味かった。たださあ、予定になかった食事会だったから、その……うっかり竜胆くんに連絡するの忘れちゃって……」

「あー」

 事態の流れを察した裕は思わず声を漏らす。

 梓は稀にこのようなポカをやらかすことが昔からあったのだ。

「帰ったら竜胆くん、あたしの分のご飯作って待ってて……やっちまったあってすぐに謝ったんだけど……その……」

 はあ、と梓は深い溜息を吐き、天井を見上げる。


「『大丈夫、楽しい飯だったんだろ』って」


「「「「…………」」」」

 どっちだ、とその場の全員が視線を交える。

「状況的には皮肉にも聞こえるけど?」

「いえユウ兄さま、竜胆先輩は言葉通り『楽しい食事会だったんだから連絡忘れても仕方がない』という意味で言ったんだと思いますわよ」

「声音にもよるんじゃないかな……? ビャクちゃん的にはどう思う……?」

「元妖狐(イヌ科)として答えるなら、自分の奥さん旦那さんが誰かと楽しく食事をして自分のことを忘れてたって、結構ショックかも? それが見目が良い異性ならなおさら……」

「で、でも悠希さん……あの男の奥さんと梓お姉さまは親しい間柄ですわよ?」

「それとこれとは話が別で――」

「んで」

 こそこそと話し合う四人に割り入るように、梓が聞いたことがない情けなく低い声を発した。

「あたしもうっかり声荒げちゃったわけよ。『竜胆くんはどうしてこういう場面でちゃんと怒ってくれないの』『瑠依にはしっかり説教する癖に』って」

「あちゃー」

「関係ないお馬鹿さんに流れ弾が行ってて草ですわ」

「アズサの気性の悪いところ出ちゃったねー」

「んー……」

 へにょへにょと梓は崩れ落ち、幼子のように真奈の膝へと頬を摺り寄せる。それを真奈は苦笑しながら受け入れ、頭を静かに撫でた。

「梓ちゃん、悪いことは悪いってはっきり言ってもらいたいタイプだもんね……」

「うん……だから、どう返したらいいか困ってる竜胆くん見てさらに気が立っちゃって……。んで今朝、勢いのまま飛び出してきちゃった」

「よしよし……それは確かに梓ちゃんが悪いねー……」

「うん……一日葉月連れてクールダウンがてらぶらぶらしてたら、思わずこっち来ちゃったけど、ちゃんと明日になったら帰って謝る……」

「うんうん、竜胆さんに連絡できる……?」

「白羽が代わりにやっておきましょうか?」

「…………。ううん、自分でやる」

 一瞬言葉に詰まりかけた梓だったが、意を決したように真奈の膝枕から起き上がる。しかしそれを横目に、裕が「いや」と首を振った。

「その必要はないかも」

「へ?」


「こ、こんばんはー!」


「……っ」

 今この場で聞こえるはずのない声に、梓は思わず玄関の方を見る。日が暮れ、暗くなった窓の外にうっすらと見覚えのあるワインレッドの自家用車が停まっているのが見えた。

「はーい」

 ビャクがにこりと微笑みながら玄関へと向かう。そして二言三言交わすと、案の定、ガタイのいい長身の男がおずおずと行燈館の居間へと通されてきた。

「竜胆くん!?」

「お、おう。迎えに来たぞ」

 梓はその場の四人の顔を順に見渡すも、全員が首を横に振る。

「さっきの今で連絡入れて来れる距離じゃないだろ」

「梓お姉さまが出て行ってからずっと探してたってことじゃないんですの?」

「うっ……」

「とりあえずアズサの無事が確認できたことだし、リンドウを駐車場に案内してくるね」

「え、いや、その、すぐに帰ろうと……あんまり長居しても悪いっつーか」

「ダメでーす。梓ちゃんは明日帰る予定なんだから……」

 彼女にしては珍しくあたふたとしている梓を真奈が後ろから抱き留め、さらにビャクと裕が竜胆を連れ出して車を移動させる。その様子を眺めながら、白羽はくいとコップの水を一口飲んだ。

「こんな珍しい客人をここの方々が見逃すわけないじゃありませんの」

「うぐぅ……」

「別に仲直りに立ち会おうとか無粋なことはするつもりはありませんがね、今日のところは大人しく酒の肴になるべきではありませんの?」


「お風呂あがりましたー! 竜胆おじさまの匂いがします!!」


 さらに奥の風呂場から子供四人の入浴を済ませた紫の声が響き、どたどたとが乱入してくる。彼女は目敏く竜胆の存在を嗅ぎ付け、駐車場に向かった彼を待ち受ける態勢を整えた。

 場はまさに混沌を極め、かつて梓たちが月波学園に通っていた頃を髣髴とさせた。

「……わかった、わかったわよ! こうなったら何でも受けて立つわよ! なんなら目の前でべろちゅーでもしてやろうか!?」

「いえ、それはいりませんわ」

 半ばやけくそになって吠える梓と、半目で呆れかえる白羽。

 さらには騒ぎを聞きつけた下宿生たちも何事かとわらわらと自室から溢れ出て、この日は予期せぬ長い夜になったのだった。

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