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071:顔役・指輪・動物

 梓は手元の作業を止めず、溜息混じりに愚痴をこぼしていた。

「でさー、ほんとあの教頭(ハゲ)ムカつくからさ、そろそろいっぺん出るとこ出てステゴロで相手すべきかなって思うんだけど」

「……その話、その作業しながらするのやめないか?」

「え?」

 小首をかしげ、隣で使い終わった食器をスポンジで洗っていた竜胆に視線を向ける。

 手元には使い込まれて若干刃幅が細くなってきている包丁が握られ、刃に砥石が当てられていた。

 シャーシャーと小気味いい音は止まらず、梓は「うーん」と少し考える。

「刃物を研ぐって、実は刃を滑らかにしてるんじゃないんだよね。逆に砥石でギザギザをつけてんの。鋸みたいにね。それが細かく均一であればあるほど綺麗に切れて――」

「研磨の雑学を披露してくれって話でもない! 上司の不満を愚痴りながら刃物を研いでる絵面が怖いんだ! ついでに雑学のせいで恐怖が二割増しだ……!」

「えー」

 肩を竦め、蛇口をひねって包丁を軽く水洗いする。そして刃に対し垂直方向に指の腹で研ぎ具合を確認するとキッチンペーパーで水気を拭い、流し台の収納スペースへ片付けた。

「他の話題って言っても、一般的な家庭で夫婦ってどんな会話をしてるのかイマイチよく分かんないのよねえ。実家じゃ父様も母様も喋らないし」

「……瀧宮家って、その、そんななのか?」

「いや、母様が喋れないのよ。だから普段の意思疎通は手話と術式でやりとりしてるんだけど、手話はともかく術式で何話してるかまでは分からないしね」

「そ、そうなのか」

 竜胆は曖昧に頷きながら、そう言えば瀧宮家に挨拶に行った際も義母となる女性はにこにこと笑っているだけで一言も発さなかったなと思い出す。梓の父親である前当主も終始難しい表情をして何度か相槌を打つ程度で二言三言程度しか会話が成り立たず、何かの拷問でも受けている気分だった。幸いにも同席していた現当主で梓の妹の白羽が顔役としてその場を取り仕切っていたため沈黙することなく滞りなく挨拶は済んだが、後日二人が「父様の機嫌がよくてびっくりした」と口を揃えた時は困惑したものだ。

 竜胆の洗い終えた食器に梓が手を伸ばし、布巾で拭って食器棚に並べていく。

 その左手の薬指にはめられた鈍色に光る指輪に、竜胆は無意識に頬が緩んだ。

 入籍してそろそろ一年を過ぎるが、最初の頃は水仕事のたびに外していた指輪も次第にくすんでいき、「もういいか」とつけっぱなしで家事をするようになっていた。そのことが逆に嬉しくて、気付くと視線で追いかけてしまっていた。

「竜胆くん、そっち終わった?」

「あ、ああ!」

 振り返った梓に慌て、最後一枚の皿についた洗剤を洗い流し、そのまま布巾で拭う。それを梓に手渡すと「ありがと」とほほ笑んだ。

「そういやさっきの話で思い出したんだけどさー」

「え?」

 リビングに戻り、二人掛けのソファに腰かけ梓がテレビのリモコンを弄りながら話を続ける。

「この前買い物してたら、久々に悠希ちゃんと会ったんだけどさ」

「ああ、そう言えば俺も最近は会ってないな」

 一時は彼女の双子の弟妹関係で毎日のように顔を合わせていたが、彼らが卒業してからはなかなかそういった機会もなかった。旦那の方とは裏の仕事柄、今でも会うことも多いのだが。

「かなりお喋り盛り上がっちゃった。向こうも向こうで話したいこといっぱいあったらしくって、話足りないから今度お茶しようぜって」

「へえ、いいな。あっちは病院で忙しそうだが、可能ならがっつり時間作って会ってくればいい」

「うん。んでちょっと笑っちゃったんだけどさ。悠希ちゃんがケータイの写真フォルダみせてくれたんだけど、何だと思う?」

「? なんだろう。流石に仕事関係の写真じゃないと思うが……」

「疾くんの秘蔵写真フォルダ」

「ある意味仕事の写真よりヤバイやつじゃねえか!?」

 思わず変な声が出た。

「起き抜けのちょっとぼーっとしてるところとか、ベストショットがたくさん詰まってたわ。しかもほぼ毎日更新されてんの。せっかく撮ったのに楓ちゃんもフージュも微妙な顔して見てくれないからって溜まりに溜まってたわ」

「それは俺もあんまり知りたくなかったな……!」

 高校時代の下準備から数えて数年、世界を跨いで勢力を伸ばしていたとある魔術組織との戦争時代において、個人情報を徹底的に秘匿していた疾を知る竜胆としては信じられない事態だった。今だって最大の敵がいなくなっただけで充分敵が多い彼が、よくそのフォルダの存在を許しているなと嘆息する。

「あとその時にちらっと聞いたんだけどさ」

 その時を思い出してクスクスと笑いながら、梓は更なる爆弾を投下する。


「再来年、香宮の一番上の子が入学してくるってさ」


「……は?」

 何を言っているのか理解できなかった。

 香宮とは、竜胆たちが住む紅晴市の術者たちを統べる一族であるということは理解している。そしてその当主とは疾の妹であり、竜胆もその縁で何度か顔を合わせたことがあった。

 しかし。

「入学って、中学に!? は!? いつの間に子供生まれたんだ!? しかも上の子ってことは下にもいんの!?」

「5歳と3歳だって」

「三人も!?」

「ね、びっくりだよね。まああの人たちが本気で隠してたらあたしらも気付かないよなあって」

「それでも中学入学直前まで気付かないのはどうなんだ……!?」

「悠希ちゃんとこに生まれた時も――おっと」

「待て!?」

 更に上を行く発言に竜胆は反射的に掠れた声が出た。

「悠希ンとこって、疾に子供!?」

「これはあたしのうっかりねー。まあ香宮についてあたしにバラした時点でそのうち芋蔓式にバレるからいいか。うん、悠希ちゃんトコも上から9、7、4だって」

「そっちも三人!? ……いや待て、末が4歳ってことは双子の中学時代と重なるだろ!? どういうことだ!? 俺知らないが!?」

「あっははー、でもよく思い出して竜胆くん。あの頃悠希ちゃんは双子について毎日のように謝りに来てたけど、竜胆くんが同席したのは一年生の初め頃と二年生の途中からだったはずよ。つまり悠希ちゃんの妊娠期間はあたししか会ってないの」

「い、言われてみれば……!? 普通にショックつーか、大きくなったお腹抱えて謝りに来てたのか……」

 それはそれでドン引きである。

 いや、さらに思い返せば双子の二年生時は三年間の中で一番大人しかった……気がする。だから竜胆も同席まではしなかった。あくまで比較的に、ではあるが。

「ま、そんなわけで」

「へ?」

 とん、と竜胆の肩を押す。

 ほとんど力のこもっていない、いたずら程度に小突いた程度だったが、何故かそれだけで竜胆の大柄な体はこてんとソファに横倒しになった。完全に無意識なのだろうが、犬が降参を表すような姿勢に梓は意地の悪い笑みを浮かべる。

「えっと……梓?」

「んー?」

 よっこいせ、と馬乗りになる梓。そして触れるか触れないかというむず痒い手つきでそっと竜胆の首筋を撫でた。ぞわりと思わず背筋に不思議な感覚が奔る。

「竜胆くん、あたしが指輪したまま家事してるのでほっこり満足してるみたいだけどさ」

「んぐっ……!?」

 まさかバレているとは思わず、表情をくしゃりと歪める。勘の良さが野生動物以上だ。

「旦那さんとして、竜胆くんにはもう一歩踏み込んでもらおうかな」

「えっ、と……!」

「というわけで子供つくろうぜ☆」

「情緒は!?」

「嫌なの?」

「せ、せめて寝室でお願いします……!?」



          * * *



 週明けの月曜日、抜け殻のような状態で仕事をする竜胆の姿が目撃されたという。

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