060:茶番劇・ジーンズ・辰砂
紅晴市、住宅街。
街全体が徐々に目を覚まし始めた、まだ早い頃合い。決して立派な趣とは言い難い年季の入ったアパートの前で、長身にがっしりとした体つきの青年がそわそわと立ち尽くしていた。
「ここ……で、いいんだよな……」
ポケットから取り出した携帯端末に表示された文面、住所、そして地図アプリによるナビは確かにここだと示している。事前に連絡のあった時刻よりも5分ほど早く着いたが、アパート前の駐車場には見覚えのあるワインレッドカラーの車が停められている。ここで間違いはない。
――ピピピッ
「あっと……」
設定していたアラームが鳴る。万一遅れそうなときの為に5分前に設定していたのを忘れていた。
その時、がちゃりと扉が開く音が聞こえた。その音に思わず背筋を伸ばして待っていると、続いてカンカンと鉄階段を踏みしめる甲高い音が響く。
「お……きっちり5分前集合。さっすがあ」
「まあ……それくらいは」
「それができない奴もたまにいるのよねえ」
「……瑠依に関しては諦めてくれ」
青年は肩を竦める――ふりをしながら声の主から思わず視線を外す。
オーバーサイズのシャツを着崩してオフショルダー風にし、ジーンズの七分丈のパンツを合わせた小柄な女性。色の薄い亜麻色の髪と黒いマスクと相まって、着る者によってはヤンチャな雰囲気を漂わせるところではあるが、それがあまりにも似合いすぎていた。動揺のあまり、事前にある程度用意していた言葉がまるっと飛んでしまい、思わず瑠依が口から滑り出てしまった。
女性は切れ長の目をにこりと細め、手に持っていたキーを弄りながら車へと歩み寄る。
「それじゃあ今日はよろしくね、竜胆君」
「あ、ああ。分かった。瀧宮先生」
「んー?」
「……分かった、……梓」
「よろしい」
* * *
月波学園中等部で教鞭をとっていた梓が紅晴市の中学校へ赴任して、6年になる。
元々月波学園は街を含む土地全体の特異性もあり、「関係者」以外の雇用は行っていない。また抱える学生数は多いとは言え、そこから自分たちだけで賄えるだけの人材育成も労力がかかるため、基本的には学園に就職した者はよっぽどのことがない限り外部への転勤などほぼない終身雇用に近い。
そんな中、梓の転勤の話が上がった時は職員室も事務室も蜂の巣をつついたような騒ぎだった。
生徒からの人望も篤く、教師間での人間関係も良好。さらに街の守護を担う家柄の出であり、術者としては引退しているもののその拳一つで数多の人外どもを平たく均せる実力を持つ教師を外部に送り出すなどどういうことか。
そんな声が各所から上がったところで、学園の最高現場責任者である大河内善右衛門博康と梓本人からの事情説明があり、騒動は一応の終息を見せた。
曰く、3年後に入学してくるであろう双子の問題児対策の人材がどうしても必要である。
曰く、異能を抱える街の術者とも縁遠からぬ血筋故、街の外に入学させるわけにもいかない。
曰く、このまま力と精神の制御を学べずに入学、卒業させてしまうと将来どうなるか分からない。
そんな嘆願半分、ヤケクソ半分の要請があったことを聞いた梓の同僚たちは「あー……」と振り上げていた拳をしおしおと解いたのだった。
力が制御できない異能者や妖の子供たちの教育は自分たちでさえ気を遣っているところである。月波学園でさえそうなのだから、表向きにはごく普通の教育機関である他校からしたら、藁にもすがる思いだったのだろう。
結果、梓は件の双子が入学する前に紅晴市へ転勤し、しっかりと地盤を固めた後に迎え撃つために月波市を離れたのだった。
そしてつい先月、噂に違わぬ問題児だった双子が無事(?)に卒業していった祝杯という名目で、梓と竜胆は集まっていた。
「いやあ、嵐みたいな3年だったわねえ」
「本当にな……何度備品修理の書類出したか思い出せねえよ」
「竜胆君には本当にお世話になったわ」
「……俺が校務員としてあの学校にいなかったらどうなっていたことか」
竜胆は元々は冥府に籍を置く鬼狩りの半妖である。しかし彼の契約者である鬼狩り劣等生が今も現世でのほほんと暮らしているため、竜胆の生活拠点も現世に存在する。一時は契約者と共に学校にも通っていたが、その時から築いていた社会的地位の維持のため、卒業後は普通に手に職をつけて身銭を稼いでいた。
その勤務先というのが問題児入学予定の学区の校務員だったということは、流石に偶然ではないだろうなと竜胆は今にして思う。
「まあ何にせよお疲れさん。新しい学年も落ち着いたことだし、今日は遊ぶぞー!」
言いながら、梓はハンドルを軽快に切った。
今日のコース計画は、この3年間忙しくて行けなかったところを全て制覇するつもりでいたらしい梓の希望によるものだった。しかしあれこれやりたいことが多すぎてぎゅうぎゅう詰めの計画になっていたため、竜胆がそれとなく諫めてやっと現実的なスケジュールに落ち着いた。
わくわくしながら車を運転する梓を助手席から見つめ、そんなことを思い出して竜胆は思わず笑みを溢した。
* * *
「いやあ、結構面白かったね」
「だな。まさかあんな茶番劇みたいなタイトルとポスターで本格ミステリーだとは思わなかったが……」
「辰砂石をあんなトリックに使うなんてねー」
夕刻。
午前中に動物園、昼食に少し前に話題になった海辺の定食屋へ行き市街地に戻り、ぽてぽてとウインドウショッピングで時間をつぶした後に映画鑑賞という怒涛のスケジュールをこなした後、二人は一度車をアパートに置きに住宅街を目指していた。
しかし休日とは言え時間も時間である。帰宅ラッシュにつかまり、思うように車は進まずにいた。だがこれも竜胆の助言により織り込み済み。夜に予約した店へはバスで向かう予定だが、かなりの余裕を持たせてある。
「いやあ、竜胆様様だねえ」
言いながら梓は助手席で伸びをする。
流石に日中はしゃぎすぎたのか、映画を見終わったあたりで欠伸を浮かべていたため帰りの運転は竜胆が代わっていた。
「何がだ?」
「あたしの計画だったら絶対間に合っ なかったもん」
その時、ザザ――、と梓の声にノイズが混じった。
思わず運転する横目で梓を見ると、マスクの上から手を当て、「ん、ん」と咳払いをした。
「……ちょっとごめん、煙くなるかも」
「え?」
言うと、梓は膝に乗せていたポーチに手を突っ込み、中身を漁る。
そして中から取り出したのは、煙草の箱と、古びたジッポライターだった。
「…………」
「……ふう……」
思いがけない携帯品に呆気にとられる竜胆を傍目に、梓は手馴れた所作でマスクをずらして煙草を咥え、ジッポをこすって火をつけて一服煙を吸う。
瞬間、喫煙所から帰ってきた同僚が纏う臭いとは全く別の、煎じた薬草や茶葉を彷彿とさせる不思議な香りが車内に広がった。
「煙草、じゃないのか」
「うん、そう。見た目は煙草だけどね」
言いながら梓は苦笑を浮かべ、もう一口煙を吸い、吐く。
「ようやくコレに効きそうな配合の薬草が見つかってね。本当は吸引機でもいいんだけど、持ち運びに不便だし、周りに気を遣わせちゃうから。それならこの見た目の方が楽なんだよね。ほら、傷跡もほとんど見えなくなったでしょ」
「そう、だな」
笑いながら梓は喉元を指さす。
竜胆が初めて会った頃、梓は夏冬関係なく首元を隠すインナーを身に着けていた。ある時「暑くないのか」と問うと、梓は何でもないように襟を捲り、喉元に広がる火傷痕を見せた。
それを見たのはその時だけだった。しかし首を絞めながら灼いたような歪な傷跡はどうしようもなく不気味で――吐き気を催すほど聖浄な気配に満ちていたのを覚えている。
曰く、聖痕なのだという。
それにより梓はうまく言霊を紡げなくなり、術者としては引退することとなったという。
世界を滅ぼす役目を与えられた聖獣を、兄の力を借りて討ち取った――討ち取ってしまった代償の聖痕。それがようやく、解決の糸口に辿り着いたということだ。
「…………」
けれど、竜胆は諸手を挙げて喜ぶことができなかった。
梓がこの街にやって来たのは問題児の双子へ対応するためだ。その双子が無事力と精神を制御するすべを身に着け卒業した。さらに術者として支障となっていた聖痕も薄れつつある。
それはすなわち、彼女がこの街を離れる時が近付いてきたということだ。
「…………」
最初はあの瀧宮羽黒の妹で、瀧宮白羽の姉ということで警戒していた。
しかし破天荒ながらも距離の詰め方の上手い彼女に手玉に取られ、気付けば振り回されるような付き合いになった。
それからそう時間が経たずに例の双子が入学し、毎日が戦争のような1年目、冷戦のような2年目を経て、馬鹿騒ぎな毎日の3年目が過ぎ去った。
あっという間――竜胆の、人間と比べあまりにも長い生を念頭においてもなお、あっという間の6年間だった。これほど濃密で、慌ただしく、馬鹿馬鹿しい期間は……いや、思い返すと瑠依の受験期もこれくらいだったかもしれないが、しかしその時以上に――楽しい毎日だった。
「……いや、だなあ……」
だからそんな日が終わるかもしれないなんて、そんなことを考えただけで、思わずそんな言葉が零れた。
「あ、ごめん。煙いよね」
しかし梓はそう口にして携帯灰皿を取り出して咥えていた煙草の火を消した。
慌てて竜胆は「違う」と首を振った。
「その煙草が嫌ってわけじゃなくってだな、あー、その……」
「ん?」
「…………。今日が終わるのが、嫌だなあ、って……」
とっさに絞り出した言い訳は、自分が思っていたよりも情けなく、児戯に満ちた、ある種の本心だった。
そんな竜胆の心の内を知ってか知らずか、何となく察せられてしまった気がするが、梓はにんまりと口角を吊り上げた。
「嬉しいこと言ってくれるじゃーん。だいじょーぶだいじょーぶ、今日が終わっても、またこうやって遊びに行こうぜ。あたしが無茶な計画建てて、竜胆君が調整して、そんでたまには常葉ちゃんとか、悠希ちゃんトコとか、まあ、たまーに瑠依のおバカさんも誘ったりして」
「俺の負担がデカい気がするなあそのメンツ……」
「でもきっと楽しいわよ」
「……楽しいだろうけどな」
話しながら、数分前まで渋滞していた道の流れはスムーズになり、車載カーナビは梓の自宅が近付いてきたことを示していた。
この時間なら余裕をもって店まで行けそうだ。
竜胆は自分でも気付かないうちに、頬を緩めた。
もう少しだけ、楽しい休日は続く。





