056:ナス・深海・N(ヌル)
冥府にも海はある。
それに付随した岩礁や岬、なんなら砂浜といった地形も存在する。
しかし当然ながら、残念ながら、特に夏の時期に連想されるような海というものは存在しない。
元来、海とは畏ろしいものである。
どこまでも深く、深く、見通すことのできない水底。
一見穏やかでありながら一たび気を緩めると一瞬にして呑み込んでしまう波。
漁を生業とする者さえ見たことのない、時折深海の底から引き上げられる奇怪な生命。
それらに人々は怯え、畏れ、想像し、怪異を産み出してきた。
五行においても水とは陰に類するともされる。
海外にも目を向けると、やはり海にまつわる怪異というものは仄暗い事例が多い。
では冥府における海とは何か?
水辺は此岸と彼岸の境目であり、水の中とは彼岸の領域であるとされる。
ならば彼岸から見た水の向こう側とは此岸にあたるのか?
当然ながら、そんな単純なに話ではない。
彼岸の水の向こう側は、此岸から見た彼岸よりも昏く深い「陰」の領域である。
例え日頃から鬼を狩ろうと、魂を導く死の神であろうと、亡者の行く末を厳格に管理する役人であろうと、そこに近付く者などいない。
「これより、冥府三局合同による冥海遠泳訓練を始める!!」
『『『いやだああああああああああああああああああああッ!?!?!?』』』
冥府のとある砂浜に集められた鬼狩り、死神、役人たちから悲鳴が上がった。
「正気ですかフレア様!? こんな何がいるか分からない茄子の皮みたいな色した海を泳げと!?」
「あら、瑠依。私が与太話をしにこんなところにあなたたちを連れてきたとでも思っているの? ここ最近の鬼狩りたちは少々弛んできていると思っていたの。まだ正式に鬼狩にもなっていない瀧宮梓に一方的に蹂躙されることを『訓練』と称すあなたたちよりもよっぽど真っ当な感性を持っている自負があるわ。そろそろ気を引き締め直しなさい」
「それ俺たちが原因じゃないですよね帰りたい!?」
「キシ補佐!? なんでウチらまで冥海訓練なんですか!?」
「ほう、ナツ。理由が分からないと? ここ二十年の死神局の人材は数だけは豊富だが、それでも往年の100年組のベテラン勢と比べると一人一人の練度は低い。時間と経験がいつかは解決する問題ではあろうが、場数を踏んで損することはあるまい。今回の訓練を通して肝っ玉を鍛えて来い」
「そんな無茶なっ!?」
「副長殿、質問をよろしいでしょうか!?」
「副長ではない。局長補佐だ。なんだ」
「局長補佐殿! 何故、事務内勤の我々まで遠泳訓練に参加するのでしょうか!?」
「確かに貴様らに与えられた任には不要な訓練であろう。だが今日ここに集められたのは常日頃から業務にミスや遅延が見られる者たちだ。言わばこれは刑罰である。拒否できると思うな愚か者」
「そんな時代錯誤な!?」
各所属の上司から一方的に下された言にそれぞれさらに不平不満が溢れる。やいのやいのと蜂の巣を突いたよりも騒がしい。
それを受け、代表して地獄局長補佐――土方歳三義豊が一歩前に出た。
「何か勘違いをしているようだが、そもそも貴様らは地獄に堕とすほどではなかったが要注意と見なされた者たちだ。よって苦労をすることこそ貴様らの責務である! 分かったらとっとと着替えて来い!!」
『『『ひえぇぇぇぇっ!?』』』
かつて現世において鬼と称された土方の怒号に、集められた冥府三局職員たちは蜘蛛の子を散らすように砂浜を駆け、即席で用意された更衣室へと逃げ込んだのだった。
* * *
「うわぁ……生温くて気持ち悪い……」
水練用の訓練着、というか競泳水着に着替えたナツは初めて踏み入れた冥府の海に顔をしかめた。思い返せば海水浴など生前以来だ。死神になる前は兄の修二に憑いて行って夏休みの勉強会兼バカンスに行ったことはあるが、あの時は既に肉体を失っていたため海水に触れるという感覚はなかった。
それでも、現世の海はこれほど絶妙に不快なものではなかったはずだ。
人肌ほどの水温で、波やうねりがじっとりと手足に纏わりついてくるような感覚だった。
「これ、本当に泳いでいいのか……?」
「つーかゴールどこ?」
周囲の鬼狩りや死神、役人もイヤな顔をしながら渋々冥海へと浸かっていく。砂浜では土方が何故か帯刀して仁王立ちしているため逃げることもできない。
「全員位置についたようだな。改めて説明する!」
上空から声がした。
顔を上げると、空中に鎌を突き刺しその柄に足をかけたキシが拡声器片手に全員を見下ろしていた。
「貴様らにはこれから時間制限なし、ゴールなしで我々が良しとするまで指定のコースを泳ぎ続けてもらう!」
「はい!?」
衝撃の言葉に思わず声が上ずる。
まさかゴールどころか時間すら開示されないとは思わなかった。
「途中の海上ではいくつか給水を兼ねた休憩地点は用意してあるが、それ以外で止まることは許さん! 休憩は一度に五分までだ!」
「そんな横暴な!?」
「なおチンタラ泳いでいる者は地獄局長補佐が容赦なくしばいて回るから覚悟しておくように!」
「げぇっ!?」
思わず視線が、特に地獄局所属の役人たちの目が砂浜の土方へと向けられる。
刀を置いて久しいと語っていた土方が、いつかの瀧宮梓と朧の決闘を境に再び剣の修業に力を入れ始めたのは有名な話だった。まさか訓練ごときで斬り殺されることはないだろうが、その寸前までしごかれ続ける可能性は十分にある。
中には開始の合図も待たずに少しでも距離を稼ごうと既に泳ぎ始める者も現れだした。
「ほう、自ら泳ぎ出すとは殊勝な心掛けだ! それでは、遠泳訓練を開始せよ!」
号令と共に、それまで躊躇していた者たちも含めて全員が泳ぎ出す。
ナツも例にもれず、普通にしばかれるのは嫌なので必死に手足を動かす。
「しょっぱ……!」
数十年ぶりに感じた海水の塩気に顔を歪ませる。
冥府でも海は海らしい。
「というか、これ……」
泳ぎ始めて初めて分かったことが一つあった。
この海水――重い。
「ぷはぁっ!」
真水よりも浮力が大きいはずなのに、意識して浮かぼうとしなければ顔を上げることもままならない、異質な重さを感じる。まるで海そのものが深みへと引き摺り込もうとしているかのようだった。
それを感じているのはナツだけではないようで、始まる前は「自分何キロでも泳げますけど?」といった風な顔をしていた鬼狩りも無様に手足をじたばたさせるだけであまり前へ進んでいないようだった。
「きつい、きついってコレ……!」
元々海に馴染みがそれほどあるわけでもなく、生前も夏のプールの授業くらいでしか泳いだことはなかった。その後は死神としての最低限の基礎体力作りとして水練は受けたが、ほぼほぼ水泳初心者にこの遠泳訓練はかなり厳しいものを感じた。
「あれ?」
と、近くを泳いでいた鬼狩りか役人(顔に見覚えがなかったのでどちらかだろう)が泳ぎながら振り向いてぽつりと呟く。
「土方補佐、どうやってここまで来るんだ?」
「え?」
釣られてナツも振り返る。
するといつの間にか結構泳いでいたらしく、砂浜から遠く離れた地点にナツたちはいた。これが海水浴場だったら監視員が全力で止めに来る距離だ。
その砂浜の中央に、土方がじっと帯刀したまま腕組みをしていた。
「土方補佐って魔力使えないんだよな? ボートもなしにどうやってここまで来るんだ?」
「確かに。あの土方歳三が魔術まで使えたら函館戦争の歴史も違う結果になってたはずだよな」
「なんだ。じゃあしばいて回るってただの脅しか。それならもうちょい緩めに泳ぐか」
口々に役人たちがそう呟き合い、徐々に速度を落としていく。
流石は仕事のミスと怠慢で罰ゲームを受ける羽目になっただけのことはある。やる気が感じられない。
しかしそんな中、ナツは泳ぐ速度を緩めるどころかむしろ手足に力をこめ直す。
土方の人となりは歴史の教科書程度の知識しかない。しかしこの遠泳訓練の監視をしているのは他にもいる。
ナツも良く知るキシという死神局ナンバー2――苛烈という概念が黒衣と髑髏を身に纏って鎌を携えていると称される男だ。
やると言ったら絶対にやる。
少しでも距離を稼がなくてはいけない。
「さて、いい具合にだらけてきた奴らがいるようだな」
しばし間を挟み、上空のキシから拡声器で声が降り注いだ。
「土方補佐。よろしく頼む」
「へ?」
呑気に体力を温存しながらちまちま泳いでいた役人たちが間抜け面と共に振り返る。
すると土方は心得たとばかりに頷き――海面に足を置いてスタスタと歩き出した。
『『『はええええええええ!?』』』
これには役人だけでなく、何かあるだろうと踏んでいた鬼狩りや死神たちも目を剥いた。
何を当たり前のように海を地面のように闊歩しているんだあの男は。
「確かに私は生前、魔力霊力の類を使えぬ徒人であった。だが冥府に堕ちて百数十年経っているのだ。そこから何も成長していないと思うな、愚か者共!」
ぶぅん、と鞘に収められた刀が降り抜かれる。
そして最後尾にいた一団のド頭を老若男女平等に一発ずつぶち抜いて行った。
『『『ぎゃあああああああああああああああ!?!?!?』』』
「次は十分後に再びしばき倒す。チンタラ泳いでいると二発目を喰らう羽目になるぞ! さっさと泳げ!!」
『『『うひぃぃぃぃぃぃ!?』』』
これにはたまらず、脳天に気合の入った一発をもらい眩暈で沈みかけた者たちもすぐに意識を引き戻し、再び泳ぎ始める。さらに最後尾集団だけでなく離れたところを泳いでいたナツも悲鳴を上げながら泳ぐ速度を上げた。
「さて……」
鞘に収めたままの刀を肩に担ぎ、土方はじっと冥海を見つめる。
「標的は未だ現れず、か。奴らの体力が尽きるまでに出てきてもらわねば困るのだがな」
* * *
どれほど泳ぎ続けたか、ナツはもう分からなくなってきた。
振り返るとスタート地点の砂浜は見えなくなっていたため距離感も分からない。
「はーい、お水飲み終わったら容器は回収しますのでこちらへー」
「……はあ……はあ……せ、セイ……?」
「あ、ナツ! はい、お水どーぞ」
「うん……ありがとう……!」
ようやく辿り着いた休憩ポイントの筏の上から白い衣をまとった女性が飲み水を配っていた。知り合い、というか現在浄土管理室に天使として出向している元死神のセイだった。疲れ切った精神から、優しく声をかけながら水を手渡してくる彼女がガチの天使に見えた。
筏に上半身を預け、容器に口をつける。泳いでいる時に何度も口に海水が這入ってきたため喉がカラカラだった。
「……ぷぅ。はあ、いくらか落ち着いた……」
「大変だねー」
「今日ばかりはセイが羨ましいわ……」
彼女は組織として腐りきっていた浄土管理室の改変の為、死神局を始めとした冥府三局から送られた最初期のメンバーだった。
彼女自身は異動後しばらくして産休と育休に入ったため特別何かをしたわけではなかったが、その後の浄土管理室長崩御のごたごたには巻き込まれたため一時とても多忙にしていた記憶がある。
「まあおかげさまで今はこうして緩めの雑事に人手を割けるようになったけどねー」
「ウチは緩くもなんともないけどね……!」
「がんばれー。あ、水どうぞー」
次々と休憩地点にやってくる遠泳参加者に水を配るセイ。
あんまり長居するのも邪魔になりそうだなと思い、ナツは既定の5分前ではあったが容器を返却して泳ぎ出すこととした。遠くの方で、遅れてしまった最後尾組の悲鳴も聞こえてきた。
「ご馳走様! セイ、行ってくるね」
「あ、はーい。容器回収するね。……あら?」
と、ナツから空になった容器を受け取りながらセイが首を傾げる。
「何だろう、アレ」
「ん?」
セイが見つめる先は最後尾の一団。悲鳴を上げながら追いかけてきているのだろう土方から逃げようと全力で泳いでいる――否、と気付く。
「え……? 土方補佐、どこ行ったの?」
最後尾一団の後ろに、本来追いかける役目の土方がいない。
ふと見上げると、上空から監視していたキシの姿もいつの間にか見えなくなっていた。
「何か……」
セイが呟く。
「何か、下から来る……!?」
「は……?」
ナツよりほんの僅かに高い視線から眺めていたセイが先に気付く。
闇より昏い冥府の海に、さらに黒く巨大な何かが底の底からせり上がって来ていた。
――ヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲォォォ……!
「きゃあっ!?」
「な、なに!?」
大波と共に海面から生えてきたのは、島。
否。
島と見間違うほど巨大な頭骨だった。
「あ、あれってまさか――あぶっ!?」
「セイ!?」
筏が波に飲まれ、セイが冥海に投げ出される。慌ててナツは近付き、沈まないよう彼女を抱きかかえながら足をばたつさせる。
「――ぷはぁ、ご、ごめん!」
「ううん! それより、アレって……!」
「ば、化け鯨!?」
「まさか、あの時の個体!?」
化け鯨――その名の通り、骨の姿をした鯨の怪異である。
20年ほど前に冥海から次元の狭間を突き破り、現世の海で座礁した際には自身に群がる怨霊が海域の魚類に憑依して大量の海女房を産み出してしまうという事件を起こしていた。
あの時は二人ともお互い認知していなかったが、たまたま近くにいたこともあり化け鯨の存在は記憶に深く刻まれていた。
「ま、まさかウチらを食べようってわけじゃないよね……?」
「ほらぁ!! やっぱこんなところで泳いでたらダメなんじゃん!! こちとら水着で丸腰ぞ!? キシ補佐の馬鹿ぁ!!」
「誰が馬鹿だ、誰が」
と、拡声器の声が上から聞こえた。
見上げると、先ほどまで姿を消していたキシが鬼狩局長フレアを連れて再び浮遊していた。
「貴様ら、全員そこから動くな。じっと浮かんでいろ」
突如として警告が発せられる。
海上のナツたちが頷く暇もなく、キシを中心に魔力の流れ、渦巻き始めた。
『――我が言霊に応えよ。汝は十矢の鏃なり』
ぱきん、と音を立ててキシの周囲に巨大な連弩が出現する。そこに番えられた巨大な槍の如き弓矢は一様に化け鯨へと向いていた。
「あの術式、穂波君の……!? いや、あっちがオリジナル!?」
「鬼狩局長殿、頼む」
「ええ」
キシが一歩下がると、代わりにフレアが連弩に触れる。
するとキン! と甲高い音を発しながら全十台の連弩をそれぞれ中心とした魔方陣が一瞬で浮かび上がった。
それを目の当たりに、ナツは息を呑む。
「な、何なのあの異常に精密な座標固定術式……!? しかも他人の錬成した魔導具に自分の式で上書き!? あの速度で!? そんなこと普通できる!?」
「そ、そんなにすごいの?」
「ウチの兄ちゃん並み……ううん、それ以上だよ!?」
しかもフレアの術者としての専門は厳密には魔術ではないと聞いたことがある。
つまり今目の前で披露してみせた異常な術の構築速度と術式演算は本気のそれではいということだ。
『――Drei ――Zwei ――Eins ――Null』
フレアのカウントダウンと共に魔方陣が光り輝き、引き絞られた弦から十本の槍が斉射される。魔術により物理法則まで振り切った槍は放物線を描くことなく真っ直ぐに化け鯨の頭骨へと突き刺さった。
――ヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲォォォッ!?
苦し気――というよりも、箪笥の角に小指をぶつけたように呻き声をあげる化け鯨。
一度巨大な頭骨を海面に叩きつけるようによろけたが、即座に海中へと逃れようと尾びれを大きく動かし始めた。
「潜るか。ふん、逃げられると思うなよ」
キシがむっつりとした表情を不器用に歪ませ、連弩の一台から伸びる一本の魔力の鎖をがしっと握りしめた。
鎖は真っ直ぐに化け鯨の頭骨まで続いており、石突までめり込んだ槍へと繋がっていた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
「嘘でしょ!?」
ナツがあんぐりと口を開ける。
島と誤認する大きさの化け鯨を鎖一本とその身一つで食い止めている。しかも完全に拮抗していた。どんな馬鹿力だとナツだけでなく周囲の鬼狩りや役人たちも呆然と眺めていることしかできない。
その時、ふっと鎖が緩む。
そして見上げても全貌が見えない巨大な化け鯨が――跳んだ。
「んなあ!?」
「ちょ、流石にアレが水面に叩きつけられたら余波で死ぬって!?」
ナツとセイは抱き合いながら悲鳴を上げる。しかし上空で文字通り高みから見ていたキシは不敵に笑う。
「ふん、潜ることができないなら浮上するしかあるまい! 土方補佐!!」
「承った」
とん、と小さな波紋が海面に浮かんだ。
それはすぐに化け鯨の起こした大波により呑み込まれたが、それを生み出した男――土方は海面を駆け抜け腰の刀を抜き放った。
「キエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!」
冥海を叩き割らんばかりの気合の絶叫。
それと同時に海面にいくつもの波紋が浮かび上がり、それらが波に呑まれる前に土方は化け鯨に肉薄する。
「イアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
瞬間、土方の姿がブレた。
否、ブレたとその場の全員の脳髄が錯覚した。
あまりにも素早い連続した踏み込みと共に土方は化け鯨の骨格を駆け回りながらその刀を振るう。
メキメキメキ……!!
巨木がへし折れるような不気味な異音が海上に響き渡る。
それを呆気にとられながら見ていたナツたちの目の前に、ぼとり、と大きな何かが落ちてきた。
「うわ!?」
「さ、サメ!? いや、シャチ!?」
化け鯨の巨体に感覚が麻痺していたが、それ一匹だけで立派なパニック映画が撮れそうなサイズの巨大シャチが雨あられと上空から降ってくる。それらは凶暴そうな見た目とは裏腹に、何かにおびえるかのように一目散に海中深くへと潜り、そしてあっという間に見えなくなった。
発生源はもちろん、土方により斬られ、砕かれた化け鯨だった。
「き、キシ補佐!? 何なんですかこれ!?」
ナツが悲鳴を上げるのと、化け鯨の最後の一塊が両断されたのはほぼ同時だった。
上空で肩を竦めながらキシが鼻で笑う。
「何、だと? 見てのとおり、貴様らを囮に使った化け鯨退治だ」
「信じられない!?」
途中からそんな気はしていたが、まさか本当にそうだと告げられると一周回って怒りすら湧いてこなかった。
「冥府の大海で長い年月をかけて陰気を喰らい続けたあの化け鯨は、放置するといつか現世に迷い出る可能性があった。アレが現世に出没した時の惨状は貴様らも見ただろう。それを防ぐため、いい具合の大きさに細切れにする必要があったのだが、なかなか補足できなくてな。そこで貴様らの遠泳訓練を餌に誘き出したというわけだ」
「事前に知らせろクソ上司!?」
「事前に知らせたら貴様らは参加せんだろう」
「当たり前じゃん!?」
誰が好き好んで鯨の餌になる物か。
「キシ補佐。作業が終わったのなら私は帰らせてもらうわ」
「ん、ああ。了解した。協力感謝する、鬼狩局長殿」
と、ぎゃあぎゃあと全方向から文句が沸き上がる海面を眺めながらフレアがキシに声をかける。それに頷き一つで返すと、フレアはさっさと足元に魔方陣を展開して転移し、姿を消した。
「さて、貴様ら」
ばしゃーん! と音を立て、土方が上空から降ってきた。もはや当たり前のように水面に立っている。
「遠泳訓練はこれにて終了とする。直ちに各所属へと帰還せよ」
「や、やっと終わるのか……」
げんなりと溜息をつくナツ。
セイを抱えての立ち泳ぎもいい加減疲れてきたため終了宣言は正直助かった。
「……ん?」
そこで気付く。
「あのー、帰りはどうすれば?」
「もちろん泳ぎだ。定時までには戻ってこいよ」
言いながら、土方は納刀してスタスタと水面を歩き始めた。見上げると、キシは既に姿を消していた。
『『『嘘だろ!?!?!?』』』
その場にいた鬼狩り、死神、役人、ついでに天使まで全員が声を揃えて悲鳴を上げたのだった。





