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046:青鬼・焼き鳥・大兎

 雪原を襤褸衣一つで彷徨う集団がいた。

「……あ……あ……」

「ひ、ひ、ひ……」

「カカカカカカカカカカ……」

 あまりの寒さに顎の骨が震え、歯がカチカチと音を発する。

 全身の至る所が張り裂け、滴る血も即座に凍てつきそれがさらに肉を抉る。

 辺りは一面埋め尽くす限りの白一色。不規則に荒れ狂う吹雪により上も下も前後左右も分からない。

 何故自分たちがこのようなところにいるのか、覚えている者はほとんどいない。どこに行こうと変わらないことは分かっているのに歩みを止めるという思考すら既に無く、あてどもなく雪原を歩き続ける。

 その時、ぼんやりと遠くの方で何かがはためいた。

「あ……あ……?」

 青い揺らめき。

 何百何千何万年ぶりの色彩に、集団は顔を上げる。

 誰も何も言わず、凍った雪原で脚が裂けようが構わず進む。

 それは灯りに群れる夏の蛾の如き光景だった。

 そして故事にもある通り、火に飛び入る蛾というのものは当然の末路を迎える。

「…………」

 小高い崖の際に腰かけた青白い着物の女。背丈は異様に大きく、大の大人が肩に担がれてもなお届かない。

 そして何より、血の気を全く感じない青い肌に額から伸びる一本角。


 ――青鬼。


「ひっ……!?」

「あ、あぁ……!!」

 その姿を目にした途端、人々は凍てつき失われた心に一つの感情を取り戻す。

 それは純粋な恐怖。

 その身を吹雪で引き裂かれようとも逃げなければならぬという生存本能。

 しかしそんな彼らを嘲笑うかのように吹雪は一層強くなり、彼らが目指した青い揺らめき――青鬼の手のひらに浮かぶ鬼火だけが不気味に浮かび上がる。

「…………」

 すい、と鬼火が奔る。

 それは決して目にも止まらぬ速さというわけではない。皮膚を引き裂く氷の礫と比べたら亀の歩みのようなものだった。

 しかし誰もがその鬼火が近付いてくるのを避けることも払い除けることもできず、ただじっと体に吸い込まれていくのを眺めていた。

「あ……?」


 ぱぁん!


 目の前にいた一人が弾ける。

 骨はへし折れ、肉は微塵に切り裂かれ、飛び散る血潮は紅色の花弁のように舞った。

「あ……」

 凍てついた雪原に次々と大輪の紅蓮色の華が咲く。

 悲鳴も上がらず、ただただ人間が弾け続ける異様な光景。


「…………」


 そうして後に残されたのは、幾ばくも残されていなかった生命(体温)を根こそぎ喰らい尽くして青く燃える鬼火だけだった。



          * * *



「あ、盈月様!」

「お帰りなさいませ、盈月様!」

「盈月様、本日の呵責の任、お疲れ様でした!」

 摩訶鉢特摩地獄。

 八寒と呼ばれる地獄の中で最も広大かつ寒さの厳しい区画の中で、比較的表層に古来より鬼たちが住まう集落があった。亡者が叩き落される下層と比べると寒風は穏やかで、八大から持ち込まれた消えることのない炎によって最低限の()の営みが維持されている。

 とは言え、八寒の最下層の位置することに変わりはなく、無力な人間などは集落内にいても数時間で凍死してしまう過酷な環境だ。故にこの地における上下関係は過酷な環境を生き延びるうえで絶対の法則であり、業火と苛烈さが顕著な八大とはまた違った意味で厳粛な土地柄であった。

 その中で彼らを取りまとめているのが、魔王神ン野一派が鬼頭を務める青鬼、盈月である。

「うむ。皆、大事無いな」

「はい! 丁度男衆も狩りから帰ってきたところですよ!」

「今日は小山ほどの大兎が一頭獲れたんですって! これで一月は食うに困りませんね!」

「ほう、それは何よりだ。野菜の貯蓄はどうだったかな」

「あー、そちらは少し心許ないかもしれません」

「それでは八大に融通してもらうよう頼んでおこう。大兎の腱と脂を煮詰めて膠にして持って行けば喜ばれる」

「はい、分かりました!」

 亡者の呵責から戻って来たばかりの盈月を複数の鬼女たちが取り囲み、わいわい姦しく報告を済ませ、次の指示を給わる。そうしながら盈月は獲物の加工場へと足を運ぶと、報告にあった大兎が遠くからでも見えてきた。

「ふむ、これはまた見事な大兎だ」

「お、盈月様!」

 加工場で大兎の解体を指示していた青鬼の一人が振り返る。

 身の丈八尺を超える盈月よりもさらに頭二つ大柄な青鬼は最大の敬意を声音や立ち居振る舞いに込めながら「見てください!」と誇らしげに大兎を指さす。

 小山のような、という言葉が比喩でも何でもないほどの大きさの白い毛皮の塊が集落の片隅を占拠していた。雪に紛れる色合いの毛皮も相まって、本当に突如小山が生えてきたかのようにさえ見える。

「ここまで肥え太った大兎を仕留めたのは五十年ぶりです!」

「これほど大きいと全員に新しい着物をしつらえてやってもまだ余裕がありそうだ」

「そりゃもう! 一番柔らかいところを盈月様の新しいお着物にさせますぜ!」

「いや、私は端切れで構わない。そこは子供たちのおべべにしてやってくれ」

「へへへ、了解しやした!」

 青鬼はにっこりと口の端から牙を覗かせながら微笑み、承ったと頭を下げる。

 そして盈月は「それでは私は報告をまとめてくるよ」と軽く手を振ってその場を後にした。

「盈月様、今日もお美しい……」

「それに何と優しいお方だろう……」

「俺、盈月様になら一生ついて行けるぜ」

 私邸兼事務作業用の家屋へと入っていく盈月を見送りながら、鬼たちは口々に彼女を褒めたたえていた。



          * * *



「……ぷきゅぅ」

 私邸の閂をしっかりと下ろして自室に入った瞬間、盈月は謎の泣き声を発して布団に頭から突っ込んだ。腕はだらんと弛緩させ、膝をついて尻を持ち上げる滑稽な姿勢は、つい数秒前まで鬼たちから賛美の声を受けていた同一鬼物だとは思えない醜態だった。

「これ、盈。横になるならせめて報告をまとめてからにしな」

 と、しわがれた鴉のような声が盈月の耳に届く。

 ぼんやりと億劫そうに瞼を持ち上げると、額から二本の小さな角を生やした小さな老婆の鬼が虫けらでも眺めるような目で盈月を見ていた。

「……もうやだよぉ。ウチもう頭領なんてやってけないよぅ……」

「アンタがやらなきゃ誰がやるんだいこの馬鹿孫が」

「おばあちゃん代わってよぅ……」

「アホらしい。老い先短いババアに頭領なんぞ押し付けようなんて、どこで育て方を間違えたのかね」

「老い先短い老い先短いってウチが生まれてからずっと言ってるじゃん……ずっと元気じゃん……」

「どっかの馬鹿孫がこんなんだから死ぬに死ねないんだよ。ほらほら、サボっても書類が積み重なっていくだけだよ、早くおし!」

「いったぁ!?」

 スパァン! と突き出していた盈月の尻を景気よく叩く鬼婆。現存する冥府の鬼族の中でも最強クラスの頑強さを持つ盈月が悲鳴を上げるレベルの張り手に、渋々体を引きずり起こす。

「神ン野の子倅が山ン本の小僧と現世で羽目を外したお咎めで奉公に出されちまったせいで、獄卒は上へ下への大騒ぎなんだ! 鬼頭のアンタが休む暇なんてないんだよ!!」

「なんで悪十郎様はウチを頭領なんかにしたの……ガラじゃないよぅ……」

「それについては本当にそうだね! なんで腕っぷししか取り柄がないアンタなんか選んじまったんだあのクソガキは! しかも喧嘩が強いだけで喧嘩嫌いのアンタを!」

「ホントもぅヤダぁ!」

 泣きべそをかきながら布団の横の机に着き、鬼婆が次々に差し出す書類に目を通して判を押していく。とてもじゃないが表の鬼たちには見せられない光景だが、なんやかんや歴は長いため恐るべき速度で処理済みの書類が積み上げられていく。

「まったく、婿殿がいた頃はもう少しマシだったんだがねえ」

「……。朧ぉ……」

「あ」

 しまった、と鬼婆が口を閉じた時には時すでに遅し。

 盈月は再び布団に頭から突っ込んでごろんごろんと巨大な図体を転がし駄々をこね始める。

「寂しい寂しいよぅ! 朧に会いたい朧に会いたい!! なんで修行なんて始めてんの!? ウチと修行どっちが大事なのぉ!!」

「……はあ。まあそれについても本当にそうだね。婿殿は何をやっているのやら」

 先日の神ン野山ン本両魔王が現世の瘴気に中てられ羽目を外した一件以降、山ン本に従軍していた盈月の夫の赤鬼・朧は、何を思ったか彼が管轄する阿鼻地獄に引きこもって武者修行を始めてしまった。それまでは八大で生まれ育って寒さに耐性はないだろうに妻の盈月宅で寝食を共にし、摩訶鉢特摩から阿鼻まで通うという現世の企業戦士も真っ青な通勤生活を送っていた。

 それが突如阿鼻に籠ってしまったため、ここ数日はただでさえ絶妙なバランスで保たれていた盈月の面の皮がさらに不安定になっていた。

「会いたい会いたいよぉ!」

「会いに行けばいいじゃないか」

「……でも八寒からわざわざ八大まで会いに行くって、重くない?」

「八寒から八大まで通わせていた鬼嫁が何言ってんだい」

 物理的な距離というものは地獄においてあまり意味をなさないが、感覚的には日本海側の都市から東京へ通勤するようなものだ。かなりの無茶を朧は夫婦となってから百年近く続けているため、今回の阿鼻引き篭もりについて鬼婆もあまり強く言えないでいる。朧の性格を考えると愛想が尽きたとかそういう話ではないというのは分かってはいるのだが。

「聞くところによると阿鼻の呵責は滞りなく行って、空いた時間にひたすら刀を振るってるそうじゃないか。あの頑固者が何を思ってムキになって修行してるかは知らないが、飯を食う余裕くらいはあるだろう。作って持って行ってやったらどうだい」

「ご飯……ウチ、おにぎりも作れないよ?」

「だろうね。あんたたちの食事はアタシが作ってるもんね。おかげで死ぬに死ねないよ」

「うぅ……」

「もうこの際握り飯からでいいから料理くらいは覚えたらどうだい。婿殿は多少不格好でもアンタが作った物なら喜んで食うさ」

「そうかな……」

「あの御仁が誰かが作った食べ物にケチつけるところ想像できるかい?」

「……できない」

「なら大丈夫だ。何か言うにしてももう少し塩気が欲しいとかそんな感じだろうね」

「そうかも……?」

 むくりと盈月は布団から顔を上げる。そして一瞬布団の感触が名残惜しそうな顔をしたが、すぐに鬼婆へと向き直った。

「おばあちゃん、お料理教えてください」

「あいよ。まずは米の炊き方からだ」

「うん、ありがとう! あ、朧は焼き鳥が好きだよね。おにぎりの具にできる?」

「できなくはないがまずは基本からだよ! 最初は具なしの塩むすび、それから崩れにくい梅干しだ!」

 大柄な青鬼と小さな鬼婆が連れ立って台所へと向かう。

 摩訶鉢特摩の頭領邸でのそんなやり取りを知る者は本人たち以外に誰もいなかった。


 ……なお、結局盈月の料理の腕前は握り飯を作れるところまでしか上達せず、また朧の修業が二十年も続くこととなるとは、鬼婆も予想だにできなかった。

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