043:トレーニング・ぼったくり・チョコレート
冥府――鬼狩局長、私邸。
主たるフレアが長い年月をかけてコツコツと集めてきた大正時代の大小問わず様々なアンティークが下劣にならないよう、品を保ちつつレイアウトされたちょっとした大きさの屋敷である。余暇が与えられた日にはそこで古いレコードを流しながら紅茶を嗜み、たまに甘味を摘まみつつ職務を頭の隅に追いやって読書に勤しむのが楽しみだったりする。
しかし今日この日、久しぶりの休暇を狙って訪問してきた面々への対応のため、キリキリと胃に大穴が穿たれんばかりの激痛を覚えていた。
「それでは、瀧宮家への挨拶はもう済ませているんだね。何か言っていたかい?」
隣の席に腰かけ、フレアが手ずから淹れた紅茶を口に含みながらゆるりとした笑みを浮かべるのは、墨色の狩衣に身を包んだ冥官。敬愛して止まない上官が自宅を訪れているという状況だけでも胃の腑がひっくり返りそうなのだが、その対面に座る三人の存在がフレアの神経をがんがんに削り落としている。
「いえ。父は引退して久しいですし、私もいい歳ですので。ただ『そうか』と頷いておりました。現当主には、まあ、ようやくかと呆れられてしまいましたが」
卓を挟んで冥官と向かい合う位置に腰かけるのは、美しくも品のある落ち着いた紋様の赤い着物に身を包んだ妙齢の女性。長い亜麻色の髪の毛を結い上げ簪で留め、口元にもうっすらと紅を引いているため普段とはだいぶ印象が違う。
これがかつて冥府に攻め入り大立ち回りを演じ鬼狩局を半壊させ、その後も勝手にやってきては鬼狩りたちの訓練に混じって彼らをボッコボコにしている瀧宮梓であるとは、フレアも一目見た時は一瞬分からなかった。
「あら、この紅茶いい香り。チョコレートと合わせたらもっと美味しそう。ねえフレア、お代わりいただけるかしら?」
そしてフレアの向かいに座り、鉄面皮にのほほんとした口調でずけずけと茶のお代わりを要求してくるのは死神局長のリン。こちらも今日は休暇だったらしく、いつもの辛気臭い黒いローブではなく黒地に金糸で牡丹があしらわれた着物を暗い赤色の帯でまとめていた。
「…………」
そしてこの状況にフレア以上に緊張し、見るからに血の気が引いているのが、梓とリンの間に座っている半妖の青年。フレアの部下である鬼狩りの竜胆だ。普段はラフな格好を好んでいるのだが、今日は珍しく明らかに着慣れていないスーツにネクタイを首元まで締めて窮屈そうだった。
そんな彼らが雁首揃えてフレア宅までのこのことやってきた理由というのが、
「両家に挨拶を済ませているのならば私からとやかく言うつもりはない。竜胆、梓殿。二人のご婚約、心からお祝いしよう」
……と、いうことだった。
フレアは胃痛に加えて頭痛までしてきたこめかみを必死で指で押さえる。
件の不可侵協定をガン無視して二人が日常的につるんでいるというのは何となく聞き及んでいた。そもそも梓が先日の阿鼻地獄の獄卒との決闘に備え、鬼狩局で訓練していたため、ただでさえ曖昧だった協定がさらに曖昧となっていた。フレア自身も最初の頃はことあるごとに梓を追い出していたのだが、ここ最近はもはや諦めていた。
しかしまさか二人がそういう仲にまで発展していたとは、完全に予想外だった。
「いえ、冥官様。流石にこれは如何なものかと」
水を差すようで悪いが(本当に悪いのか? とフレアは甚だ疑問である)、冥官の祝言を一度差し止める。ここでフレアまで何も言わずにうんと頷いてしまったら、本当に線引きが崩壊してしまう。
「まず大前提として、瀧宮羽黒とその周辺人物に対する冥府からの不可侵協定は如何なさるおつもりですか」
「それについては私が既に話を通しています」
答えたのは、リン。
フレアがお代わりを注いでくれないため、自分でポッドに手を伸ばして二杯目の紅茶の香りを楽しみながら、何ともなくそう述べた。
「梓には瀧宮家から伊巻家へと嫁いでもらい、表向きでの羽黒との関係性を断つということで本人から合意を得ています。そもそも彼の今の名は『白銀羽黒』ですからね。『伊巻梓』となる彼女とは見るからに無関係です」
「そんな屁理屈がまかり通ると!? あなたそろそろいい加減に――」
「そもそもあの協定は彼の妹君が真っ当に第二の生を歩むための手段でしかありませんからね。さらに言うならば彼女の存在を特例として是としたのは、今は亡き浄土管理室長が件の計画のための駒に活用するための強硬手段だったわけですし。それにあの時と現在では羽黒本人を含め、彼を取り巻く環境が激変しましたし、そこは柔軟に対応しませんと」
「……っ。それなら、もう一つの問題はどうするつもり?」
「もう一つの問題?」
カップを両手で抱えながら、こてんとリンは首を傾げる。そのわざとらしい態度に苛立ちを覚えながら、フレアは吐き捨てる。
「竜胆が家庭を持つということは、今以上に冥府から離れて現世で生活するということになるわ」
「あら、優しいのね」
「なにが!?」
「少し前までのフレアなら、現世で家庭を築こうが冥府のために馬車馬のように働け、くらいは言っていたはずだもの」
「…………。現世で嫁が働いて、今後子育てもするかもしれないのに、その旦那が夜な夜などことも知れず出歩いているらしい、なんて噂が立つのは不服なのよ。例え噂する連中が冥府と無関係の有象無象だとしても、そんなことを言われるのは冥府、鬼狩局の恥よ」
「そう。まあそういうことにしましょう」
「……話を戻すわ」
リンに出鼻を挫かれたが、フレアは一度紅茶で口の中を湿らせてから改めて話を切り出す。
「竜胆が現世で家庭を持つとなったら、竜胆の鬼狩り業務の作業量を見直す必要があるわ。でも彼は局内、いえ、冥府でも指折りの実力者。早々抜けた穴を補填できる人材はいない」
「それなら、死神局から何人か派遣しましょう」
「は?」
つるっと何でもない風に口にするリンに、フレアはぽかんと口を開ける。
「幸いにも死神局は近年人材豊富ですから。前衛職でも内勤でも、欲しい人材があれば期限付きで出向させましょう」
「そんな前例――」
「いや、それは良い案だね」
と、にこにこと二人のやり取りを眺めていた冥官が口を挟む。
「いつかの浄土管理室の組織改革のため、冥府三局から室へ死神や鬼狩りを天使として貸し出したことがあっただろう。結局アレは劔龍の一件で不要の策となってしまったわけだが、局から他部署への出向の前例には違いない。他局の業務を知ることで指導者のトレーニングも期待できる。むしろ今後は積極的に活用すべき制度であると私は考えるが、どうだね?」
「…………」
冥官にそう言われてしまうと、フレアとしては異を唱えることはできない。
「フレア様」
梓が声を上げ、膝に手を置きフレアに対し頭を下げる。
「一つ、私からも提案がございます」
「……何かしら」
頷き、話を促す。
梓は頭を上げると、意志の強い光を湛えた瞳をまっすぐにフレアに向けた。
「フレア様が私たちの関係を認めてくださるのであれば――私は死後、鬼狩りとして冥府に尽力したいと考えております」
「なっ!?」
「お、おい梓!?」
これは竜胆も聞いていなかったのか、ずっと緊張で硬直していた背筋が跳ねる。
リンも興味深そうに梓の言葉に耳を傾け、冥官も目の色が変わる。
「私の人としての寿命が如何ほどかは分かりませんが、仮に今後半世紀近く竜胆君を伴侶として現世に縛ると仮定しましょう。それほどの長い期間、彼ほどの実力者を冥府から抜けさせるという損失の大きさは理解しております。ならばこそ、せめてその後は恩返しの意味合いも兼ね、我が全霊を持って鬼を狩る任に就きましょう」
「お前、自分が何を言っているか……」
「ええ、分かってる。でもあたしからすれば、死神も鬼狩りもそう変わらないわ」
「……――っ、ったく。せめて相談くらいしてくれ」
「ごめんね。でも自分だけで決めるのは、これが最後にするから」
止めに入った竜胆が梓の瞳を覗き込み、深い深い溜息と共に姿勢を正す。その覚悟の決まった光に、もう曲げることのできない意思を感じた。
「フレア」
と、冥官が紅茶を飲み終えたカップをテーブルに置く。
「まさか彼女にここまで言わせて、まだ意固地になるつもりはないね? もしまだ迷っているというのなら、私は君の評価を考え直す必要がある。鬼狩局に単身攻め入り半壊させ、さらには阿鼻の赤鬼を戦わずに下した武の頂に到達した実力者が、鬼狩りになると私を前にして宣誓したんだ。これ以上を求めるのはぼったくりというものだ」
「……。……承知しました」
一瞬口からこぼれかけた逡巡の言葉を強引に呑み込む。
確かに彼の「最悪の黒」に対する個人的感情はどうあれ、目の前にたたずむ女傑が将来的に鬼狩りとして尽くすということ自体は大きな益となる。聞けば彼女は現世では教育者としても名が通る逸材であるそうだ。その経験が組み込まれれば、今後の鬼狩局は安泰だ。今日のフレアに対する姿勢を見れば、冥官の虎の子たる異端の鬼狩りよりよっぽど扱いに困らない。
「これ以上は私からも差し込む言葉はございません。……私からも、二人に祝福を」
「ありがとうございます」
「あ、ありがとうございます!」
二人揃って低頭する。
その光景を、疲労と緊張、ついでに激しく上下する血圧で霞んできた視界でぼうっと眺めながら、ああこれからまた忙しくなるのか、と頭の隅に追いやっていた職務が顔を覗かせた。
……結果としてフレアの想定が甘く、彼女が史上類を見ない制御不能なじゃじゃ馬鬼狩りとして歴史に名を刻むことになるのは、何十年も後のことだった。





