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039:二枚目・二枚舌・二枚貝

 冥府直轄鬼狩局――その訓練場。

「どぅらぁぁぁ!!」

「せぃやああああ!!」

「まだまだァ!!」

 今日も今日とて熱心な鬼狩りたちが切磋琢磨し、鍛錬に励んでいた。

 しかし――

「あ、お前ら何やってんだ!? 通知見てねえのか!?」

「ん?」

「あ?」

「え?」

 血相を変えて訓練場に駆け込んできた同僚に、訓練をしていた鬼狩りたちは一度手を止めて顔を見合わせる。

「今日は夕方からここの訓練場貸し切りにするって連絡あったろ! 早く片付けろ!」

「え、そんなんあったっけ?」

「あー、なんか来てたよーな」

「来てなかったよーな」

「バカ、来てたんだよ! あーもー、とにかく急げ急げ!」

 冷や汗混じりに訓練場の整理を急かす同僚に、流石に何かを感じ取った鬼狩りたちは慌てて斬撃やら術の発動痕やらで取っ散らかった訓練場の修復を始める。

「な、何があるんだっけか?」

「お前ら本当に通知見てねえのかよ……ほら、これ」

 訊ねると、同僚は支給の携帯端末の画像を表示させて訓練場の使用スケジュールを見せた。


「は……? け、決闘……?」



          * * *



 冥府には二百七十二の地獄が存在する。

 すなわち八大地獄と八寒地獄。加えてそれぞれ十六の小地獄と呼ばれる刑場に区分され、全体を合わせて二百七十二ということとなっている。

 さらにそれぞれの各刑場には罪深き亡者の魂を罰する獄卒が存在するのだが、彼らを統べる山ン本・神ン野の二鬼の魔王により計十六の頭領が配されている。

 彼らは比肩することのできる者も少ない強力な力を秘めた鬼や妖たちである。当然ながら冥府としては、地獄の刑場の管理を彼らに一任しているとは言え、そんな妖たちが一カ所に集まるようなことは可能な限り避けたいという考えがある。


 しかし今日この日、冥王閻魔の官吏――冥官こと小野篁の立ち合いの元、数百年ぶりに全十六頭領が一堂に会すこととなった。


「我々は刑場は近しいが、こう集まれる機会は恵まれてきませんでしたな」

 等活地獄――魔王神ン野一派鬼頭補佐、牛鬼賦厳(フゲン)


「冥府の思惑からすると仕方がないこととは言え、多少寂しさもありますがね」

 黒縄地獄――魔王神ン野一派客将、瑜伽大権現(ユガダイゴンゲン)神使阿久良(アクラ)


「楽しみやわあ。一体どんな闘いが見れるんやろなあ」

 衆合地獄――魔王山ン本一派鬼頭補佐、鬼女伽耶(カヤ)


「ゲハハハハハ! 血沸き肉躍る闘争は最高の肴よのう!」

 叫喚地獄――魔王山ン本一派客将、八代目酒呑童子蟒喰(オロク)


「ああ、どうか、どうか双方大きな怪我のありませんように……」

 大叫喚地獄――魔王神ン野一派鬼頭補佐、天邪鬼瓠落(カクラク)


「その鬱陶しい二枚舌をしまえ。それより、勝った方と某は闘えるのか?」

 焦熱地獄――魔王神ン野一派若衆一枚目、茨木童子黒鋼丸(クロガネマル)


「いや、闘えないからね? 今日はそんなルールじゃないからね?」

 大焦熱地獄――魔王山ン本一派若衆一枚目、山姥黒塚(クロヅカ)


 阿鼻地獄――魔王山ン本一派鬼頭、赤鬼(オボロ)……現在、不在


「いやあ、八寒から出たん久々すぎて汗が止まらへん。冥府ってこない暑かったやろか?」

 頞部陀地獄――魔王山ン本一派若衆二枚目、雪鬼夜夜是(ヨヨゼ)


「そうですか……? 元々こんなものでは……?」

 尼剌部陀地獄――魔王山ン本一派鬼頭補佐、姑獲鳥灯啼(ヒナ)


「暑いというかムシムシすんだよね。八寒の外は空気がべったりしてて不快なんだよねー」

 頞哳吒地獄――魔王神ン野一派若衆二枚目、コロポックル四鹿(シロク)


「はあ……なんでわざわざ暑い八寒の外にまで出てきてむさ苦しい決闘なんて見なきゃいけないのかしら……これなら亡者の男を漁って飾る方がもっと有意義だわ」

 臛臛婆地獄――魔王神ン野一派鬼頭補佐、氷柱女鵬祥(ホウショウ)


「姉さん、また勝手に亡者を冷凍保存してるの? そろそろ怒られるよ?」

 虎虎婆地獄――魔王山ン本一派鬼頭補佐、雪女雪亡(セツナ)


「……ふむ。この決闘、貴様はどう見る?」

 嗢鉢羅地獄――魔王山ン本一派鬼頭代行、一本だたら斧寒(フカン)


「茶番……とまでは言わぬが、結果は目に見えておろう。一度は敗れたと聞くが、彼奴が二度も膝をつくなどありえん」

 鉢特摩地獄――魔王神ン野一派鬼頭代行、なまはげ我々丸(ガガマル)


「…………」

 摩訶鉢特摩地獄――魔王神ン野一派鬼頭、青鬼盈月(エイゲツ)


 そして彼ら十六頭領を上から眺められる一段高い席にて、二鬼の魔王が鎮座していた。


「ふむ、実に壮観だな」

 獄卒鬼衆統括――魔王、山ン本(サンモト)九朗左衛門(クロウザエモン)


「しかし九朗サン、よくまあ十六頭領集める許可を冥官ドノに出させたな」

 獄卒鬼衆統括――魔王、神ン野(カンノ)悪十郎(アクジュウロウ)


「今宵は彼奴のハレの舞台。これくらいのことは山ン本の総大将として当然の手向けよ」

「はっ、いいねェ。俺もそういうのは嫌いじゃあねぇよ」

 継裃に自慢の大太刀を腰に佩くという正装の九朗左衛門は大仰に頷く。対して悪十郎は頭髪こそいつもの金髪のままではあったが、普段のチャラチャラとした服装ではなく鬼面の紋様の入った着流しを身に着け、適度に着崩していた。獲物の金棒は足元に備えてある。

 二鬼はただじっと、その瞬間を待つ。



          * * *



「…………、…………っ」

「どうしたの? なんだか辛そうね」

「あたり、まえ、でしょ……!!」

 地獄の鬼たちが百鬼夜行のように集まった訓練場の対面の席。そこに胃の辺りを抑えながら苦悶の表情を浮かべる鬼狩局長フレアに、死神局長リンはきょとんと首を傾げる。そしてフレアは今まで我慢して呑み込んでいた不平不満が爆発し、リンに食って掛かる。

「こんなわけの分からない決闘なんかにどうしてうちの訓練場を貸し出さなきゃならないのよ……! なんで毎回毎回こういうのはうちに回ってくるのよ……!?」

「どうして、と言われても。死神局や地獄局にこの規模の訓練場はないもの。それに立会人の冥官様は鬼狩局に近しい方だし、当然じゃない?」

「当然じゃない、当然じゃない! 決闘なんて認めるなって話なのよ……!!」

「え、そこからなの?」

「そもそも冥府からの不可侵協定は何だったのよ!?」

「使える時に使う便利な言い訳よ」

「それをあんたが言い出したら本当に終わりなのよ!!」

「まあそれに関してはあなたも言う通り『冥府から』の不可侵協定だから、向こうから積極的に関わってくる分には割とどうしようもないわよ」

「屁理屈!! ていうか当事者のはずの地獄局長どこ行ったの!?」

「彼、今日は局内に残って仕事してるわよ」

「逃げたなあの昼行燈!?」

 顔を真っ赤にして吼えるフレア。

 そして彼女たちの背後に控える一般鬼狩りと死神たちは「またやってるなあ」と呑気に眺めていた。



          * * *



「竜胆おじさん!」

「……当たり前のように来るなあ」

 その一般鬼狩りたちが集まって座っていた席に、一人の少女が人垣を分け入るように大柄な青年に駆け寄ってきた。

「どもども! なんだかお久しぶりって感じしないですね!」

「だろうな、お前しょっちゅう来てるもんな、鬼狩りでもないくせに……」

 はぁと大きくため息を吐くが、鬼狩りの青年――竜胆は呆れてもはや今更摘まみ出す気も起きない。駆け寄ってきた白髪紅瞳に黒いセーラー服の少女――紫はそんな竜胆の気持ちを知ってか知らずか、底抜けに明るい笑顔で隣の席に腰かける。

「勉強してこいって言われたので!」

「ああ、そう……もういっそお前の親父とか当主とかも来ちまえばいいのに。もう今更変わらんだろ」

「あー、一応話はしてあるんですけど」

 と、紫はどこか誇らしげに、嬉しそうに笑いながら口にする。

「『見に行く必要はない』ってことでした」

「…………」

 それに対し、竜胆は無言。

 竜胆自身、彼女に対して思うところがないわけではない。この数ヶ月勝手に冥府についてきては鬼狩りたちの訓練に混じって彼らをボッコボコにしているのを間近に見てきたため、その実力は把握しているつもりだ。

 しかし、しかしだ。

 今日今宵の相手を考えると、その二人のように送り出すことはできなかった。

「せめて、怪我しないようにしてくれ……」

 組んだ両手に額をつけ、誰ともなく祈るように、竜胆はそう呟いた。



          * * *



「さて、定刻だ」

 訓練場の中央に式紙が舞い、どこからともなく落ち着いた声が響く。意志を持った術式が霧のように晴れると、黒い狩衣をまとった男が立っていた。

 冥官――小野篁。

 冥王たる閻魔を例外とし、現冥府においてあらゆる采配を担う最高位の官吏である。

「本日は地獄は獄卒を取り纏める魔王山ン本九朗左衛門殿の要請により、立ち合いの場として鬼狩局に訓練場を提供させてもらった。まずはそれに感謝を」

 ちらりと冥官が視線を投げかけると、鬼狩局の席でフレアが恭しく低頭した。それを確認すると闘技場の反対側の獄卒たちに向き直り、朗々と語る。

「また地獄が今の体制となって以来となる鬼衆頭領の会合という機会に立ち会えて嬉しく思う。今後も獄卒諸氏には厳粛たる刑の執行を期待している」

 それに対し、二鬼の魔王は小さく、しかし鬼気溢れる風格で頷く。

 さて、と冥官は続ける。

「立ち合いの場にこれ以上の御託は不要であろう。早速だが、本日の主賓を紹介させてもらう。両者、入ってきたまえ」

 がちゃん、と闘技場へと繋がる東西の門に掛かる錠がそれぞれ、死神と獄卒により落とされた。


「東方。阿鼻地獄獄卒統括――朧」


 ぎぃと重々しい軋みを発し、門が開かれる。

 そこから現れたのは長身痩躯の赤ら顔の青年。墨のように黒く、荒波のようにうねる髪を脳天で縛り上げたその姿は、さながら怒髪天を衝く如し。袴の上に虎の毛皮の腰巻を巻いてはいるが、その上は鍛えられた肌を露わにしていた。上半身の守りはせいぜい腕に大ぶりな籠手を着けている程度か。

 元々は見上げるほどの巨体を誇る赤鬼である朧は今回、今日この日のためだけに人化の術を身に着けて地獄の底の底、阿鼻にて鍛錬を積んできた。

 人化した朧は人としては大柄な部類に入るだろうが、鬼としては下から数えられる程度の体躯だろう。しかしそれは不要な物を極限まで削り、搾り落とした結果である。体の大きさは其れ即ち力の強さ――そういった風潮も今なお残る獄卒において、人化という選択はあまりにも異端。だが今宵集まった十六頭領の中で最大の巨体を誇る酒呑童子蟒喰でさえ、朧の小さき肉体に密に織り込まれた鬼気に、思わず喉がごくりと鳴った。

 さらに朧の背後に付き人のように小鬼が五匹ばかり続く。彼らがやっとの思いで運んでいるのは刃渡りだけで一間(180センチ)はあろうという大太刀。今はまだ鞘に収められてはいるものの、既にそこから溢れ出す異様な気配にさしもの獄卒の頭領たちも息を呑んだ。

 そして――


「西方。月波守護の一角、瀧宮家が元令嬢――瀧宮梓」


 開け放たれた門から現れたのは、さらに小柄な女性。

 長くたなびく亜麻色の髪を一つにくくり、口元に黒いマスク、下は作務衣、上半身はさらしの上から赤地に桜紋様の着流しを羽織るだけという一見すると傾奇者といった風体の格好だった。しかしそのどちらにも強力な神獣の加護が織り込まれており、それだけで堅牢な砦のような圧迫感を放っていた。

 しかし、現れた対戦相手だという女に獄卒の大半が落胆の溜息を吐いた。

 あまりにも格が違いすぎる。

 生身の人間の術者としてはそこそこ鍛えられているようだが、人化状態で阿鼻地獄で二十年近く己の身を鍛え続けた朧にとっては赤子も同然に見えた。そもそも神獣の加護をまとってようやく対峙している時点で高が知れている。この勝負、やはり鉢特摩地獄の我々丸の下馬評通りといったところか。

 ……そんな中、朧を除く十五頭領の中で唯一、彼女と対峙したことのある衆合地獄の鬼女伽耶と魔王二鬼だけは背筋に汗が伝うのを感じていた。

「さて、立ち合いの前に確認しよう」

 冥官の声が響く。

「使用する得物、術式、戦法に縛りは無し。勝敗はどちらかが敗北を認めるまで、生死は問わず。開始の合図をしたら、そうだね、冥府に何らかの被害が出るようなことがない限り私が止めに入ることはない。それで良いんだね?」

「ええ」

「異論無い」

 事前に出された条件通りの確認に、各々頷く。

 それを見ると冥官はすっと手を掲げ――静かに振り下ろした。


「それでは……始め」


 合図とともに、冥官の姿が式紙と化して舞い散り、消滅する。そして次の瞬間にはフレアとリンの前に置かれた席に腰かけ、訓練場を見下ろしていた。

「…………」

「…………」

 両者は無言でしばし見つめ合うも、まず動いたのは朧だった。

 小鬼から大太刀を受け取ると、それを一息で鞘から解き放つ。

「え?」

 誰ともなく、声が漏れる。

 鞘の上からでもわかる異様な気配に、さぞ大層な妖刀名刀に違いないと獄卒たちは期待していた。もしや斬る前から血が滴っているやもしれぬ、いやいや刃そのものに鬼火が宿っているに違いない。

 しかし実際に現れたのは、刃毀れを起こし今にもへし折れそうなボロボロの刃だった。


「ほう……! なるほど、これは凄まじい!」


 感嘆の声を上げたのは、九朗左衛門だった。

「阿鼻地獄では時空が歪み、現世とは比べ物にならぬ時が凝縮されている。その阿鼻地獄で二十年という途方もない時間を、奴はたった一振りの太刀で修練に励んだのか」

「……正気かよ。そんな永遠みてぇな時間を亡者の怨嗟溢れる阿鼻で振るい続けたあの刃は……」

「ああ。この世に二つとない呪具妖刀となっておろう」

 さらに凄まじいのは、そのボロボロになるまで振るわれた刃に宿る呪詛や怨嗟が全て、一片も余すところなく朧のために働いているというところだ。

 地獄開闢以前からの悪霊の吹き溜まりであった阿鼻の刑場において、底に渦巻く怨恨は質も流れも千差万別。

 しかし朧は二十年という歳月をかけてその一つ一つと刃を通して対話し、刃に宿し、一つの目的のためだけに振るい続けてきた。


 即ち――目の前に立つ強者に打ち勝つ。


 朧は刃を上段に大きく持ち上げ、構えた。


 対して、その刃を興味深そうに眺めていた梓はマスクを外し、笑った。

()()()()()()()()()()()

 誰へ向けるでもなく、そう呟く。

 するとマスクは端の方から僅かばかりの金色の炎を発し、まるで紙切れのように燃え尽きた。

 もう彼女には不要となったかのように。

 その役目を終えたかのように。

 さらに梓は纏っていた着流しの襟を崩し、さらしとその下の肌を晒すかのように脱ぎ、邪魔にならないように袖に帯を通して腰に縛り付けた。

 衆目の元に露わになった梓の肉体に、鬼狩りや死神だけでなく獄卒からも感嘆の声が漏れた。


 それはさながら、研ぎ澄まされた一本の刃のようだった。


 爪の先から手腕、肩、さらに胴を通して地を踏みしめる脚にかけて、無駄な部分は一筋もない。

 美しく練り上げられた肉体という刃。

 さらにそこに宿る魔力の循環に至るまで、一部の隙も無く満ち満ちていた。

 その姿に、一時は分不相応と断じた獄卒たちは自分たちの節穴の如き目玉を恥じた。何が格が違うだ。何がそこそこ鍛えているだ。あれこそ、彼女こそ、朧が対するに値する唯一の武人であった、と。


「――抜刀、【赫鐵(カクテツ)】」


 梓が流麗に言霊を紡ぐ。

 それに呼応するように、彼女の全身に纏わりつき、彼女を縛り上げていた呪詛のような力の奔流が剥がれ落ちる。それらは一度宙を花吹雪のように舞った後、再度梓の右手の中に集まり――形を成す。


 あかくて、くろい――まっすぐな刃。


 それを中段で、相手を真っ直ぐに受け止めるように構えた。


「素晴らしいな、彼女」


 そう口にしたのを、フレアは聞き逃さなかった。

「私が生身の人間だった頃、あそこまで研ぎ澄まされていたかと思うと、怪しいところだな」

「冥官様、そんなまさか」

「おいおいフレア。君が私をどう思っているかは知らないが、買い被りすぎだ。生前の私は内裏に落書きをして嵯峨天皇に呼び出されるような悪童だったんだぞ」

「ああ、ありましたねそんな逸話……」

無悪善(悪さが無くば善けん)で、嵯峨天皇が居なければいいのに、でしたっけ」

「そう、それ。いやあ、酔った勢いでついねえ。あの時は危うく首が飛ぶところだったよ」

「冥官様もやんちゃだったのですね」

「まあね。貝合わせの二枚貝を踏んで割って木に吊るされたこともあったっけ。はっはっは、若かった若かった」

「…………」

 呑気に談笑する冥官とリンに頭痛を覚え始めたフレアは努めて視界から二人を排除する。そして各々刃を抜き、構えたまま動かない二人に目を向けた。

 自分なら、どうするか。

 そう僅かに思考した瞬間、


「がっ……ふ……!?」


 喉元に、刃が突き刺さった。


 否。


 錯覚だ。

 思わず首に手を伸ばしたが、そこには何もない。血の一滴も零れていない。

「うっ……!?」

「んぐぅ……!!」

 背後から呻き声が聞こえてきた。

 振り返ると、鬼狩りと死神の一部もフレアと同じように首を押さえながら周囲をキョロキョロと見渡している。


 その中には竜胆と紫の姿もあった。


「な、なん……!?」

「はあ、はあ……!!」

 突如として自分たちを襲った死の錯覚に、竜胆と紫は息を荒げた。

「何だ、今の……!?」

「……竜胆おじさんも感じたですか?」

「ああ、なんか、急に喉元を掻っ斬られたような……」

「紫は心臓潰されたです。たぶん、ですけど」

 ぐいっと袖で額に浮かんだ脂汗を拭い、紫は予想を述べる。

「二人の殺気に巻き込まれたんだと思うです」

「殺気に巻き込まれた?」

 首を傾げると、紫は小さく頷き視線を訓練場の中央に戻す。

「竜胆おじさん、もしかして『自分ならどう立ち向かうか?』って考えなかったですか?」

「あ、ああ。一応俺も前衛職だから、こういう場ではついそんなこと考えちまうな」

「紫もです。それが多分、ごくごく微弱な殺気となって二人に届いてしまったんだと思うです」

 大きく息を吸い込み、紫は言葉を続ける。

「達人同士の立ち合いでは、お互いに殺気をぶつけ合って最初の一手を読み合うです。どんな角度からどんな攻撃が来るか、自分はどう対処するか」

「……殺気に巻き込まれたって、そういうことか」

 今二人は殺気をぶつけ合い、お互いがどう動くかをシミュレーションし合っている。そこにうっかり観覧席から「自分ならどうするか」という殺気とも呼べない気配を発してしまったがゆえに、二人の殺気が死の錯覚として跳ね返って来たのか。

「じゃあ、今ああして構えたまま睨み合ってるが……」

「ええ。もう立ち合いは始まってるです。殺気をぶつけ合い、お互いの行動を読み合って――殺し合ってるです」

 周囲を見ると、鬼狩りや死神、獄卒にも脂汗をかきながら周囲を見渡している者がちらほらと見える。やはり皆考えることは同じで、そして見事に返り討ちに遭ったようだ。


 そんな異様な空気に満ちた訓練場で、二人は微動だにせず構えを続ける。


 瞬き一つ、汗一つ垂らす隙も見せず、己の切っ先を互いに向け合う。


 そのまま、一秒一秒と時が過ぎた。

 二人の発する張り詰めた殺気が周囲の空気を塗り替えながら充満していく。


 どれくらい過ぎただろう。


 動いたのは――朧だった。


「…………」


 上段に掲げたボロボロの大太刀が、ゆっくりと下ろされる。

「え……?」

 誰かが声を漏らす。

 もしかしたら、それはその場にいた全員だったかもしれない。

 朧は大太刀の構えを解き、床に静かに横たえて――膝をついた。


「参り申した」


 そして低く、低く、敬意を言葉に込めて頭を地に擦り付けた。

「此度の立ち合い、拙者の負けである。改めて見事であった、梓殿」

「…………」

 梓もまた構えを解き、一度大きく刃を振るう。

 すると形作っていた魔力が再び呪詛となり、梓の全身に蛇のように纏わりついた。

「そっちこそ、素晴らしい練度だったわ。人化というハンデがなかったらと思うと、ぞっとする」

「ふふふ、謙遜を。例え拙者がかつてのように鬼の姿で立ち合ったとて、此度も勝負にならぬかったであろうな」

 言って、朧は頭を上げた。

 一合も刃を交えることなく敗北を表したというのに、その顔はとても晴れやかだった。


 ――パチパチ


 と、訓練場に明るいかしわ手が響く。

 見ると、冥官が席から立ち上がり微笑みながら手を打ち合わせていた。

 その時になり、鬼狩りも死神も獄卒も、息をすることを思い出したかのように緊張し硬直していた背筋を崩した。

「素晴らしい立ち合いであった。戦わずして勝つとは武の頂に辿り着いた者の神髄ではあるが、よもや今生でそこに至った者に会えるとは光栄だ」

「……恐れ入ります」

「朧も見事であった。自棄になって斬り結ぶこともできたであろうに、よくぞ彼我を見極め、受け入れた。君ならば心配ないだろうが、此度のことに腐らず、より高みを目指すことを期待しているよ」

「はっ。精進いたす」

 梓と朧がそれぞれ頭を下げる。

 それを見届けると、冥官は「さて」と今一度かしわ手を打った。

「よもや此度の立ち合いに不満を抱くような未熟者は冥府にいないと信じているが、せっかくこうして集まる機会を得られたのだ。どうだろう、今世の至上の武人たちに稽古をつけてもらうという趣向は如何かな?」

 ざわ、と立ち合いを見守っていた観衆が沸き立つ。特に戦闘職である鬼狩りと血の気の多い獄卒の集まる席がガタガタと揺れた。

「もちろん、梓殿が良ければ、だが」

「はっ、そんなの決まってるでしょ」

 亜麻色の髪を掻き上げ、梓はクスクスと笑みを浮かべた。


「胸ぇ貸してやる。闘りたい奴らはかかってきな!」


 ワア! と訓練場に歓声が破裂する。

 我先に我先にと観覧席から訓練場に飛び降り、鬼狩りも死神も獄卒も関係なく各々の得物を片手に梓目掛けて飛び掛かった。


「はっはっは! これはいい! 助太刀いたす、梓殿!」

「最高じゃん! いくよ、朧!」


 瞬く間に歓喜と悲鳴、土埃で沸き上がる訓練場。ぐるりと見渡すと、観覧席に残っているのはフレアとリン、後は数名の事務職の死神たちだけだった。竜胆と紫さえ姿が見えない。冥官はいつの間にか訓練場を去ったようだった。

「あなたは混ざらないの?」

「んなことするわけないでしょ……」

 人や鬼が馬鹿みたいに吹っ飛ぶのをじとっとした目で眺めながら、フレアは頭痛を押さえて呟いた。

「それで、誰がこの後片付けをするのかしら」

 そんな悲嘆など誰ぞに届くはずもなく、無情に喧騒にかき消されていった。

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