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036:職人・マカダミア・ちんすこう

 黄泉戸喫(よもつへぐい)というものがある。


 本来現世にいるべき存在であっても冥府の食べ物を口にすると、現世には戻れなくなるという呪詛に近い世界の理である。

 日本神話においては、伊邪那美命(イザナミノミコト)火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)を産み落とした火傷が元で黄泉(冥府)へと落ちた際、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が救い出しに行ったものの、既に伊邪那美命は黄泉の食べ物を口にしてしまったので帰ることができないと断った。

 西洋においても、冥王ハデスが妻として女神ペルセポネを娶った際、12粒のザクロのうち4粒を口にしたことで一年の三分の一を冥府で過ごすこととなり、それが母である豊穣を司る女神デメテルの怒りに触れて豊穣がない季節――「冬」が誕生したとされる。


 つまり冥府の物を口にするということは、例え神であっても抗うことのできない穢れに侵されるということである。


 しかしそれも流石に神話の時代での話である。

 冥府の機構制定や術式の進歩により、黄泉戸喫はある程度緩和することができるようになった。そうでなくては冥府の死神や鬼狩りは現世に赴き職務を全うすることも適わない。

 とは言え、全くの無害になったかというと、決してそんなこともない。

 冥府に長く留まり、冥府の物を口にすることで多少の穢れはどうしても蓄積されてしまう。積もり積もればいつか訪れる輪廻の際に支障が生じる可能性もある。

 それを避けるため、近年では冥府に登用されている人間向けに、現世の食材を用いた食事処が設けられている。


「あー、腹減ったー」

「今日もボッコボコにされたな」

「ああ。竜胆がたまに連れてくるあのねーちゃん強すぎだろ」

「いっそ鬼狩りになっちまえばいいのにな」

 冥府直轄鬼狩局、その訓練場から繋がる連絡用通路を数人の鬼狩りたちが雁首揃えて歩いていた。

 皆一様に着ている訓練用戦闘服がボロボロで、その下から青痣や生傷、治療のために巻かれた包帯が覗いている。それでも何故か一同表情は晴れやかで、悔しさや哀愁よりも強者と手合わせできたことへの満足感が伺えた。

 良くも悪くも実力主義。

 外部の者だろうが、強者に対する敬意は払う。

 それが昨今の鬼狩りの風潮であった。

「さーて今日は何食うか」

「ガッツリ系が良いな。この前のタコライスはちょっと足りなかったわ」

「5杯も食っといてよく言うよ」

 わいわいと雑談しながら鬼狩りたちは局内の食堂へと向かう。

 そこでは普段現世勤めしている鬼狩り向けに、冥府の穢れがない現世産の食材を使った食事を提供していた。味は絶品とは言えないまでもそこそこ美味く、それよりもとにかく安くて量が多い。基本的に肉体労働という名の戦闘職が大半を占める鬼狩りたちにとっては地獄のオアシス的な存在となっていた。

「おばちゃーん、今日のメニュー何――」

 着くなりガラリと扉を開け、本日のお品書きを確認しようとして、鬼狩りたちは動きを止める。


「…………」


 入口の食品ディスプレイの前で、ウェーブの強い癖毛を背中まで伸ばした黒服の女が仁王立ちしていた。

 彼女は群青色の瞳に陶芸職人が窯の火をじっと見極めるような鋭い光を灯している。

「おい、何突っ立って――」

「は……?」

 入口で急に立ち止まった同僚を苛立ち混じりで押しのけ中を覗く。そして残りの鬼狩りたちも同様に蛇に睨まれたかのように硬直した。

 女から漂う、生ある者をどうしようもなく委縮させる「死」の気配。

 普段から冥府の陰気に浸かり、鬼を討つことを生業としている鬼狩りたちすらも畏怖させる「死」を司る官吏の長――死神局の統括が、何故かそこにいた。

「きょ、今日はやめとくかあ……」

「だ、だなあ……」

「しし、失礼しやしたあ……」

 棒読みで誰に言うでもなくそう口にし、そろりそろりと後ずさる。そして全員が完全に食堂の扉から離れると、誰が音頭を取るまでもなく、先ほどまでの訓練による疲労などなかったことのように一糸乱れぬフォームで駆けだした。


「…………」


 それを全く気にする風でもなく、否、まるで気付いてもいないかのように、死神局長――リンは変わらず真剣な眼差しでディスプレイを眺めている。

 常人ならばその視線だけでショック死してしまいそうな眼力だが、幸いにも相手はそもそも生ある存在ではない無機物だ。

 じっと、ただじっと――ディスプレイに並ぶ食品サンプルと写真を眺めていた。


「……何してるのよ、こんなところで」


 ごちん。

 頭を小突かれた。

 その時になってようやくリンは視線をディスプレイから外し、顔を上げた。

「あら、フレア」

 そして目の前に見知った顔があるのに気付くと、リンは微笑む。とは言え、鉄面皮に対外用の柔和な笑みを無理やり浮かべているためはっきり言って気味が悪い。マネキンの方がよっぽど人間らしい表情をしている。

 鬼狩局長フレアは額に青筋おったててリンに食って掛かる。

「あら、じゃないわよ! なんで死神局長が他局の食堂の前で仁王立ちしてるのよ!? 鬼狩りたちから食堂に入りにくいって苦情来てるわよ!?」

「……? 別に、ただメニューを見ているだけなのだから、気にしなくていいのに」

「あなた死神の自覚ある!? ただそこにいるだけで周囲を威圧してるのよ!!」

「そうなの?」

 こてん。と首を傾げるリン。それを見てフレアは一度大きく深呼吸し、喉から出かかった暴言をなんとか呑み込む。

「…………。なんか、あなた、変わったわね。例の一件から」

「もう気を張り詰める必要がなくなったもの。クソ室長も喰われて消えて清々したし」

「仮にも浄土を平定時から守ってきた聖人になんてことを」

「アレに良い思い出なんて欠片もないもの。あとは粛々と任期満了まで業務に当たるだけよ」

「緩めるなとは言わないけど、鬼狩局(他所)で羽根伸ばさないでくれる!? 邪魔なんだけど!!」

「ねえフレア。砕いたマカダミアナッツのかかった常設王道間違いなく美味しいチョコレートパフェと、期間限定沖縄フェアでウエハースの代わりにちんすこうが乗った塩アイスのパフェ、どっちが良いかしら?」

「知らないわよ! ていうかそんなもの食べにわざわざうちの食堂に来たの!? 自分の局で済ませなさいよ!?」

「沖縄フェアをやってるのはここだけじゃない」

「なら塩パフェ食べてとっとと帰りなさい!」

「でもいざ来てみると王道のチョコ味も捨てがたいのよね。ねえ、どうせならシェアしない?」

「帰れ!!」

 今度こそ我慢できず、フレアはビリビリとディスプレイのガラスが震えるほどの怒号を発する。しかしリンはどこ吹く風でフレアの手を掴み、奥へと引きずりながらパフェを二つ注文したのだった。



          * * *



 後日。

「えー、冥官殿から伝達でーす。『君のプライベートにまで口出しするつもりはないが、一般鬼狩りも利用する公共の場で他局の長と連れ立つと畏縮する者も多い。注意されたし』だってさ。……え、ナニコレ。お前さん、何かやったん?」

「なんで私だけ……!?」

 上司の補佐官の一人が苦笑交じりに持ってきた書簡を前に、フレアは歯ぎしりしながらデスクに拳を叩きつけていた。

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