035:麦フラッペ・試験勉強・謎の声
その夜、白羽は珍しく缶ビールを開けていた。
しかしホムンクルスである白羽の肉体にアルコールは効果がない。彼女の専任技師が毒物無効化とかいう過保護な機能をいつの間にか搭載させていたため、体に吸収される前に勝手に分解される仕組みになっていた。さらに言うなら肉体年齢三十を目前にして子供舌であるため、酒がそんなに好きではない。
それでも今日ばかりは飲まずにはやっていられなかった。
「…………」
ビールをずるずると啜りながらモニターに表示させた駄文を眺める。
それは大学の学生用ポータルサイトを利用して提出させたレポートだった。
瀧宮白羽、29歳既婚、職業は大学講師。
それだけ見ると人生勝ち組な肩書きだが、そもそも白羽は今の職に就くにあたり、何か志やら大きな動機やらがあったわけではない。
大学卒業を機に瀧宮家としての本業に専念しようと考えていたのだが、さあてそろそろ卒論に手を付けようかという頃合いで実兄羽黒から衝撃的な話を聞かされたのだった。
『そういやお前、卒業したらどうするか決まったんか?』
『え? 普通に瀧宮の稼業に就きますが』
『それは裏の話だろ。表向きの肩書どうすんだって話だ』
『表向きの肩書……?』
『……「大峰」は旅籠、「兼山」は道場、「隈武」は料亭、「穂波」は先代は公務員やってたか。「瀧宮」なら土木建築屋、みたいなやつだ』
『え、白羽、当主になったんですから自動的に土建屋に収まるんじゃないんですの?』
『なわけねえだろ。表は表、裏は裏だ。そんな天下りみてえなシステムはない。親父殿も若い頃に平社員で入社して下積み重ねて、ようやっと社長職に就いてんだ』
『…………』
『だから土建屋の表稼業に就くかはあくまで本人の自由意志、裏稼業に支障が出ない範囲でなら何したっていいんだが……その様子だと、就活全くしてねえな?』
『どどどどどどどどうしましょう!?』
『春から家事手伝いおめでとう』
『そんなニートみたいな肩書ヤあですわああああああああ!!』
かくして羽黒に泣きついたところ、とりあえずの処置としてありったけのコネをもってすでに締め切られていた院試の申し込みに強引に滑り込み、2年間の大学院生という延命措置をもぎ取ったのだ。
さらにそこからあれよあれよという間に瀧宮の頭目としての多忙な日々が過ぎ去る傍ら、大学院生として調査や論文執筆に勤しんでいた。そしてある日気付くと、いつの間にか研究室内でそこそこ重要なポストの椅子が用意され、いつの間にか修士どころか博士課程まで修め終わり、いつの間にか研究者として大学に勤める側になっていた。
……実際のところは院でも博士課程でも白羽がその身の振り方を決められず、うだうだしていたら羽黒が裏で手を回した結果用意された椅子なのだが、流石に恥ずかしくて表立って礼も言えないでいる。
ともかく、そんなこの世の終わりのような消極的な経緯で就いた今の職ではあるが、就いたからには、また散々周囲に迷惑をかけたからには少しでも恩を返そうと、白羽の勤務態度は好評だった。
人当たりが良いため同僚からの受けも良く、研究室の学生には慕われている。飲みの場には自分から来ることは少ないが、誘えば付き合いは悪くない。若い女性ということで一部の教授からも気に入られていた。
そして今年からは講師としての役職も与えられ、教鞭をとることになった。
が、これが思ったよりも大変な作業だった。
カリキュラムの設定に講義で使用するレジュメの準備、さらに受講生の単位の管理など、やることが多い。
一部は研究室の学生に手伝わせることも可能だが、大部分は白羽自身で作業しなくてはならない。昨今では出欠確認を学生証内蔵のICチップから行えるようになったため、これでも作業量は昔より減ったという。
そして白羽が請け負っている講義の一つが、学部1年2年生向けの一般教養科目である「民俗学の基礎」だ。一般教養とは「大学4年間のうちに合計で規定数の授業を自分で選択して、それぞれの試験に合格すれば卒業できるよ」というものだが、その性質上、授業内容に興味がある学生が集まる。……とは、表向きの話。
実体としては、半数近くが「興味はないけど単位取らなきゃいけないから受講する」であり、さらに言うなら「3年になっても一般教養の単位が足りないから仕方なく受講する」なんて輩も含まれる。
そして多分に漏れず、白羽の担当した講義の受講生も多くがこれだった。
特に去年までこの講義を請け負っていた前任のおっさんが、いわゆる「ちょろい講義」を執り行っていた。曰く、出欠確認無し、試験無し、レポートの提出のみで超楽。そんなことが口伝によって新入生にも伝わり、今年もわらわらと有象無象が群がっていた。
実際に白羽も学生の時はこの講義を受けたはずなのだが、記憶にも残っていない。それくらい印象の薄い講義だった。
かつて一学生であった白羽としても、こういう講義が学生にとって救済になることは重々承知している。そもそも今年初めて教壇に立った身である。不慣れなところもあっただろう。話し方が下手くそで退屈を感じさせてしまうこともあっただろう。だから、私語については徹底的に排除したが居眠りについては大目に見た。出欠確認はシステムを活用してきっちりさせたが、それ以外はこれまでのカリキュラムの通例に沿ってレポートの提出を単位の可否の六割に設定した。他の講義の試験勉強に割きたい時間もあるだろうから締め切りも緩めに設定した。
だのに。
「なんじゃこのクソみてぇな読書感想文なレポートは……!」
ビールの缶を握る手に力が入る。
締め切りに設定した日付の23時になってぽこぽこと溢れるように提出されてきた100件を超えるレポート群。それをSDカードに移して持ち帰って来たのだが、流し読みするだけで眩暈がしてきた。
「誤字脱字のオンパレード、何が言いたいかはっきりしない、そもそも日本語としておかしい、授業と関係ない話題に挿げ替える、レポートのテンプレの使い回し、なんなら過去のレポートのコピペが出回ってる……! カレーの美味しい作り方なんて書いてきたバカはどこのどいつだ!?」
キエェェェェェ! と瀧宮家当主の自室から謎の奇声が上がるも、使用人は誰も様子を見に来ない。夫であり大学関係者としては先輩である快斗があらかじめ「レポートの採点で発狂するだろうが職業病の類だから気にしなくていい」と通達した結果である。
デリカシーは皆無なくせにこういうところは気が回る、と白羽はさらに苛立ちを募らせた。
「もーやだよぉ。なんですのこの不毛な作業……バッカじゃないの、バッカじゃないの、馬鹿じゃないんですか?」
ついに言葉遣いが乱れ始めたが自分では気付かない。
さらに酔いもしないのに酒に手が伸びる。こんなの飲まずにはやってられない。
そして十四人目のテンプレ使用者と美味しい肉じゃがの作り方を提出してきた者へ下す処断を決定し、本日4本目のビールに手を伸ばしたところで
――ぱきん
自室に冷気が溢れた。
ビールが瞬く間に凍り付き、麦風味の不味いフラッペになったところで白羽は振り返る。
「…………あ…………ごめん、なさい、白羽ちゃん……お仕事、邪魔しちゃった…………?」
「……………………」
空間を引き裂いて目の前に現れたのは、黒いセーラー服に赤いマフラーを巻いた薄水色の髪の少女。
紅蓮の魔王こと、野薔薇凛華である。
「……えと、そ、の…………か、帰る、ね…………?」
「……………………」
刳り貫いた空間の穴に身を投じようとした凛華の肩をガシィ! と掴む。
そして。
「グレンちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああ!!」
小柄な魔王を小脇に抱え、奥の寝室に拉致する高身長アラサー白髪女。
子猫のように抵抗する凛華を全身全霊の異能を以って押さえつけながら、白羽はなんやかんやとなんやかんやする。
「こら暴れるな! スカート脱がせにくいでしょーが!」
「ひゃ、白羽ちゃ、そこ……だめ、……!」
「可愛いなあ可愛いなあ! グレンちゃんグレンちゃん、ああ、グレンちゃんは可愛いですわねええ!! もっと撫でさせなさい、もっと舐めさせなさい!!」
「ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ…………!?」
……そしてなんやかんやと小一時間後。
「ふう、さっぱりしましたわ。さーて、もうひと踏ん張り頑張りますわー」
「…………はあ…………はあ…………はあ…………」
「グレンちゃん、これが終わったら改めてお茶しますわよー」
「…………白羽ちゃんが、良かったなら…………もう、それで、いいかな…………」
可愛い成分をたっぷり堪能した白羽は再びデスクに向き直る。
寝室には揉みくちゃにされて息が上がった凛華がぐったりと横たわっていた。





